屋根の上に立つまろ達よりも、頭上高くから届けられた声。
視線を向ければ、其処には桂嗣の姿。そして其の横には、何故か鬱灯の姿があった。

「天……眠」

翡翠の、息を呑む音。
桂嗣達がゆっくりと降りてくる速度に合わせて、翡翠が立ち上がる。
其れは『天眠が己を覚えているのではないか』という期待ゆえの行動か。
まろには判らないが、出来ればソンナ期待などしないで欲しいと思う。
桂嗣は翡翠を忘れてしまったのだから。

「お話の途中に失礼致しますよ。翡翠さんと瑪瑙さん」

一体何を言い出すのだろう。
はらはらとして見守っていたまろの考えとは別に、鬱灯が彼らに話しかけた。
桂嗣はまるでいつも通りの優しげな笑顔を貼り付けているだけ。
其のことに翡翠たちも疑問に感じたのだろう、僅かに後ずさりをして鬱灯に訊ねた。
「……何で俺の名前を……?」
それは、動揺を隠せない震えた声。
もしかして、桂嗣から聞いたのだ、と言われることを願っているのか?
だが、もし桂嗣が翡翠たちのことを覚えているなら……思い出したなら。
まさか鬱灯の横で突っ立って口を挟まずに居る、ということはないだろう。
つまり其れは儚過ぎる幻想でしかなく。

「瑪瑙さんのオリジナル、祈朴から聞いたのですよ」
「き、ぼく……」
「お忘れですか? 天眠の仲間の一人。……コピーである貴方達が、忘れるはずはありませんよね」

にっこりと、見ているものの背筋を凍らせるような笑みを鬱灯が浮かべた。
別に自分に向けられたものでもないのに、心拍数が一気に上がる。
旅に出て以来、道案内役として鬱灯には何度も会っているが、この表情を見るのは……。
そう、辰巳がまろたちに攻撃を仕掛けに来たあとの、一度だけだ。
稜の夢を見て布団の中で目が覚めて、天井からの侵入者として始めて鬱灯を見て。
『彼が力を使いこなせるのは、まだまだ先になりますね』
其の言葉を吐いた一瞬の間だけ、まろに向けられた嘲りの笑み。
あの時も、こんな風に冷や汗が流れたのだっけ。

……なにを企んでおるのやら。

声には出さずに呟き、身体をふるりと震わせる。
ついでに軽く背後をうかがえば、羅庵も警戒した顔つきになっているのが見えた。

「……そうか、祈朴までいるのか……」
「えぇ、今では人間に生まれ変わり、結構なお偉いさんになっていますよ」

先ほどの嘲笑をかき消した鬱灯が、翡翠の独り言に律儀に答える。きっと嫌がらせだろうけれど。
しかし翡翠の視線はもう桂嗣へと向けられ、其処から外れることはない。
その濁りのない澄み切った、しかし光を灯して居ない綺麗な翡翠色の瞳。
「それじゃあ、なおさら俺達は不要なわけだな」
小さな溜息を付くと同時に、彼の身体がゆらりと歪んだ……ようにまろには見えた。
瑪瑙と呼ばれた片翼の天使が、反射的に翡翠の腕を掴む。
一体何をしているのかまろにはわからない。だが、翡翠の身体が歪みを止めた。

「なんだ、もう消える寸前だったんですね」

ぽつりと吐き出された鬱灯の言葉。
消える寸前?
まろの頭で、何かが引っかかる。いつか何処かで見た記憶。
天使は、いつかは掻き消えてしまう存在なのだと。
つまり翡翠は、もう。

「ま、どうだっていいのですけど」

鬱灯の楽しそうな溜息のあと。温度が、急激に下がった。
否。実際に下がったわけではない。ただ、まろにはそう感じられたのだ。
「チッ……」
即座に背後に控えていた羅庵が、まろを抱きかかえて宙に浮いた。
桂嗣達の様子が見える程度の距離を保ち、停止する。
いつもならばこのタイミングで桂嗣もまろの処に来るはずが……何故か鬱灯の横に突っ立ったままだ。
どういうことなのか?
判らずにいるまろの耳に、突然、轟音が響いた。
「あなた方には申し訳ないのですがね、実は巽……祈朴よりあなた方の駆除命令が出まして」
その轟音の中で、微かに聞こえる鬱灯の言葉。
つまりは。もう童輔だけでは始末できないからと、鬱灯を寄越してきたのだと。そういうことなのか。
だから桂嗣も、まろが攻撃を受けるわけではないからと放っておいた?

