「さて、困りましたね」
まろ達とは逆となりで傍観を決め込んでいた鬱灯が、溜息を付いた。
前置きもなく始まった言葉に、まろたちの視線が一斉に集まる。
「犯人が死体も残さずに消えるなんて、一体ダレに責任を取らせましょう」
ダレか、に聞けとばかりに吐き出される大きな独り言。
困った。などといいつつも、実際はそんな感情は微塵もないのだろう。
屋根の上に立っているのか、其の僅か上を浮いているのか判らないゆらゆらとした体勢。
しかし遠くからでもしかと見える、獲物を狙う肉食獣の眼と歌うような唇の形に。
「……先ほどは殺す気で攻撃を仕掛けておきながら、何を言うか」
「おや?」
頭の中だけで突っ込んだはずの言葉が、口からぽろりと落ちてしまった。
呆れたようなまろの声に、軽く見開かれた鬱灯の眼が即座に嬉しそうに歪む。
其の殺気とも違う嫌な視線に、冷や汗が流れた。
「私は犯人を消すつもりだったわけではありませんよ。動けないようにして、捕獲するつもりだっただけです」
一体なにがそんなに楽しいのかと、訊ねてやりたくなる程に浮かれた口調。
弁解をしているというよりは、言葉遊びをしているときの声質に近い。
自分は捕獲するつもりで攻撃を仕掛けているけれど、相手が弱過ぎれば死んでしまうこともある。
続く言葉があるなら、そんな処だろうか。
「ま、退治した証拠が残れば、消えてくれても構わなかったのですけど」
そして鬱灯は其の通りの言葉……結局は彼等が死んでも構わなかったという意味の発言をした。
現在困っているのは彼が消えてしまったことではなく、消した証拠が残っていないことなのだと。
仲間をなくしたばかりの天使が傍に居ることを承知の上で。
其の鬱灯に、思わず背中に流れる冷や汗を無視して攻撃を仕掛けようかと考える。

「……流架を荒らしていたのは、翡翠じゃないよ」

だがまろが言葉を発するより前に、天使がそっと立ち上がった。
鬱灯の嫌味交じりの言葉を、彼は聞き入れてしまったらしい。ふわりと浮かび鬱灯の傍に行った。
「犯人は、僕一人だ」
だから罪を問うならば、自分だけにしてくれないか。
消えた仲間の業も背負うつもりなのだろう。捕まえてくれとばかりに、防御を外しきった状態。
ただ、銀色の髪が月光を受けて輝いて。
「さすがは天使様。仲間の罪も背負おうとは、自己満足の善意を持っていらっしゃる」
翡翠が消えた時点で彼だけを犯人に仕立て上げるつもりだったくせに、鬱灯がそんな嫌味を吐き捨てた。
其れは偽善でしかないのだと。そんな批判と冷ややかな嘲りを含む眼。
思わず似合わぬ舌打ちをしかけ、横からの窘めるような羅庵の視線にまろはどうにか留めた。
鬱灯の辛辣な発言に、彼はどんな反応を示すだろう。悲しみか、怒りか。
だがまろの予想を大きく反して、彼はくすくすと声を立てて笑った。

「確かに、僕等は自己満足な善意だけの塊だ」

一体どうしたというのだろう。
長い髪に隠されて、表情はあまり見えないけれど。それでも聞こえる声は楽しげで。
前世を垣間見たお陰なのか、短いときで成長をしたまろだが、それでも全く理解できない光景。
何故彼は笑う? 其の質問の答えは、直ぐに彼自身によって教えられた。
「僕は翡翠を取られたくなくて街を荒らした。翡翠は知りながら僕を止めなかった」
イシの力を借りてようやく形を保っていられた。イシを返せば即座に掻き消えると判っていた。
一分一秒でも長く、翡翠には傍に居て欲しかった。たとえ彼が其れを望んでは居なくても。
「片翼の姿で街を荒らせば、天眠は此処に近寄らないと思ったんだ。まるで子供の浅知恵だよ」
楽しげに聞こえていた笑いが、まろの耳の中だけでも自嘲の声に変換されていく。
天眠の真似をして街を荒らせば、天眠は此処に来ない。来なければ翡翠はイシを持ち続ける。嫌でも生き続ける。
その行動が、裏目に出た。其れが可笑しくて堪らないのだろう。

「なるほど。それなら貴方だけが罪を背負って貰えば良いのですね」
「償い方なんて知らないけどね。捕まるのは僕だけでも問題ないはずだよ」
「黙認していたのも、罪に問われますよ?」
「でも翡翠から聞いたわけじゃないから。僕が勝手にそう思っただけ」
「……そうですか。では貴方にご同行をお願いしましょう」

