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喉の奥から乾ききっている気がする。
唾も出てこない。口を開けば、ひゅうと枯れた音が漏れるだけ。
額を拭っても其処に汗はない。水分を補給する時間もなく、只走り続けてきたけど。

どうした? 早く逃げないとアイツラに捕まるぞ?

不意に、頭の奥からヤツの声が響いた。
くつくつと楽しげな笑い声がむかついて首を振るが、其れでも声は消えない。
目を閉じればきっと、スカイブルーの髪を揺らせて笑っているんだろう。
イライラする。何で、俺がこんなめに合わなきゃいけないんだっ!?
思わず怒鳴り散らしたくなって、もう声も出ないことに気がつく。
声帯はヤツの管理下におかれたのだろうか。それとも単純に乾きすぎたせいか?
考えて、其のくだらなさに視界が歪んだ。目の後ろが熱い。何だ。俺、泣くのか?
喉もカラカラに渇いているのに、こんな所で大切な水分を使えないだろ。
口の端を上げて無理やり笑ってみせれば、無駄な抵抗だと頭の奥に感じる存在が更に大声で笑った。

もう、諦めたらどうだ。

俺を馬鹿に仕切っているくせに、その声は優しい。
大概の人間ならば、此の声を聞けば膝を付いてしまいたくなるのだろうけれど。

「い、や……だ」

良かった。声帯は未だ俺のものだ。
頭の奥の存在に、擦れた声でどうにか答えてやった。
嫌だ。俺は絶対に約束を破棄してみせる。
声が続かなくて、胸の中だけで吐き出した台詞。言ったと同時に、目の前が赤く染まるほどの耳鳴りがした。
蒼く澄んだ夜空。
キラキラと瞬く星屑。こんなに綺麗な世界を見ていたはずなのに、急に鮮血に染まる。
意識を持っていかれたか? それともあまりの痛みに、そう見えるだけか?
判らないけれど、このまま突っ立っていれば追ってに捕まってしまう。
細い裏路地の壁に手をつきながら、俺はよろよろと走り出した。
数時間前までは普通に走っていられたのに、疲労のせいか、はたまた先ほどから受けた傷の所為なのか。
もう何かに捕まっていないと、足もまともに動かせない。それでも、逃げないと。
キーンという耳鳴りが頭痛に変わる。渇いた喉を上下させれば鉄の味がした。

お前には、何も救えない。

俺が逃げる理由。其れを知っているヤツが、静かに告げてきた。
もう此れで何度目の交渉になるだろうか。俺が疲労の色を見せるたびに、ヤツは優しく語り掛けてくる。
俺には何も救えない? そんなこと知っている。誰も救世主になんてなろうと思っては居ない。
だからといって大切な人を守りたいと思っちゃいけないのか?
細い裏路地。視界が赤に染まっているお陰で、前が上手く見えなくて壁にぶつかってしまう。
痛みなんて感じない。それよりも頭の奥から襲ってくる其れが強すぎて。

「……ぃ。あ」

背中に、僅かな気配を感じた。
頭痛とは違う、切りつけられた痛み。どうせならこういう痛みも感じなくなっていればよかったのに。
妙に冷静に考えて、思考が虚ろになっていることに気がつく。
どうにか振り返ろうと試みるが、もう足が言うことを聞いてくれない。振り返った所で、どうせ気配の正体も目には映らないだろうけれども。
背筋を伝う何か。生ぬるいような、冷たいような。多分きっと、己の血に違いないだろうけれど。

「イシを何処に隠した?」

目の前に広がる朱色。それでも声を聞けば俺の前にいるらしい存在が誰かはわかった。
何でだろう。俺は頭の奥に居る存在ではないはずなのに、其の声が懐かしくて口がほころんだ。
視界がはっきりしない分、記憶が鮮明に蘇る。俺のじゃない、過去の記憶。
柔らかなウェーブの掛かった金髪。目を隠す長い前髪。優しい声。
頭の奥にいる存在が産まれたときからともに過ごした存在。俺の記憶じゃないのに。懐かしくて、泪が出そうだ。

「た、つみ」

其れでも過去の意識に飲み込まれないよう、声の主の、現在の名前を呼ぶ。
枯れ果てた声では、名前を呼ぶだけで精一杯だったけれども。
巽。目を覚ましてくれ。お前が今望む先にあるものは、本当に幸福か?
其処まで言おうと思ったら、喉が切れた感じがした。
巽の攻撃か、頭の奥にいるやつの行動か。俺には判らないけれど。
今度こそ本気で声が出なくなった。息を吐き出しても、乾いた風のような音が鳴るだけで声ではならない。
ひゅうひゅうと変な音だけが漏れる。一体どんな風に切れたのだろう? 視界が可笑しくなっていて正解だ。
自分の身体が現在どうなっているかなんて、もう見たくもないから。
ただ、それでも何か伝えられるだろうかと思って口を開いて。

「稜、Angelusを何処に隠したんだ!?」

あぁ、喉を切ったのは海堵だったのか。
俺が口をぱくぱくさせていることが気に入らないというように、巽が怒鳴った。
似合わねぇぞ、その怒鳴り方。お前の部下が見たら泣くかもな。
考えて、不意に目頭が熱くなったことに気がつく。

喉が切れたということは、声が出なくなったということは、俺がイシの在処を伝えられなくなったということ。
イシを探すことが難しくなり、つまり過去の約束を果しづらくなったということ。
過去の存在が望んだ、幸せの終焉が、遠のいた事実。


嬉しくて、泪が毀れた。


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