「それでは救急箱を取ってくるから、お主は此処で待ってるのだぞ」
「いや、別に俺は……」
「まろを助けて怪我をした者を放っておいては、夢見が悪くなりそうじゃからのぉ」

必ず、待って居るのじゃぞ。
偉そうな態度の発言をして、まろがすくりと立ち上がった。
未だ何かを言いたそうな翡翠の顔を、見えない振りをして勝手に歩き出す。
バランスを崩すかとも思ったが、ほぼ無理矢理受けされられている稽古のおかげなのか。
多少の急斜面を誇る屋根でも、ごく当然のように行動を起こせた。
空はどっぷりと更けて闇に包まれているが、各家々から微かな光が漏れている為に此処は未だ明るい。
夜目の利く方ではないまろとしては、其れがあり難かった。

「……月光浴としては悪くは無い夜じゃ」

桂嗣達が見たなら感激のあまり泪してしまいそうな程に、軽やかに屋根から屋根へと飛び移る。
外へ出ようとして窓から落ちたときも、きっとあの光景を目にしなければあんな失態はしなかったのに。
それを思えば、翡翠の怪我は自業自得なのか。
なんて頭の中だけでタップリと屁理屈を捏ねながら、己の宿へと向かう。
寝ていた時に到着してしまったため、実際の外観を見てはいない。
だが公的機関というには豪勢過ぎた造りから言って、高い場所……つまりは屋根の上を走っていれば直ぐに判るであろう。
勿論、中は豪勢でも外装は質素、となれば探すことは大変だけれども。


***


「在れかのぉ」

読んだとおり。軽く走っていただけで、まろの目に豪勢なつくりの建物が飛び込んできた。
とはいっても外装が煌びやか……というわけではない。
だけれども見覚えのある広すぎるグラウンドと、コの字形に立っている宿舎らしき建物。
周囲を見渡しても似たような建物は無いことから、己の宿であることを確信した。

それにしても。落ちた場所の屋根ではなく、少し離れた場所で寝かされていたということは。
翡翠は護者を避けなくてはいけないような人物なのか。
頭の端に出てきた答え。
だが己を助けた人物に違いは無く、意味も無いのに悪い事などを起す人柄にも見えなかったから。

「……救急箱の場所なんて聞いたら、絶対怪しまれるのらよね」

屋根から塀に移り、そしてグラウンドに降り立つ。
さすがに建物の入口は鍵が掛かっているだろうけれど、窓の1つくらいは開いているだろうコトを願い歩き出す。
しかし数歩も立たぬうちに、まろは足を止めた。
寝ぼけ眼の架愁が、扉に寄りかかりまろにと手を振っているのだ。
厠と称して外に出掛けていたことなど、無論お見通しだったらしい。
これが桂嗣であれば叱られる事への溜息などを付くところだが、架愁なら何も問題は無い。
まろも軽く手を振り、ゆっくりとした歩調で架愁の方に向かった。

「お気に入りの厠は見つかったの?」
「おかげさまでのぉ。再来したくなる厠を見つけてしまったぞぃ」
欠伸を噛み殺しながらの質問に、軽い口調で答えてみせる。
その答えが気に入ったのか、架愁が欠伸を微笑みに変えてまろの頭を撫でた。

「まぁ良いけどね。早く戻らないと、そろそろ桂嗣達が帰ってきちゃうよ」
「ぉお、それは大変じゃ。良い子のまろは早く布団に潜りこまねば」
「夜中に遊び歩いてたなんてバレたら、叱られちゃうものねぇ」
「うむ。架愁も決してバラすではないぞ」

無意味に低音を発し、似合わぬ脅しの顔を作る。
架愁が声を出して笑った。月を光を受けて輝く金色の髪。
釣られたように、まろの脳内に先程見た翡翠の悲しい表情が浮かんだ。
透明に近い緑色の瞳。それは闇の時間には、何故かソライロのようにも見えたから。

「あぁ。そうだ、架愁よ。1つ質問があるのだが……」

取り合えず部屋に戻ってから救急箱を探すか、それとも先に探そうか。
長い廊下をぽてぽてと歩きながら、まろは思いついたように言葉を吐き出した。
「どうかした?」
横に並んでいた架愁が、ほんの少し顔を傾げて視線を寄越す。
さらちと流れる髪。金色の睫毛も、優しく揺れて。

「……友人の名を語り悪事を働くとすれば、理由は何であろうか」

本当は救急箱の場所を聞くつもりが、全く違う言葉が出てしまった。
この街の現状を考えると、あまりに意味深な発言。人に寄っては、深く追求されることもあるだろうが。
「その友人を憎んでいる、とかじゃなくて?」
「いや、多分違うとは思う」
追求などする様子もなく、あっさりと答えてくれた。
話題を出した相手が架愁で良かったと安堵しつつ、どうせだからと視線だけで更なる答えを強請る。

もし翡翠が琉架を荒らしている犯人だとしたら。
片方しかない羽から『片翼の麗人』と呼ばれた桂嗣が疑われると判っているなら。
天眠の時代には友人であったのに。まるで悪事など起せないような顔をしているのに。一体どうしてなのか。

「……もしかすると」

考えながらも歩きつづけていると、何故か架愁の瞳に陰が掛かったように見えた。
優しかった微笑が、急に冷たく感じて。悲しく、見えて。
まろは無意識のうちに息を飲んで。

「自分が居ることに気がついてほしいのかもね」
架愁には似合わない自嘲じみた声が、まろの耳の中にと入って来た。




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