ぽたりぽたりと、頬に何かが落ちてくる感触。
雨でも降っているのだろうか。その割には、雫がどうも生暖かな気がする。

「……ん……?」

其処まで考てから、まろはゆっくりと瞼を開けた。
吸い込まれそうな闇夜が全面に映し出され、此処が外であることに気がつく。
ということはこの頬に掛かる雫は、やはり雨粒なのだろうか。
ウツラウツラとした思考を巡らせていると、未だ仰向けの状態のまろの顔を誰かが覗き込んだ。

「起きたのか」
目覚めたばかりの視界は狭いため、まろには見えなかったが、直ぐ横に誰かがいたらしい。
ぼんやりとした視界に、見覚えのある顔が映し出された。
否。まろとしては見覚えのない人物。
だが本日2回も見た夢の中では、穴が開くほどに睨みつけた相手で。

「翡翠?」

名前を呼ぶと、夢の登場人物……翡翠が一気に警戒の表情を作った。
「……お前、何で俺の名前を……」
唸るような低音。会ったこともない人物に名を呼ばれたのだから、至極当然の反応だろう。
「実は……」
実は遠い過去に会ったことがあってのぉ。
上半身を起こしながらそう答えるつもりだったまろは、しかし翡翠の翼が見えて口を閉ざした。

翡翠と正面から向かい合ってもその肩越しに見える、大きな翼。

闇夜に輝く真白な翼は、しかし片方しかなくて。
まるで童輔に聞いた『片翼の天使』


「……実は、何なんだ?」
眼を大きく開き動かないまろを不穏に感じたのか、不機嫌な低音で続きを促してきた。

眉間に寄せた皺と、時折風に流される蒼白い長髪。
まろが知る誰かに似ている気がして、でもその正体ははっきりとは掴めず。
答えが出る前に、まろはゆっくりと口を開いていた。

「実は、おぬしの目は翡翠色に見えてな」
動揺を隠すために、静かに息を吐きながら答える。
実際この人物が琉架を荒らしている張本人なのかは判らないが、この時期に片翼の天使とは出来すぎている。
己が海堵の記憶保持者であることを隠す必要もないけれど、用は念のため。
遠い昔に会ったことがある、なんていうのは翡翠の疑惑が晴れた後でも構わないから。
まろは翡翠の目をしかりと見つめながら、言い詰ることもなく嘘を付く。

ふと、翡翠の瞳が悲しげに揺らいで見えた。

「……あ、あ。そうか、目の色……」
溜息にも似た呟きは、先程までの警戒心さえ見当たらないほどの沈んだ声で。
一体どうしたのだろうか。何か不味いことでも言ってしまっただろうか。
しかし理由の判らないまろは、取り合えず褒め言葉を述べた。
「うむ。今は夜のために影っているが、日の当たる場所であればさぞかし綺麗じゃろうな」
無論本心でもあるので、真向かいにある翡翠の顔を下からのぞきこむ。
やはり綺麗な、翡翠色の瞳。
しゃがみ込んでくれている為、上半身を上げただけのまろでも十分間近に見ることが出来る。

日光を浴びてなさそうな白い肌と、白銀色の睫毛。
翡翠色の瞳。額に流れる朱……。

「お主、怪我をしておるではないか!」
翡翠の顔をまじまじと見つめ、ようやくその額から血が流れていることに気がついた。
どくどくと流れているわけではないが、しかし頭からの流血とは危険なもので。
「ってぇ」
怪我の状況を見ようと小さな両手でその顔を挟んだまろに、翡翠が抗議の声を上げた。
「おっと、すまぬすまぬ。思わず手に力が入った」
あまり悪びれた様子もなく謝り、しかも人差し指で恐る恐る傷の部分をなぞる。
其処まで深くはないが、応急処置くらいは必要そうだ。
「なにをどうしてコンナ怪我をしたのじゃ……」
思わず呆れた口調で訊ねると、本気で痛いらしい翡翠がまろの両手を振り払った。
「窓から落ちるお前を助けて頭打ったんだよ!」
「おや?」
馬鹿にされたと感じたのか、翡翠の怒鳴り声。
そして思い出した。夢を見る前、二階から落ちたような気がする。

では此処は何処だ。

周囲を見渡せば、家々の屋根が並んでいる。つまりは此処も屋根の上。
二階の窓から落ちたまろを助け、そして屋根の上に寝かせてくれていたらしい。
しかも起きたときに感じたあの水滴は、どうやら翡翠の血だったようだ。

「……有難うなのら」
「どういたしまして!」

素直に感謝の言葉を述べたまろに、翡翠が乱暴に答える。
ほんの少し頬が赤く見えることから、どうも照れているらしい。
警戒したり起こったり悲しんだり照れたり、なかなか忙しい天使だ。
しかも窓から落ちた子供を助けて自分が怪我をするあたり、中々のお人よしだといえる。

……あぁ。そうか、そうか。
其処でまろは、翡翠が誰に被って見えたのか理解した。




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