「まろ様〜、さすがに風呂場で溺死は恥ずかしいぞ〜」
ペチペチと頬を叩かれる感覚。
聞き覚えのある声に、まろはゆっくりと目を開けた。

「……おぉ、こんな所で会うとは。久しいな」
「夕飯で会ったばかりだろ。湯に浸かりすぎてのぼせたか?」

湯気の所為で白く歪んだ視界。
先ほどまで己の頬を叩いていた人物に呆けた口調で声をかければ、其の相手……羅庵が口の端をあげて笑った。
まろはのぼせてなどおらぬぞ!
反論しようとするが、後頭部辺りがぐるりと回転するような感覚に襲われて口をつぐむ。
確か幼い頃に乗馬体験で酔ったしまった時も、こんな感じだった。
なるほど。これが俗に言う湯あたりというものか。
どこか冷静に考え、確か対処方法は身体を冷やすことだったはず、と風呂から出ようとする。

しかし。

「……何故じゃ?? 体が言うことを聞いてくれんぞい」
腕、足、指、各場所は動くのにも関わらず立ち上がることが出来ないことを確認し、まろは眉間に皺を寄せた。
これではいつまでたっても風呂から出られぬではないか。
誰に対して怒っているのか判らない口調で文句を呟く。
すると浴槽の横にしゃがんでいた羅庵が、ひょいとまろを抱えあげた。
「ったく、いつまでたっても手が掛かるねぇ」
流石は小児科からラブコールが耐えないエセ医者羅庵。
手が掛かる、と文句をつけながらもくつくつと喉を鳴らせて笑っている。結局手をかけることが好きなのだ。

「……お主、何故風呂場で服を着ておるのじゃ?」

抱えられたまま脱衣所に運ばれ、付属していた長いすに座らされたところでようやく気がついた。
普通、風呂には裸ではいるものであろう?
架愁などは腰にタオルを巻いていたりするが、まろの記憶する限り、羅庵は基本素っ裸で湯に浸かっていたはず。
なにか心境の変化かいのぉ?
バスタオルで頭をガシガシと拭かれ、その勢いに負けて頭をぐらぐらと動かしながら訊ねれば、苦笑気味の羅庵の顔が目の端に映った。

「まろ様が風呂から出てこないからって、桂嗣に頼まれたんだよ」
架愁がでてきてから、もう30分も過ぎているんだぜ?
マッサージするように根元を拭き、毛先は優しく水滴だけをふき取ってくれながらの羅庵の台詞。
抜け毛防止をされているように感じるのは、あくまでまろの気のせいなのだろうか?

「……気の利く教育者で良かったぞぃ」

でなければ、あと一時間後には本気で天に召されていたかもしれない。
取りあえず柔らかめな自分の毛髪を心配しつつも、あっけらかんと答えてあげた。
やはり楽しそうな羅庵がくつくつと笑う。
「ま、ついでに見に来てやった俺も褒めといてくれよ」
そして髪を拭き終えたバスタオルを、そのままバサリとまろに掛けてきた。
もしや此れから先は自分でやれ、ということか? それは面倒くさい。
軽く考えた後で、まろはようやく言うことを聞いてくれ始めた自分の両腕を上げた。

「そうだのぉ。服を着せてくれて、部屋までおんぶしてくれたなら褒めてやろう」
「……てめぇ」


***


それにしてもあれで30分の夢だったのか。
羅庵の背中にべたりと張り付き、部屋にまで連れて行ってもらう途中。
長い廊下の窓を見つめながら、まろはぼんやりと思い出していた。

翡翠に対して、あの家に勝手に入る許可さえも出していた天眠。
そして『似ている』の言葉に、激しい動揺と怒りを見せた海堵。

一体ナニがあったというのだろうか?
夢の中では確かに怒りの理由を知っていたのに。……知らなければ怒るはずもないわけだし。
目覚めると同時に、幾つかの事柄は直ぐに抜け去ってしまう。
自分の中に感じる血色の翼を持つ青年に尋ねようとしても、相手は一切返事をしてはくれない。
只単純に、不機嫌そうな感情だけが薄っすらと伝わってくるだけ。
其れが又、まろの興味を引くのだけれど。

「……散歩に行こうかのぉ」

窓の向こう側に見える欠けた月。
不意に月光浴をしたくなって呟けば、羅庵が窓際にまで行き足を止めた。

「昼間も散歩してきたんだろ? 辰巳様が怒り狂っていたぞ」
「うむ、ちょいと桂嗣に聞きたいことがあったからの。辰巳には悪いことをした」
「あの執着心は凄まじいからなぁ。けど、その辰巳様を撒いてまで聞きたかったことなんてあったのか?」
「ど〜しても気になってしまったことがあったのでな。まぁ殆ど収穫はなかったけれど」
「そりゃ残念だったな」

羅庵が肩をすくめたのが、背中に張り付いていたまろには判った。
だからといってどういうこともないのだけれど。
腕を羅庵の首に廻しておくもさえ面倒くさくなり、両手をだらりとおろす。
つまりは羅庵が抱えているまろの足だけで、まろは羅庵の背に張り付いていることとなり。

「……まろ様。急に重たくなったんだが」
「気のせいであろう。何も食べておらぬのに、まろの体重が急激に増えることはないぞ」

言った挙句にぐっと背をそらす。
羅庵への負担が更に大きくなったのか。一瞬だけまろにつられて背をそらし、直ぐに腰を曲げてバランスを整えた。




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