「桂嗣。ちと散歩に付き合ってはくれぬか?」
「構いませんが……散歩に私を誘って下さるとは、どの位振りでしょうね」
「聞きたいことがあってのぉ。あと、途中で氷を食べたいから、財布は忘れるでないぞ」

至極当然そうに言い切ってから、まろは独り勝手に大部屋から出た。
聞きたいことがある。
そう言っておけば、桂嗣は通称おんぶお化け……もとい我が弟を撒いてからまろの後を追ってくるはず。
羅庵は童輔の巡回についていってしまったが、大部屋には子守り役として架愁も残っているので、桂嗣が抜けても問題はない。
それに今は昼寝時刻なので、桂嗣が辰巳を置いてくることは簡単だろう。

「はて、さて……」

そんなことを考えながら、まろはふと窓を見た。
周囲に人が居ないかを確認し、ハナウタ交じりに近づいていく。
これからする作業……昨晩の後始末の様子を見つかれば、確実に面倒なことになるから。


そう、それは昨晩の話。
結局まろは翡翠の元に救急箱を届けることは出来なかった。
救急箱を探し手に入れるまでは出来たのだが、まろが再度出掛ける前に桂嗣達が帰ってきてしまったのだ。
子供と大人が別々の部屋ならば、一度寝た振りをして、其の後で届けることも出来る。
だがこんな時に限って布団を並べて寝ることが決定しており、しかも隣には羅庵や桂嗣が固めていて。
朝にもならないうちにまろが布団から出ようとすれば、必ずどちらかが止めるだろう。
厠だと言えばそうでもないが、しかしあまりに帰りが遅ければ不審に思い迎えに来る。
そして施設内にまろの姿がなければ、きっと桂嗣達は探しに来るから。

「……ほぉ」

小さく漏らして、まろは窓をからりと開けた。
1階が渡り廊下になっているため、窓の外を見れば少し下に赤い瓦屋根が続いている。
その一番窓際。わざわざ窓から顔を出さなければ見えない位置に、救急箱が置かれていた。
其れは翡翠の元に行けなかったまろが、苦肉の策として出したもの。
戻ってくる、と宣言しておいて長らく戻らないまろを心配し……例えばまた屋根から落ちたのではないだろうか、などと考え。
翡翠がもう一度この建物の近くを飛んでくれたら、もしかしたらこの救急箱を見つけるのではないかと思って。

置いたのは、確かもう少し右側だったような。

思い違いかもしれないので、取り合えず其の救急箱を手に取り、箱を開ける。
中身が減っていれば、きっと翡翠が気付いて使ったのだ。
だが確認するまでもなく、まろは自分の策が上手く行ったことを知った。
「己の翼一枚を手折り入れておくとは……」
なかなかロマンチストではないか。最後までは言わずに胸の中で呟く。
そして己が嘘つきにはならずに済んだと、安堵の溜息を付いた。
もちろん、嘘には幾つも種類があるので其の全てを駄目だとはいえない。
しかし約束を反故するような嘘つきにはなりたくないから。

「そういえば……」

……考えてから気がついた。
昨晩見た夢を。今朝方まで続いた青色の髪を持った青年の記憶を。


***


思いのほか辰巳を撒くことは難しかったらしい。
予定よりは少し遅く。まろが建物を出る頃にようやく、桂嗣が追いついてきた。

「お待たせして申し訳ありません」
「辰巳は寝ておらなかったのか?」

桂嗣が遅れる理由など一つしかないと決めて掛かれば、実際其の通りらしく桂嗣が眉を寄せて微笑んだ。
「いえ。しっかりとお昼寝をされていたのですが、袖を掴んだ腕を放してくれず……」
軽く左腕を上げる。つまりは其処の袖を放してくれなかったということか。
先程まで自分を困らせた教え子を思い出しているのだろう。苦笑混じりながらも桂嗣の瞳は優しい色をしている。
まろとしても可愛い弟のしたことを責めるつもりは無い。

「気にするな。氷屋に到着前に間に合ったのだから、まろは構わんぞ」

軽い口調でそう言って、童輔に教えて貰った近所の美味い氷屋に向かった。
メインが散歩なのか氷を奢らせることなのか。
桂嗣がそんな疑問を口に出していたが、其処はあえて聞えない振りをし、まろは雲ひとつ無い空を見上げて足を進めた。


***


カキ氷屋の前にあるベンチに座り、まろがしゃりしゃりと音を立てながら抹茶シロップと練乳を氷に混ぜ込んでいる。
その隣で同様にして座り、みぞれ氷を食んでいる桂嗣がまろに訊ねた。

「聞きたいことがあると言っていたと思いましたけど」

先程から何も話し出さないまろをじれったく感じたのだろうか。
いつもならまろが何か言うまで黙っている桂嗣が、先に促してきた。
もしかすると、周囲の人間から離れないと話せないというまろの態度を、不審がっているのかもしれない。
否。桂嗣の性格からすれば、誰にも聞かれたくないような相談事とがあるのかと、無用な心配でもしているのだろう。
まぁ、まろからすればどちらでも構わない。
口に含んでいた氷を全て溶かしてから、まろはさり気なく視線を中に浮かせた。

「……翡翠色の目をした天使を憶えておるか?」
しゃりしゃりと氷とシロップを混ぜ合わせながらも、何気無さを装って言葉を綴る。
「遠い過去。天眠の友人で、其の目と長く青み掛かった白髪が特徴的だった天使じゃ」
ベンチに並んで座っているため、まろ達が視線をあわせることは無い。
ただ何か動揺が見られるのではないかと、まろはちらりとだけ桂嗣の横顔を盗み見た。

翡翠がもし天眠に恨みを持ち、それで天眠の名を方って悪事を働いているのなら。
天眠時代の記憶を持っている桂嗣が、己に其処までの恨みを持つ相手を忘れるはずがない。
だから桂嗣に動揺が見られれば……翡翠が偽天眠の犯人である可能性が高くなる。
逆に全く不穏な様子もなく桂嗣が『憶えている』と答えれば、また違う推理も出来るはずだから。
そう思ってのまろからの質問。しかし、桂嗣は予想以上の返事をくれてしまった。

「……申し訳ありませんが、一切憶えておりません」

まろと同じように氷を溶かしている桂嗣が、嘘偽りのない、寧ろ本気で思い出せなくて困っているかのような声で答えた。
気付かれないように再度桂嗣の顔を盗み見れば、声に似合った表情を浮かべており。
桂嗣の言葉が嘘ではないことを、長年の付き合いであるまろは実感した。

しかし。天眠にとって翡翠はアノ家に招くような友人であったはずなのに。

交友関係は広いが、そのくせ天眠は友人を海堵達に紹介することは殆どなかった。
何故なら天眠こそが、実は天子4人の中に他人が割り込むことを入ること一番嫌っていたから。
だから天界、地上共に友人を増やしていながらも、あの家に招待するなんて天眠では有り得なかったのに。


「……そうか」


だが忘れたという相手にそれ以上尋ねても仕方がない。
まろは白く濁り始めた半溶け気味のカキ氷を、急に乾いてしまった喉へ流し込んだ。




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