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カツカツと何かを記入する音が室内に響いている。
それからパラリと本を捲る音と、シャッシャッと消しゴムを掛ける音が時折混じる。
桂嗣に与えられた勉強机に向かい、早3時間。
休憩どころかトイレにさえ立つこともない架愁に、俺は小さく溜息をついた。

「……暇だな」

本当なら昼寝でも楽しみたいところだが、目の前でこれだけ必死に勉強されると其の気も失せる。
というよりも、音が気になって眠れないのだ。
其れに昼寝していたことが桂嗣にばれれば、又面倒くさいことを言われるだろう。
別に架愁に口止めしても良いのだが、其れはそれで俺が桂嗣を怖がっているように思われる気がして嫌だから。

「……便所」

報告義務があるわけでもないが、ただ何となくボソリと呟く
架愁からの返事はないけど、まぁ独り言と同じだから気にしないでおく。
ゆっくり立ち上がれば、椅子代わりにしていたパイプベットが小さな悲鳴を上げた。


***


架愁が此のアパートに来て2ヶ月が経った。
隠し部屋に監禁するほど、義弟に執着していた巽。なら直ぐに迎えを寄越すかと思ったが、そんな様子は未だに見られない。
桂嗣も桂嗣で此れといって今までの生活を変えることもなく、誰よりも早くに起きて飯の用意を済ませ仕事に出て行く。

『2人で仲良くしているンだぞ』

なんて。お前は俺たちのオヤジかと突っ込みたくなる台詞。
そう言いながらも、仕事を終えて帰ってくるのは夕方。架愁を預かったからといって早く帰ってくるわけでもない。
2人で暮らしていたときから目に見えての変化といえば、俺の部屋に勉強机が設置されたコトくらいか。
読み書きは全て平仮名のみ。数学ではなく算数の世界。
きっとあのニセモノのソラと花畑を与えていた巽が、それ以上は必要ないからと教えてこなかったのだろう。
つまりはあの世界から出すつもりがなかったということ。
其の、自分で生きるすべを与えられては来なかった架愁の為に、桂嗣が用意した机と沢山の本。

『今の架愁に必要なものですからね』

俺の部屋に独り増えただけでも狭いっていうのに、勉強机なんて置けるかよ! そう怒鳴った俺に、冷静に答えた桂嗣の目は何処か悲しげだった。
此の先、生きていくのに最低限必要な知識を得る方法。
其れを与えるという事は、巽が迎えに来ることはありえないということを桂嗣は知っているのだろう。
俺は、未だに『何故架愁が此処に来たのか』さえも教えられてはいないけど。


***


「オレンジジュース切れてたから」

飯を喰うのも風呂も、歩くことも話すことも遅い架愁が、唯一勉強机に向かっているときの手の動きだけが倍速に変わる。
にこにことした人形のような表情も掻き消えて、只目の前に並ぶ文字を、数字の羅列を追いかけて。
初めて見たときには、人格が変わってしまったのかと想ったほどだ。

「あ、ありがとう」

牛乳に氷3つと砂糖を少し。俺が姉貴と住んでいた時に、良く作って貰った飲み物だ。
邪魔にならないように、机の端に……肘で落とさない程度の場所に置いてやれば、僅かに視線を此方に向けた架愁がにこりと笑った。
其れから視線を本にと戻し、表情も先程同様に失わせてしまう。
無表情。頬も口も眉も動かない。移動しているのは視線のみ。
そんなに真剣に何やってんだ? と架愁の頭越しに盗み見れば、なにやら二次関数をがりがりと解いているのが判った。
つい此の間までは掛け算や割り算の勉強をしていたはずなのに。
……抜かされるのもそろそろか? 思わず口の中だけで呟き、見なかったことにしようとパイプベットに座った。

『今日は天気が良いから洗濯日和だ』

家を出る前に桂嗣が言っていたけど、そういえばアレは俺に洗濯しておくようにってコトだったのだろうか。
いや、頼まれていないからしなくても良いだろ。うん、やらないぞ。
座っているだけってのも面倒くさくなり、ばたりと後方に倒れこむ。
窓を開け放した部屋。太陽の匂いをしみこませた布団が心地よい。やっぱ昼寝しようかな、なんて考えて。
コトリ、と机に置きなおされたマグカップの音に、架愁の勉強の手が止まったことに気がついた。

「今日の分は終了か?」
「うん、一応ね」

あくびをかみ殺しながら尋ねれば、どうやらくすくす笑っているらしい声が聞こえた。
なんだよ、俺がソンナ変な顔し立って言うのか。
此れが桂嗣なら怒鳴るところだが、架愁が相手ではこちらが怒ったところでキョトンっとした表情を浮かべるだけで張り合いがない。
笑うなら笑え。そう想いながら、仰向けの状態からごろりと横向きに変える。

「勉強、そんなに面白いのか?」

別に深い意味を持ったわけでもない言葉。
無言の間を潰す程度の気持ちで尋ねれば、椅子に座ったまま此方を見ていた架愁と目が合った。
傷ついた、目。

「……悪いっ」
「僕にはね、知らないことが多すぎるから」

触れられたくない部分に触れてしまった。
慌てて謝罪しようとして、何処か冷めた口調の架愁の詞にさえぎられた。

「何にも知らなくていい。お兄ちゃんだけの世界では、もう居られないから」

そっと寄せられた眉。悲しい色合いの瞳。なのに、声だけはやけに冷たくて。
感情と思考が、全く別の方向に向っているかのような感じで。
なんとなく見ていられなくて、俺はちょっとだけ架愁から視線を外した。


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