ゆるりゆるりと浮き上がってくる意識。
身体は未だ眠っていたいと訴えているのに、頭が眠る事を拒んでいる。
それともこれ以上、自分以外の記憶を見たくないと脳が嘆いているのかもしれない。
「……下らぬ」
誰にともなくつぶやき、まろはそっと瞼を開いた。
真っ暗な室内。瞬きを繰り返すうちに目が馴れ始め、ぼんやりと天井が見えた。
熱があると言われたはずだが、身体は妙にすっきりとしている。
眠る前に食べた雑炊と、羅庵特製の薬が効いたのか。毎回ならが見た目の悪い特効薬を思い出し、眉をひそめた。
胃を満たし、手を治療して貰い。再度眠りに付いてから、一体どのくらい経っただろう。
誰かが傍に居てくれれば訊ねようもあるが、今は個室に独りきり。
もう一度眠ろうか。ゆっくりと目を閉じるが、全く眠れそうにない。
「散歩でもするかのぉ」
個室という事は、深夜に出かけても誰にも気づかれないということ。勿論、桂嗣が様子を見に来る可能性もあるが。
その時はその時。厠に行って部屋がわからなくなったとでも言えばいい。
此れは此れで良かったのかも知れないと前向きに考え、まろはそっと布団から這い出した。
***
深夜だと思っていたが、実は早朝と呼べる時間帯らしい。
部屋を出てぽてぽてと廊下を歩いているうちに、窓の外が明るくなってきた。
朝日が昇る時刻という事は、4時過ぎくらいだろうか。
音を立てないように窓を開けると、爽やかな風が吹き込んだ。
「気持ちが良いものじゃ」
小さく呟き、外に出られないかと下を覗き込む。
だが残念ながら、此処は4階に位置するようだ。しかも足場がないので、降りる事は難しい。
足場が有りそうな処を探して降りるか、最初から玄関に向かうか。
考えて、結局その場から飛び降りる事に決めた。
栗杷なんかに言えば絶対に信じないだろうが、最近のまろは本当に身軽だ。
力の使い方が上手くなったのか、はたまた此れが単純な成長と言えるのか。
判らないけれど、ぐっと身を乗り出す。
さぁ、今こそ飛び出そう。意味の判らない掛け声とともに、窓から足をだす。
「何処に行く気や?」
其処で突然、背後から声を掛けられた。
「ぅにょっぁ」
前回のような失敗はしないよう、気をつけなくては。注意していたのに、まろは驚きのあまり体勢を崩した。
いかん、此れではまたも頭からの着地になってしまうではないか。
しかも今回は親切な天使もいないというのに。一体誰じゃ、まろに声を掛けたのは!!
間抜けな悲鳴を上げ、此の後やってくるだろう衝撃に耐えようと目を閉じる。
だが窓の外に飛び出す前に、声の主がまろの襟首をぐっと掴んだ。
「なんや、危ないな〜。自殺願望でもあるんか?」
「ぐっぃ、げっほがっほ……」
後方より襟首だけを掴んで廊下に引き戻されるということは、一気に首を絞められるということ。
声の主が手を離したと同時に、まろは廊下に倒れこんだ。咳込むまろの背を、誰かが優しく擦る。
どのくらいか咳き込み、ぜぃはぁと落ち着いてからまろは視線を上げた。
「……童輔よ、助けるときはもう少し優しくせぃ。護者としては手荒すぎるぞ」
泪の溜まった目では、声の主がぼやけて見える。だがこの独特の言葉遣いは、童輔しかいない。
袖でぐぃと泪を拭いて立ち上がれば、童輔がくしゃくしゃと頭を撫でてきた。
「悪い悪い。手が勝手に動いてん」
全く悪びれた様子もなく謝る童輔の手が、更にまろの髪の毛を乱す。
まぁ助けてくれた相手に文句をいうのもなんだが、もともと落ちかけたのも急に声を掛けた所為であり。
もう少し文句を垂れようかと思ったが、毒気のない笑みに、まろも仕方ないのぉと笑って見せた。
***
「ところでお主、こんな時間に何をしておるのじゃ?」
手荒い助けのお詫びに菓子をくれるという童輔に連れられ、訪れた2階の小さな食堂。
良いのだろうか。童輔は勝手に入り込み、饅頭を2つとほうじ茶を出してくれた。
甘いものと茶は大好物。まろはそそくさと椅子に座り其れを楽みつつも、一応の会話として訊ねた。
「あぁ、朝練しとってん。全部の棟の廊下をマラソンコースと考えて、毎朝3周」
「な、中々頑張るのぉ」
「身体創りが基本やしな。なんなら一緒にやるか?」
「え、遠慮するのら!」
きっぱりと言い切ったまろに、甘いものが得意ではないからと饅頭に手をつけない童輔が笑った。
年はまろより2・3歳上な程度なのに、どうも子ども扱いされている気がする。
実際子供だから、子ども扱いで間違ってはいないのだけれど。あまり年の変わらない相手だと別だ。
ぷっくりと頬を膨らませれば、どうやら逆効果だったらしく更に笑われてしまった。
「ンで、お前は何しとったんや?」
そんなに笑うなら、呼吸が止まるまで笑えば良いのら。
饅頭を口に溜め込みながら拗ね始めたまろに、未だくつくつ笑っている童輔が話題を振ってきた。
「別に。目が覚めてしまったから、散歩でも行こうと思っただけじゃ」
「朝練じゃなくて?」
「散歩は散歩。ぼんやりと風景を楽しむつもりだった」
「……噂に違わぬ年寄りだな、お前」
「まろは未だ10歳じゃ!」
湯飲みをダンとテーブルに叩きつけて抗議をすれば、せっかく笑う事をやめた童輔が又も大声で笑い出した。
まるで玩具。だが此処で拗ねれば、童輔の笑いが大きくなるだけ。
テーブルに散ってしまった茶を、置いてあった手拭で綺麗にしながら、まろは別の質問を投げかけた。
「童輔は白桜院の出身か?」
空になった湯飲みに、茶を注ぐ。10代前半で護者になれるのは、大概が白桜院の出身の子供。
孤児院出身ですか? なんてあまりに失礼な質問。だが童輔は気にした様子もなく答えてくれた。
「いや、ちゃんと親おるよ。っても殆ど白桜院の中で育ったけどな」
「親がいるのに、白桜院で育つ?」
「両親が白桜院出身ねん。やし、巽様至上主義者の仕事人間達ねん。んで、俺も其処で育てて貰えって」
饅頭は食べなくても茶は好きらしい。湯のみを口元に運びながら、童輔が苦々しく笑った。
確かに巽の部下……特に遊汰あたりは相当の巽至上主義者だけれど。子供よりも大事だというのは、如何なものか。
「ま、俺も巽様は尊敬しているから、ある意味でよかったとは思ってるけどな」
そうじゃないと、此の年で護者になんてなれなかっただろうし。
まろの不信感溢れる表情を気にしたのか、童輔が取り繕うようにそう付け加えた。
多分その笑みはニセモノじゃない。
熱血な処のある童輔は、護者であることに誇りを持っているタイプだから。本気でそう考えているのだろうけれど。
護殊庁のトップに立ち、白桜院の設立者である巽。
護者達や、白桜院出身の人々には尊敬され敬愛されている存在。
相模で会った時、まろは好印象を持ったのだけれど。今日見た、稜の記憶に映る彼は。
「それは、良かったのぉ……」
どんどんと歪んでいく、巽への印象。ドレが、ホンモノなのか?
訊ねた所で返答が出ない事は承知の上、まろは胸の奥でそっと呟いた。
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