体を冷やした後の散歩は、生暖かな風が気持ちよく感じられる。
やはり夏には氷が旨い。
本当なら皆に持って帰りたいところだが、太陽が燦々と輝く今日は、きっと宿舎に着く前に氷が溶けてしまうから。
「土産がない以上、氷を食べに行ったことは、他……特に辰巳には内緒だぞぃ」
無駄に神妙な顔のまろが忠告すると、もちろん桂嗣も其のつもりだったのだろう、苦笑しつつも頷いた。
というか2人きりで出かけたことがばれた時点で辰巳が泣き叫びそうだけれども。
其処はあまり考えないように、しかし少しでも機嫌を損なわないようにと、僅かばかり歩幅を大きくした。
「そういえばお主、どうして白桜院に進入する経路を知っておるのじゃ?」
出来る限り木陰を選び歩きながら、ふと昨晩の夢を思い出したまろが、桂嗣に尋ねた。
「……どうしたんですか、急に」
「いや。昨夜、稜の夢を見てなぁ。お主の道案内で白桜院に忍び込んだのだが……」
どうも通いなれた案内の仕方だったからのぉ。
風に流れるように上を向いて言葉を綴れば、半歩後ろを歩いていた桂嗣から微かなため息の音が聞こえた。
はて、何か不味いことでも聞いてしまっただろうか。
他意があった訳ではないので、その桂嗣の反応に驚く。
だが質問を取り消すことも良くない気がして……否。単純に興味心がそそられただけなのだが。
「桂嗣?」
無言の相手に、さり気ない様子を装いながらもまろは返事を促した。
そして横顔を覗き見ようと、木の陰で立ち止まる。
同様にして桂嗣も足をとめ、小さな溜息を再度ついた後で話し始めた。
「白桜院の創立者が誰か知っていますか?」
「……はて、以前誰かに聞いたことがあったような……」
己が聞いたのか、もしくは稜の夢で見たのかも判らないが、どこかで聞いた覚えがある。
まろはうぬぅ? と空の頭をカラコロ振るながらも記憶を辿るが、端に引っ掛かり出てこない。
降参であることを視線だけで伝えれば、桂嗣がくすくすと笑いながら答えをくれた。
「巽ですよ。架愁の兄で、祈朴の記憶保持者」
「あぁ! そうであったのぉ」
ぽんと手を打つ。
誰に聞いたかは思い出せないが、一つ答えが出るとすっきりするもの。
まぁ巽の話ならば、架愁や遊汰あたりから聞いていそうなものだけれども。
「それで、桂嗣は友人として白桜院に遊びに行っておったのか?」
稜と出合った時には、桂嗣は巽が護殊庁で働いていることを知っていた。
互いに記憶保持者であることを話していたようだから、其のときには友人であってもおかしくはない。
ただ稜の夢では、桂嗣が護殊庁の話題を避けたがっていたように感じたこともあったけれど。
「いいえ、友人ならば忍び込まずに正面から入るでしょう」
首をかしげねがらも吐いたまろの言葉を、桂嗣が否定した。
確かに友人なら、むしろ侵入経路なんて知らないだろう。いわれてから納得する。
そして桂嗣の顔を見て、思わず息を呑んだ。
何故だろう。
先ほどまで笑っていた桂嗣が、今も笑って入るのだけど、何処か悲しげで。
……どうしかしたか?
訊ねるための言葉も、喉に張り付いて出てはこなくて。
困っているうちに、桂嗣がそっと口を開いた。
「白桜院には架愁がいたので、私は巽に気がつかれないように、架愁に会いに行っていたのですよ」
桂嗣が、遠く空を見つめた。まろを見ることはなく、もちろん視線が合うこともない。
それはまるで、何か遠い過去の記憶でも探っている目をしていて。
……今の桂嗣もそうだが、羅庵や架愁も似た表情を浮かべることがある。
それは長く同じ場所で居たから……というよりも、あまりに長く生きていた者が自分だけ取り残された寂しさを実感しているような。
遠い遠い記憶でも辿っているような。そんな表情で。
「……架愁は巽の養子であろう? 一緒に住んでいた訳ではなかったのか?」
此方を見て欲しくて、まろは桂嗣の服の袖を引いた。
ゆっくりと桂嗣がまろの方を向く。
だが、その目はどうもまろを通して他の誰かを見ている気がして、心地良くは感じられなかった。
「巽は桜花寮に住んでいましたからね、架愁と住むことは出来ず……、だから白桜院を建てたのです」
「……建てた? 架愁を白桜院に入れた、ではなくてか?」
普通、養子の為だけに孤児院を立てる必要はないはずだ。一緒に住めないのなら、アパートでも借りたなら良いのに。
まろの言いたいことが判ったのだろう。桂嗣が軽く首を振った。
「巽は架愁を閉じ込めるための場所として、白桜院を建てたのですよ」
力を持つ子供専用の孤児院ならば、不必要なほどに厳重な警備システムが付けられるでしょう?
苦笑混じりな桂嗣の言葉。意味に気がついてしまったまろの背筋が一気に凍った。
確かに力の安定しない……
しかも親に力の制御方法を教えられていない可能性のある子供の入る施設であれば、中からも外からも厳重に守る必要がある。
つまりは、白桜院に住む子供が外には出られず。
外からの訪問者も、其処の教師や管理人の案内がないかぎりは中で歩き回ることの出来ない空間を作れるのだ。
「……架愁は、巽のことを慕っているように見えた。監禁されたとは、思えないが?」
暑さで流れていた汗が、冷や汗に変わる。
監禁されていた。その言葉が正しいのか判らないけれど、まろが持ったイメージは其れしかなくて。
まさかこんな話を聞くと思っていなかった分、その衝撃も大きいのだけれど。
心拍数が急激に上昇した己の胸にこぶしを当てて、桂嗣の視線を返す。
気合負けをした訳でもなかろうが、桂嗣がそっと視線をそらした。
「白桜院の最上階は、其処の子供達でさえも入ることの出来ない仕組みになっていましてね。
というよりも、そんな場所があることさえ知らないのです。
なぜなら最上階に行くための階段は、何の変哲もない壁で隠されているから。
だから子供達はその一階下を最上階と呼び、本当の最上階の存在さえも知らない……。
架愁は、その最上階に住んでいました。
初めて会った時は、口数も少なく表情も虚ろで。巽以外の人に会うことが珍しいのだと言っていました。
最上階は幾つかの部屋に分けられているのですが、その全てが架愁の部屋で。
私はよく 『遊び部屋』 でブロック積みにつき合わされましたよ。
柔らかな生地のブロック、怪我をしないようにと工夫の凝らされた玩具。幼い子供のためだけの部屋。
勉強も、外の人間も必要はない。何も知らない無垢なまま、自分の手の中だけで育って欲しい。
……そんな言葉が聞こえそうな部屋に見えました」
つらつらと吐き出される文章。
聞けば聞くほどに、架愁が巽に監禁されていたとしか思えなくなる。
しかし、架愁は巽を慕っていたはずだ。相当のブラコンであると、本人も自覚していると聞いたことがある。
架愁がそう演じているだけなのか? それとも、幼いころのコトだからと忘れた振りをしているのか?
考えてみても、まろには判らない。これは多分、桂嗣に聞いても判らないだろう。
……架愁の本心は、架愁に聞くしかない。
「……そろそろ戻らねば、我が弟に噛みつかれてしまうぞぃ」
この話は此処で終わりだと、まろは桂嗣の袖を引いて宿舎の方向に歩き始めた。
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