毎日の鍛錬を怠らない童輔は、次なるトレーニングにと行ってしまった。
独りになったまろは、玄関の鍵が開いているからと悪いだのと、誰にも声を掛けずに外に出掛けた。

「朝の空気は旨いのぉ」

茶と菓子で満たされた腹を擦りながら、未だ静かな朝の街中を独り歩く。
昼間なら額に大粒の汗を作るこの季節も、早朝であれば過ごしやすい。
雨が降ったわけでもないだろうに、道の端に咲く花は露に濡れて。子供らしくその飛沫を手で撒き散らしながらも、ゆるやかに歩いていく。
行先なんて決まっては居ない。何処へ行くわけでもなく歩く事が、何よりも幸せ。
外装を気遣った街の風景。わざと緩やかに曲がらせた歩道。飛び石を踏んで越える小川。
まろが住む芦螺(あしら)も、同じような創りになっているけれど。やはり中心都市と呼ばれるこの街は、芦螺よりも更に見目良く設計されているようだ。
もう少し遅い時間であれば、氷屋や菓子屋なんかにも足を運べたのにと、先ほど饅頭を食べたばかりのクセに残念がる。
まぁ良い、どうせ宿舎に戻れば朝食だ。もし早すぎれば、二度寝でもしよう。
其処まで考え、まろはクルリと踵を返した。

「何用じゃ?」
振り返りざま、先ほどから感じていた存在に訊ねる。

「おや、バレていましたか」
まろに気づかれていたなんて承知の上だったのだろう。何もない筈の場所から、鬱灯が姿を現した。
おどけた口調でそんなことを言いつつも、口元を歪ませている。
「アレだけ殺気を込めた視線で睨まれれば、例え赤ん坊でも気がつくぞ」
寧ろ子供だからこそ、その視線の痛さに体が悲鳴を上げるのかもしれないけれど。
大人ぶって肩をすくめ、ついでに溜息も吐いて見せる。だがそんなまろの態度を気にするはずもなく。
「判っているでしょう? 貴方がコロシタ天使の話ですよ」
鬱灯は目をぐっと細めて笑顔を作り、その場で身体をふわりと浮かせた。
地面から数センチ上空。体を少し曲げ、まろを旋毛から覗いているような体勢をとっている。

「……天使が、どうした」

冷静さを気取りつつも、声が震えた。
天使のコトを、忘れていたわけではない。桂嗣に聞いたのは、数時間前のこと。
否。たとえ何日経ってからだとしても、勿論それ以上だとしても、忘れられるはずがない。
掌には、今も羅庵に手当てを受けた包帯が巻きつけられ。強く握れば、傷なんて殆どないはずなのに、痛くて。

「何故、コロシタのですか?」
さらさらと流れる長めの横髪。それとは異なり、粘着質な声。
冷ややかにも感じられるその視線は、まろの奥に居る何かを覗き込もうとしているような。
「まろが、コロシタわけではない」
真相を探られそうで、まろは出来る限りの冷たい声を出した。
己の体が天使を傷つけたのは本当だろう。だが、それはあくまでまろの意思ではない。
この身体を勝手に動かしたのは。

「海堵、ですか」
嬉しそうな鬱灯が、まろの台詞を奪った。

無意識の内にイシを握っていたほうの手……包帯を巻かれている側で拳を作る。
何だというのか、この大人は。子供の気持ちに鋭いつめを立てて楽しんでいるような。
其れとも、長らく暇をもてあましていた子供が新しい玩具を手に入れたような発言。別に、怒鳴るほどのことでもないけれど。
「あぁ。せっかく捕まえられた犯人だというのに、悪い事をしたのぉ」
怒鳴るほどの事でもないから、まろはあえてのんびりとした口調で答えてやった。
しかし表情は固めに、ぐっと首を反らせて鬱灯の顔を睨みつける。
まさかそんな反応をされるとは思っていたなかったのだろう。鬱灯が宙に浮いたまま、くるりとターンをしてにたりと笑った。

「なかなか言いますね。未だ未だ子供だと思っていましたのに」
「まろは未だ10歳児じゃ。お主の精神年齢が低すぎるだけであろう」
「おや、頭の良い言葉を知っているのですね」
「此れで頭が良いというなら、お主がよほど言葉を知らないだけじゃ」

楽しげに答える鬱灯に、まろは桂嗣の吐きそうな言葉を想像し口に乗せていく。
どうにか不遜に言い放てば、鬱灯が又も口の端を歪ませた。
気味の悪い笑顔。
視線を合わせているだけでも、背中に冷たい汗が流れる。
睨む顔を反らせたいけれど、僅かでも視線を外せば、その瞬間を狙って喉元を噛み付かれそうな。
笑顔を浮かべているはずなのに、まるで獰猛な獣を相手にしているような錯覚をおぼえてしまう。

「仕事の邪魔をしたからと、文句でも言いに来たか」

ドクドクと鳴り響く心臓を誤魔化すために、堂々と言葉を綴る。
そういえば童輔は此れについて何も訊ねては来なかった。聞けば一番最初に食いついてきそうなのに。
もしかすれば桂嗣あたりが気を使い、他の者達には言わなかったのかもしれないけれど。
何処かで罵倒されたら、何て答えらようか。鬱灯を相手にするような答えを、他にも話せるか?
下らない自問自答。まろは鬱灯を睨みつけながら、軽く唇を噛んだ。


***


「お、まろ様。こんな朝から何処行ってたんだ?」
「散歩でもしようかと思ってのぉ。羅庵こそ早いな」
「俺は桂嗣に頼まれて、まろ様を探しに」

鬱灯と別れ、なんだか散歩を楽しむ気分でもなくなり、部屋に戻って二度寝でも楽しもうと宿舎に向かっている最中。
寝癖を着けた髪をぐしゃぐしゃと掻き乱している羅庵と出くわした。
いくら実年齢的には年寄りだといえ、早すぎるのではないか?
暗に訊ねれば、羅庵は隠すことなく『まろが一人で出掛けたせいだ』と答えてくれた。
「それはそれは、悪かったのぉ」
あまり悪びれた様子もなく、ぽけぽけと笑ってみせる。 実際悪いなんて微塵も思っては居ないけれど。
羅庵もそんなまろの気持ちなどお見通しなのだろう、口の端を上げて笑った。
何故だろうか。鬱灯も口の端を歪めて笑うのに、羅庵とは受ける印象が此処まで違う。
単純に苦手意識があるせいだろうか? 判らないけれども。

「ん」
「何だ?」
「まろは疲れた」

急に立ち止まり、羅庵に向かって両手を上げてみせる。
ついでに疲れたことを示すために、眉間に皺を寄せて口をへの字に曲げてやる。擬音で現すならモーン。
そのまろの顔があまりに面白かったのだろう。いつもなら一言二言、なにかからかいの言葉を掛けてくる羅庵が。
「……ぶはぁっ」
大きく噴出し、即座に背中に乗せてくれた。




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