鮮やかな鮮血が、目の前に広がった。
毎日の清掃のお陰で綺麗に整頓された室内が、先ほどまでは見えていたのに。

「翡翠っ」
翡翠の真っ白な翼が、矢に付かれて力を失い始めた翼が、端から崩れていく。
油断していた。天眠が与えてくれた此の場所でさえ襲われるとは、考えても見なかった。
天上界からも追い出された僕等に、攻撃を仕掛けるなんて。

「っ、瑪瑙……」
血飛沫に染められた木製の床。がくりと膝を付きながら、翡翠が此方を向いた。
来るな。
きっと次の言葉は此れに違いないだろう。
けれども其の言葉を聞く前に、僕の背中にも鋭い痛みが走った。

「天使はソラに帰れ!」

今度は矢ではなく、直接的な刃。
振り返れば其処には、未だ幼さを残す少年が立っていた。
翡翠が矢を打ち込まれた方向とは別なことを考えれば、単独行動ではないのだろう。
見た目だけで言うなら、未だ十数年しか生きては居なさそうな顔。
そんな幼い子が、どうして血にぬれた刃を持つ?
妙に冷静に考えて、切られた部分からゆっくりと力が抜けていくことに気がついた。
視界がぼやけ始める。無意識の内に床に膝を付く。逃げたいけれど、体がいうことを聞かない。
きっと僕が想像する以上に、背中の傷も深く抉られたのだろう。
少年の目を見れば判る。薄暗い光を灯した瞳は、僕を本気で憎んでいた。

「どう、して……?」
思わず呟いた台詞に、少年が此方にも聞こえるほどの音で奥歯を鳴らせた。
だが返事はない。代わりに横から可愛らしい女の子の声が聞こえた。
「天使なんかが居るせいで、お母さんたちは死んじゃったんだから……」
憎憎しげに吐き出された想い。周囲を見渡せば、いつの間にか子供達が数人、家の中に入っていた。
年頃も同じ、きっと十数歳程度。膝を付いた僕の周りと、倒れこんでいる翡翠を囲っている。
天使がいるせいで、親が死んだ?
言われて納得する。天地の亀裂によって両親を亡くした子供たちなのだと。
此処で共に暮らしていた下級天使達も、其の戦いで犠牲となった。
戦いの結末は見えている。だが親を亡くした彼等に、戦いの勝者がどちらであるかは関係ない。目の前の敵を、倒すだけ。

僕は人間を攻撃したことはない。

言い訳がましくも本当のことを告げようとして、少年の視線の強さに息を飲んだ。
彼等にそんなことを言っても無意味なのだと、僕の頭が判断したのだ。
翼を持っているだけで、憎むべき対象なのだと。

意識が薄れていく。言葉の効力を失って消える感覚と、攻撃を受けて力を失い消える感覚は違うのだろうか?
急に意味のないことを考えてしまうあたり、本当に思考が廻らなくなってきたみたいだ。
でも、どうせ意味を持たないこの身体。彼等の怒りを僅かにでも消せるならば、其れも良いかもしれない。
口の端が上げれば、目の前にいる少年達が嫌悪の色を強くした。
僕が笑ったようにでも見えたのか、それとも嘲りか? 人間はいつも劣等感に苛まれている。
実際はどちらが高尚だというわけではないのに。だって天使達はいつも……。


突然、窓に何かが当たった。
季節的にはありえない、氷の粒だ。


「ぇっ?」
僕等を攻撃したときには、窓の外には青空が広がっていたのに。急激過ぎる天候の変わり様に、少年達が動揺の表情を見せた。
そして其の動揺を恐怖に塗り替えるように、窓の外が一気に闇色に染まる。
強過ぎる雨粒と霰が窓を叩く。突如泣き出した空は、一体何を意味している?
ゆるりと動かない思考を巡らせていると、不意に目の前の少年と目があった。
「ひぃっ」
何故か後ずさりをし、恐怖に満ちた瞳を僕に向けている。
その感情が移ったのか、他の子供達も小さな悲鳴を上げた。
「天使が怒った……」
独りの言葉に、全員がばたばたと走り出した。
もしかして此の雨を、僕等が起したと考えたのか。それこそ嵐のように去った彼等に、呆然とする。
すると彼等の出て行った扉から、1つの影が入ってきた。

「……消えるのか」

不機嫌そうに寄せられた眉間。鬱陶しげに水滴にぬれた髪を掻き揚げるその影。
ぼやけた視界にすらはっきり映し出された正体は、天眠の仲間、空色の髪を持つ青年だった。

「助けて、くれたの?」
かすれた声で問えば、彼が口の端を上げた。
「俺にはお前らなんて必要ない」
即座に吐き出された回答。確かに彼は僕等をあまり良くは思っては居なかったはずだ。
天眠の傍に居る姿を何度か見かけたけれど、口にはせずとも下級天使への嫌悪は直ぐに感じられたから。
なら、何故?
問うよりも早く、彼が口を開いた。

「俺にはお前等なんて必要ないが、天眠がお前等を必要としている」

忌々しげに呟き、身体の端々が消え始めた翡翠の傍にしゃがみこむ。
治療でもするのか、手を翡翠の胸に当てる。掌から淡い光が漏れ出し、翡翠に吸い込まれるようにして消えた。
矢を打ち込まれた翼は、残念ながらもう無くなっている。だが消え始めていた身体は輪郭を取り戻し。

「アイツは弱いから、代用品が必要なんだ」

通常ならば有りえてはいけない光景に息を呑んでいると、彼が今度は僕の方に横に来た。
膝を付き動けないで居る僕の翼を掴む。ごきゅり、と不快な音が僕の後方で鳴った。
……痛みはない。けれども掴まれていたはずの翼の感覚もなくなった。
消える瞬間の感覚か。だが先ほどから少しづず力を失っていた僕の腕が、先ほどの翡翠同様に急に輪郭をはっきりとさせた。

「このハネの分だけ、お前に時間をやろう」

そして後方、僕の翼を掴んでいた人物から聞こえた声。つまり先ほどの音は、翼を折られた音だったのか。
しかし翼を折ったからといって力が戻るものか? それに天眠には代用品が必要とは一体どういうこと?
輪郭と同じようにはっきりした思考が疑問を作り出す。しかし其れを訊ねるより早く、彼は一言だけ残して部屋を出て行った。

「此の世界に存在する意味を与えてやるから、其れを全うして消えろ」


***


それから幾年もの、いくつもの季節を過ごし。
あの時の彼の言葉の意味を、ようやく理解してしまった。
翡翠の身体にイシを埋め込むことで、僕等が用品として完成されたことを。

『海堵、此処に居たのですね』

其れは天眠が大切な人たちを失い、それでも生きていた日のコト。
いつものように彼が与えてくれた居場所にいた僕達に、天眠が不可解な発言をしたのだ。

『祈朴も一緒ですか。地補は……出かけているのですかね』

前日と何も変わらない雰囲気。穏やかな瞳には、優しい光が灯っているのに。
彼の目には、もう僕等は映っては居なかったのだ。




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