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うだるような暑さ。汗を拭いながら、アパートの扉を蹴り上げる。
ガコン、っと盛大な音を立てれば、扉の向こうから桂嗣の怒鳴り声が聞こえた。

「稜! お前は何でいつもそうやって開けようとするんだっ。合鍵渡してあんだろーが!」

ガチャガチャと乱暴に鍵を外す音。毎回のコトながら、本気で怒っているようだ。
桂嗣と初めて会って1年。奴はこの街が気に入ったからと、小さなアパートの一室を借りた。
短期間の用兵なんかで荒稼ぎした金は、何時かの為に蓄えているらしい。
家に居場所を失くした俺は、いつも此の部屋に入り浸っているけれど。

「桂嗣、部屋空いてないか?」
「……ハ?」

扉が開き、恐ろしい顔の桂嗣が顔をだす。長い説教が始まる前にと、俺は慌てて口を開いた。
意味が判らない、という奴には珍しい間抜け面を一瞬だけ見せて、次の瞬間には眉間に大量の皺を寄せる。
取り合えず暑いから入れと促され、安いアパートとは思えない空調の整った室内に入った。
もともと付属いたという皮製のソファは埃臭いが、俺としては其の古臭さがお気に入り。
いつものように勝手に座って、呆れ顔の桂嗣に話し始めた。
「姉貴がさ、プロポーズされたんだって」
「へぇ、おめでとう。あの稼ぎの良さそうな彼氏だよな」
背凭れに腕を乗せ、肘掛には足を乗せる。少々不恰好では在るが、一番落ち着く体勢なのだ。
そんな俺を一瞥して、桂嗣は何処で買ってきたのだか判らない銀の豆轢きを取り出した。
小さなアパートに似合う、部屋の僅かなスペースを埋めるようにして作られた小さな台所。
コーヒーを入れてくれるらしい。上の棚からごそごそとコーヒー豆を取り出して轢き始めた。
「あぁ。でも断ったみたいだ」
「そうか、まぁタイミングが合わなかったのかもな」
下を向いている桂嗣の表情は、俺からではよく見えない。
でもどうせ、何てことないような顔を作っているんだろう。俺が続ける台詞くらい、もう判っているだろうに。
知らない振りを決め込む桂嗣に、俺は敢えて大きく舌打ちをした。

「ンな訳ねぇだろ。姉貴は元々結婚願望強い方なんだから。……俺が成人するまでは結婚しないつもりなんだよ」

いらいらと吐き捨てた言葉。
桂嗣はようやく豆轢きから視線を俺に移し、嘘吐きの表情を作った。


***


赤ん坊ってのは、なんでコンナに柔らかいンだ?
まるで蛸。しかも茹でる前。うにうにと俺の膝で遊んでいる物体に、俺は小さく溜息を付いた。
「桂嗣、もう一時間は過ぎたぞ」
「だからどうした」
「30分でお守り交代だって言ったじゃねぇかよ」
桂嗣の部屋に転がり込んで早2年。 流石に2人で住むには小さ過ぎると此の部屋に越したのは、転がり込んだ翌々月だったか。
俺の膝を涎て汚す物体の首根っこを掴み、向かいのソファで本を読んでいた桂嗣にひょいと投げる。
茹でる前の蛸は遊んで貰っていると勘違いしたのか、きゃらきゃらと笑い声を上げた。
「稜、赤ん坊をボールみたいに投げるンじゃねぇっ」
ナイスキャッチで蛸を受け取りながら、桂嗣が怒鳴った。
「ぅきゃぁう……」
投げられる事はよくても、怒鳴り声は嫌いらしい。
蛸が急にしゃくりあげ始め、俺たちは慌ててテーブルにおいてあった赤ん坊用玩具に手を伸ばした。
此の間のように泣き出されては、次こそ隣の部屋から苦情が来てしまう。
カラコロと間抜けな音を耳元に近づけ、蛸の表情の変化一ミリも見逃さないように固唾を呑んで見守る。
大きな瞳をキョロキョロと動かして数十秒。蛸はようやくなく寸前の顔を笑顔に変えた。

「ったく、桂嗣が怒鳴るから……」
「それ以前に投げるから悪いンだろうが」
「お守り交代は30分の約束だった」
「其れは稜が勝手に決めた事だろ。朱音さんは、初めからお前にお守りを頼んで行ったんだぞ」

赤ん坊を抱きかかえながら、未だ生え揃っていない髪の毛を手で梳かす桂嗣。
似合っているんだから、良いじゃねぇかよ。
本当のコトを言われてしまい、反論を含めて口の中でもごもごと吐き捨てる。
だが桂嗣には聞こえなかったようで、当たり前のように俺の膝へ赤ん坊を乗せた。
「頑張れよ、稜叔父ちゃん」
ついでとばかりに俺の髪もくしゃりと撫で、嫌な台詞を囁く。
そして俺が文句を言う前に、赤ん坊用のジュースを作るからと、台所に行ってしまった。
「……俺はおっさんなんかじゃねぇ……」
出来れば怒鳴りつけたいけれど、先ほどと同じことになっては困る。
俺はぼそりと呟き、俺の指をしゃぶり始めた赤ん坊の頬を軽くつねった。
痛くはない程度。だが邪魔だったらしく、顔を横に振る。
では変わりにと人差し指で頬を撫でてやれば、其れは気に入ったらしくにこにこと笑った。
目尻の下がったところは、姉貴似だろうか。少々突き出し気味の唇は旦那に似ているのだろう。
周囲に祝福されて生まれた存在。
……コイツの未来は、幸せに満ちていてくれるだろうか?

『幸福の瞬間に全てを終わらせる事ができれば 其れが最高の幸せなんだ』

悲しげなメロディ。
頭の中にいる存在が、何度も囁いた台詞。
可哀想な彼に、幼い頃は同調してしまってはいたけれども。

この暖かな存在を、其の未来を、勝手に消す事は出来ない。

不意に生れ落ちた想い。
長い約束を、破棄しようと決めた瞬間。
頭の奥から始まった鈍痛に、彼の怒りに、俺は顔をゆがめた。


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