……違う。
轟音を合図として始まった光景に、まろは目を疑った。

「な、ぜ、桂嗣が翡翠らを攻撃しておるのじゃ……?」

思わず震えた声をだし、羅庵の服の袖を掴む。
羅庵は答えない。ただ何処か忌々しげな表情で、目の前の光景を睨んでいる。
爆音。落雷。
どうして周囲の民家に影響が出ないのか、不思議になるような光景。
桂嗣が作り出した稲妻が、まるで俊敏な蛇のように宙に弧を描いて翡翠たちを襲う。
黄金の中にオレンジと蒼の混じる稲妻。息をつく暇もなく生み出されては、桂嗣の手から放たれて。
しかし天使達も攻撃を受けてばかりも居られない。
避けても着いてくるその稲妻を、自分達が作り出した光と相殺させていく。
それでも天使2人が作り出すヒカリと、桂嗣が作り出すヒカリでは幾分か桂嗣の方が多く。
相殺させたときとは違う、鈍い音をさせながら、稲妻が天使達の身体を焦がす。
其のたびに天使達の表情は苦痛に歪み、そして悲しげな視線を桂嗣にと向けているが。

「……アレは、ダレじゃ?」

天使が苦痛の表情を浮かべるたびに、酷く楽しそうに微笑む桂嗣。
先ほどの鬱灯の表情よりもたちの悪い其れに、まろは再度、羅庵の服の袖を掴んだ。
己の手によって傷つくものを見ることが楽しいのだと、口元を歪ませているアレ。
逃げ惑う天使達に、慈悲の心も見せることはない。はて、もしやあの笑みが慈悲の変わりか?
まさか、そんな筈はない。
桂嗣の戦闘場面はあまり見たことはないけれど、でも、あんな愉悦を含んだ顔はしなかった。
アレは、桂嗣の格好をしているだけで、桂嗣ではない。
それならアレは……。


「こんなところに、居たのですね」

幼子が母親にしがみつくように、羅庵の腕にしがみ付いていたまろの耳に、誰かの声が聞こえた。
其れは先ほどと同様に、聞き覚えのありすぎる声で。
ただ一つ不可解なのは。こ声の持ち主は、今も前方で天使達に攻撃を加えているはずだ。

「……あぁ、結界が張られていたのですか。羅庵の姿が見えなかったら、本気で通り過ぎるところでしたよ」
珍しく息を切らせた声。そしてまろの頭を撫でた優しい手。
羅庵にしがみ付いたまま、ゆっくりと視線を声の主に向ける。其処に居たのはもちろん、まろの教育者で。

「なぜ、桂嗣が此処に……?」
「事情はまた後で。取り合えず今は、アノ目障りなモノを消しましょうね」

驚きを隠せぬままに訊ねれば、桂嗣が苦笑を漏らしてそういった。
此方の存在に気がついた鬱灯が、オーバーリアクションで両手を挙げている。
だがまるで無視をし、桂嗣は両方の掌を軽く合わせてナニかを作り出した。
今も天使達を攻撃しているアレとは、比べ物にならないほどの強大な稲妻。

「ったく、自分の偽者に攻撃するのなんて気分が悪いですね」
どうせなら鬱灯も消してしまいましょうか。

なんとも恐ろしい台詞を吐き、桂嗣が生み出した稲妻を前方のアレに放った。
その凄まじい勢いにアレは気がついたのだろう。相殺させるためにヒカリを生み出し……
しかし力の差は歴然。
アレは桂嗣の雷によって痕跡も残さずに消え去った。




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