なんとも不思議な感覚だった。
少々離れた場所からでは何も見えなかったのに、突如視界に現れた影2つ。

「……結界か」

頭の奥に居る存在が、嫌々ながらにも教えてくれた場所。
羅庵が忌々しげに呟いたとたん、まろの目にも片翼の天使がしっかりと映った。
結界への侵入者に、彼らの視線が一気にまろたちに集まる。
一瞬だけ何かを期待した表情を作り、しかしその表情は直ぐに崩れた。
「お前……」
「昨晩振りじゃの、翡翠」
取り合えず隣家の屋根に降り立った羅庵の背中から、片手だけを上げて挨拶をする。
だが翡翠達はまろの挨拶には答えてくれず、エセ医者だけをじっと見ていた。
はてさて、もしや羅庵の知り合いかのぉ?
一瞬だけ過ぎり、いやいやまさか、と首を振る。
もし羅庵が彼らと知り合いなら、もっと早くに桂嗣と引き合わせていただろう。
と、いうことは。

「……どうして君が此処にいるの……?」

翡翠の横に立っていた天使が、こわばった表情でそう呟いた。
何故此処に来るまで見えなかったのだろうかと、結界のことも忘れて疑いたくなるほど、月光を受けて美しく輝く翼。
緩やかなウェーブの掛かった銀髪と目じりの下がった優しげな顔が、誰かに似ている。
それは翡翠を見たときにも感じたコト。
淡い緑が、月光に反射して蒼く見えたように、彼の髪もときおり黄金に輝いて見える。
金の髪。柔らかなウェーブ。優しそうな目。
過去を見た直ぐ後だから。『翡翠が海堵に似ている』の台詞を聞いた後だから。
彼がダレに似ているか、なんて連想することは容易くて。

アレは祈朴の代用だ。
不意に頭の奥に感じる存在が、そんな言葉を吐き捨てた。

「俺はまろ様の散歩に付き合っているだけだが?」
「まろさま……?」
「あぁ、この背中に張り付いている子供。昨日助けてくれたんだってな、感謝するよ」
一体どうしたというのだろう。外見には似合わない、翡翠の震えた声。
そういえば自己紹介はしていなかったか。でも一人称でまろといっていたのだから、気がついてくれてもよいのに。
思わず頬を膨らませかけたまろへと、天使達の視線が移動した。
まろを負ぶっている羅庵の腕に、力が篭る。彼らの反応に警戒しているのだ。
そんな羅庵の気遣いを軽く無視し、まろはひょいと背中から降りた。
「おぃっ……」
「大丈夫じゃよ、多分」
慌てて振り返った羅庵に、にぃと笑ってみせる。
多分で降りンなよ。まろの顔を見てそう呟いた羅庵が、それから口の端をあげて笑った。
頭の奥に居る存在は、今も不機嫌なままだけれど。

「翡翠よ、コヤツをしっておるのか?」
羅庵がわざわざ隣家に降り立った意味を脳の端に追いやり、まろはすたすたと歩き出した。
今回は羅庵も止めない。ただ何かあっても構わないようにと、即座に動けるスタイルになったらしい。
歩き出したまろからは見えないが、前方に居る天使が警戒を強くしたことから推測すれば間違っては居ないはず。
出来れば天使達に刺激を与えたくはなかったものの、羅庵にはまろを守る使命があるので、此れは仕方がない。
特に気にした様子もなく自分たちに近づいてくるまろに、翡翠が小さな溜息を漏らした。
「……あぁ、遠い昔の知り合いだ」
まろを見ながらも、何処か遠くを見ているような、もしくはまろの奥にいる存在を探しているような。
濁っているわけではない。綺麗な瞳になのに、何故か光が差しては居なくて。
「そうか、ちなみにどれだけ昔の知り合いだ?」
民家にしては水平な屋根。実は身軽なまろは、苦労なく天使達の居る方にと移動した。
翡翠の横にいる天使が、更に警戒を強める。其の逆に、翡翠はゆっくりと屋根に腰を下ろした。
まるでまろを待っているかのよう。
ご期待に添えるべく、翡翠の目の前まで行き立ち止まった。

「天上界と地上界の戦争が始めるよりもっと前だ」

頭のてっぺんからつま先までじっくりと見られる。
それは観察するように、見たくない何かを探し出したように、苦々しい表情で。
「それは相当昔なのだろうな。まろなら忘れてしまいそうじゃ」
軽く首をすくめてこの重い雰囲気を飛ばそうと試みるが、翡翠の表情が変わることはなく。
「嘘をつくな。お前は覚えていながら、知らない振りをしたんだろう?」
上から下までなんども視線を移動したあとで、ようやく翡翠がまろと目線を合わせた。
「……なぁ、海堵。今日は地補を連れて、何をしにきた?」
まさかこんな姿になっているとはなぁ。地補を連れてこなけりゃ、きっと気がつかなかった。
寧ろ気がつきたくはなかったとでも言うかのような、翡翠の口調。

「どうして天眠を連れてこなかった?」

彼と、過去の存在達と、一体何があったというのだろう。
何かを切望し、そのくせ大きな裏切りにでもあったような、掠れた声。
中途半端な記憶しか持たないまろには、翡翠が何故こんな顔をするのか判らないけれど。
「お主等は、天眠が自分で此処に来ることを望んでいるのじゃないのか?」

テメェ等、どうせ俺が無理やり天眠を引きずってきても喜ばねぇだろうが。

頭の奥に響いた声に合わせて、彼らに突きつける言葉は。
多分まろが……海堵がいったとおりなのだろう。
翡翠がすいと視線をそらし、それからうつむき加減で苦笑した。
「海堵と地補が戻った。なら天眠が俺達を覚えている必要はない」
乾いた笑いとともに流れる台詞。さらりと流れた翡翠色の髪が、彼の表情を隠した。
海堵と地補が戻ったなら、天眠は翡翠たちを忘れる?
言っていることの意味が判らない。
否。頭の奥にいる存在は、理由が判っているらしいが、まろには……。

「……天眠を、呼んできてくれない?」

俯き押し黙った翡翠の変わりに、横に立っていた銀髪の天使がまろにそう頼んできた。
軽く膝を曲げて、身長の低いまろと目線を合わせてくる。
「今の僕らでは、彼に話しかけても判ってはもらえないだろうから」
風に掻き消えそうなほどの囁き。まろに合わせた目が、とても悲しげなイロだと感じた。
確かに翡翠たちを知らないと言い切った桂嗣なら、今の彼らに話しかけられたとしても答えないだろう。
現在の街の様子からいけば、桂嗣と行動を共にしている少年が、片翼の天使達に攻撃を仕掛けないとも限らない。
まぁ今は、桂嗣の疑いも晴れたらしいけれど。
たとえ言葉を返してくれたとしても、天眠の頃の友人に、桂嗣は初対面のように対話をするはずだ。
それならば、まろが『過去の知り合いだ』と紹介するほうが早いだろう。

しかし。

「其の必要は、ありませんよ」
まろが片翼の天使に答えを返す前に、聞きなれた声が頭上から届いた。




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