何処か壊れた笑みを向け合っている、鬱灯と天使の会話。
翡翠とは多少面識があったものの、あの天使は今晩が初対面。しかも海堵の記憶でも出てきたことが無い。
声を掛けたくても言うべき言葉を見つけられずに居るまろは、ただ羅庵の服の袖をぐっと掴んだ。
翡翠は、本当に知っていたのだろうか。知りながら何も言わなかった?
それ以前に彼の言葉は本心なのか? 自分だけが罪を背負うための作り話ではないのか。
消えた存在に問うたところで答えがくるはずも無く、今居る存在に胸の奥だけで訊ねても返事は来ない。
判っていても、疑問が新たなる疑問を創り上げるから。



「さて。それでは私は失礼しますね」
天使に逃亡防止の枷を付け終え、鬱灯がにこりと微笑んだ。
両腕と両足に揃いのリングをはめ込まれた片翼の天使が、此方に向かって軽くお辞儀をする。
銀の髪が優しくゆれて、痛々しげな笑みがその奥に見えて。

「お主、消えるのか」

一瞬、それこそ瞬き一つしていれば見逃すほどの短い瞬間だけ、彼の輪郭が風に溶けのが見えた。
ぽろりと毀れたまろの言葉に、彼が驚いた顔をして己の手を頬にもって行く。
直接触れることによって何かが判るというのか。彼が一気に眉尻を下げた。
「うん、もう直ぐみたい」
悲しみではない、何処か安心したような表情。
翡翠の傍に居たお陰で、ヤツも消えずに済んでいたんだろう。
まろの頭の奥で、朱色の翼を広げた青年が吐き捨てた。
「それは困りますね、消えるならせめて報告を終えてからにしてください」
「ん〜、どうだろうねぇ。僕が決められることじゃないから」
聞き方によっては、そのまま風に流れそうなほどに清清しい口調。
もう消えてしまいたいと、願っているのだろうか? だから輪郭が風に溶けて笑っていられるのだろうか。
まろには、理解不可能なその感情。

「……桂嗣」

思い立ったまま、まろは桂嗣の方へと駆け出した。
こんな状況でなければ羅庵あたりから拍手喝采を貰えそうなほど軽々と屋根から屋根に移動する。
未だに翡翠の消えた横に立ち尽くしていた桂嗣が、僅かに眼を大きく見開いた。
「どうか、しましたか?」
「イシを寄越せ」
返事を聞く前に、桂嗣の手から其れを奪う。
先ほどまでは淡い光を放っていた其れは、もう闇色に戻っていて。

「……っ?」

奪った瞬間、耳の奥で警報が鳴った。
いや。これからまろが起そうとする行動に対して、空色の髪を持つ青年が怒ったのかもしれない。
判らないが、まろはそのイシを握り締めて再度駆け出した。
行先はもちろん、銀髪の天使のもと。
このまま飛べそうだと錯覚してしまうくらい身軽に屋根を移動し、天使の前でようやく停止した。
軽く弾む息を整え、イシを持つ手を差し出す。
頭の奥で、鈍痛が始まった。
眼を閉じれば鬼の形相を浮かべる彼が見えそうで、瞬きも出来ない。
けれども此処は子供らしい感情に任せ、まろはきっぱりと言い切った。
「此れを、お主に貸す。消えるならせめて罪を償ってからにしろ」
長い年月を掛けてようやく天眠……桂嗣に返却されたイシを、了承も得ずに貸し出そうとは。
あまり良い行いではないと知りつつも、今は取りあえず気がつかない振りをして。
きっと桂嗣なら許してくれるはずだと信じきって。
「イシを持てば多少は消えるまでに時間ができるのだろう? ならば其れまで貸してやろう」
偉そうに胸を張り、イシを持った手を天使の胸辺りに差し出す。

鈍痛が、激痛へと変化した。

どうして頭の中にいる存在はこんなに怒っているのだろう。
耳鳴りがするほど痛む頭の端で、妙に冷静な疑問が生まれる。だが返答は無い。
ただ目の前に立つ天使が、悲しげに笑った。
「君はいつも酷いことを言うね」
「い、つも?」
天使の不思議な発言に、どういうことかと訊ねる。
しかし耳の端から裂けてくるような痛みのせいなのか、声が裏返った。
呼吸もくるしくなる。視界がゆがみ始めた。
此れはどういうこと?
だがまろの様子に気がつかないらしい天使がそっとまろの手を握った。
「前にあった時も、そうだったでしょう?」
そういいながら、まろの手を己の胸に押し当てる。
イシを受け取ってくれるのか? それなら、良いのに。
泣き出しそうな天使に微笑みかけてやりたいのだが、頭が痛くて顔が引きつってしまう。

何だ、どうして海堵は怒っている?
痛みの所為でどんどんと働かなくなる思考。どうにか動かして訊ねても答えは返らない。

ただ、視界がゆっくりと歪んで。白くぼやけて。

「まろ様っ!?」
遠くの方で、桂嗣が己を読んでいる声が聞こえた。




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