「……こんなもんか」

誰かの家の屋根にしゃがみ込み、小さく呟いて下を見た。
其処に広がるのは、鮮やかな闇に焦がされ始めた相模の街。
いや? 此処に眠る闇はこんな可愛らしいものではない。だが其れを目覚めさせることは出来ない。

「海堵さん。そろそろ引き上げましょう」
俺より数歩後ろに、懐かしい者の血を別けた人間の気配を感じた。
振り返れば、アイツの面影を残す黒髪の男。頬に浮き出た刻印は、地補の息子である象徴か。

穏やかな屋根の上にも、聞えてくる悲鳴。それに続くのは、この街の住人が逃げる足音。
家々の壁には亀裂が入り、せっかく舗装されていた道路は至る所が割れて土を見せている。

「お前たちに引き上げる場所なんてあるのか」
生まれ育った街を破壊した割に清々しい男を心配をしての言葉ではなく、会話の流れとしての疑問。
「……多分、此処より他にないでしょうけどね。でも此処にいる訳にはいかないので」
少しだけ眉を寄せてから、困ったように笑う。息子とはいえ、性格までは遺伝しないらしい。

ソイツの後ろ側、遠く向こうからヤルベキ事を終えた集団が飛んで来るのが見えた。
さすがは地補の創った街というだけあり、稀に見られない程に強い力を持つ者ばかり。
そしてその全てが、体の何処かに刻印を持って生まれた人間。

「海堵さんのおかげで、素晴らしい演出が出来ました。感謝しております」
ぼんやりと考え込んでいた俺に、男が頭を下げた。
この惨劇を、単なる『演出』と言い切れる辺りは、やはり地補の血か。
とりあえず終ったのならこの落書きは必要ないと、血で染まった服の袖で首筋に大きく書いた刻印を拭った。
こんなものを付けて帰ったら、天眠になんと言われるか判ったものではないから。


***


何度となく訪れたこの場所。
街の殆どの家がレンガ造りだというのに、この家だけは樹木のみで作られている。
それはまるで、俺たちが四人で住んでいた時の家に似ていて。
『……よぉ』
鍵の掛かってはいない無用心な家に勝手に入り、アイツがいるであろう部屋に入った。

『久々だな、海堵。呼びかけても全然来ないから、待ちくたびれて死ぬところだったぜ』
思っていた通りの場所にいた地補が、俺を認めて目の周りの皺を一層深くした。
俺にとっては直ぐ来たつもりだが、人と同じ時間帯で生きることを選んだ地補には、相当長く感じられたらしい。
『ま、来てくれてから許してやろう』
無言となった俺に、真っ白な髪を掻きあげた地補が偉そうに笑った。
蹴り飛ばしたくなったが、そのままマジで逝っちまいそうだから、どうにか堪える。

『……んで、用件はなんなんだよ』
『俺が死んだなら、この街を壊して欲しい』
どうせ下らない話だろうと窓の淵に座った俺に、その直ぐ横の椅子に座る地補が変なことを言った。

『……は?』
『いや、壊すって言っても本当に、じゃねぇぞ? 直ぐに建て直しが聞く程度に荒らしておいて欲しいんだ』
『言ってることの意味が判らねぇんだけど』
『嘘を付くなって。頭悪くても察しの良い海堵ちゃんには判るだろ?』
皺々のジジィが、パチリと片目だけを閉じて見せた。
頭が悪いとか海堵ちゃんとか、むかつくことを言われた気がしたが、今は無視をしてやる。
愛する者を護る為に長い時間を掛けて創り上げた街を荒らせという、地補の言葉の方が重要だから。

『……嫌だ』
『頼むって。ちょっと身体の目立つ場所に落書きを書いて、ちょっと街で暴れてくれれば良いんだからさ』
『ちょっとってドレくらいだよ』
『この街の住人が、一生涯この街に刻印を持つ人間を立ち入らせないくらい』
『それはつまり、相当荒らせってことじゃねぇかよ』
ギロリと睨んだ俺に、今にも棺おけに飛び込みそうなくらい年老いた地補がゲラゲラと笑った。
その笑い方は、若い頃と全く変わってはいない。
いや、若い頃という言葉自体が可笑しい。なにせ同じ時に生まれた俺や天眠は、全く老いてはいないのだから。

『地補ちゃんからの、一生に一度のお願いだからさ〜。マジで頼むって』
『皺々のジジィがしなつくってんじゃねぇよ。気持ち悪ぃ』
『酷っ! これでも年の割にはお肌が綺麗ですねって街の人気者なんだぜ?』
それなら天眠とお肌の潤い対決でもしてきやがれ。そこまで言って、ふと窓の外を見た。

穏やかな外の風景。
天地の亀裂が起こって以来、此処まで平和な場所は相模以外知らない。
それもこれも、天使達の襲撃からコノ街を護ってきた地補の成果だというのに。
コノ街には、測定不可能なほどの闇が眠っているから。

『息子たちにも話は通してある。あとはお前さえ力を貸してくれたら、コトは簡単に起こせるんだ』
窓の外を見ていた俺に、急に真摯な声で地補がそう言った。
『……息子たちだけでやりゃぁ良いじゃねぇか。どうせ眠った闇の一部を叩き起こすだけだろ』
『それの加減が難しい。それに地の力を持つ人間だけでは、起こした後の闇を始末できない』
皮の垂れた手が、俺の右手を掴んだ。目線を変えれば、やけに真面目な顔をした地補と目が合う。
肉の削げた細い腕が服の袖から見えて、思わずもう一度視線の先を外にと戻した。

『言わなくても判るだろうが、この街に眠る闇の数は半端ではない。全て起こせば、被害はコノ街だけで済まない。
なにせ天使たちがばら撒いた種を、全て包み込んでいるんだからな。その種だって、少し触発すれば直ぐに芽が出る状態だし』
言葉が連なると同時に、俺の腕を掴む力も強くなる。
『俺が死ねば此処に眠る闇は不安定な状態になる。そんな時に力の制御方法もしらない地の力を持つ子供が生まれたら……。
そう簡単には闇全てが目覚めることはないと思う。だが芽は直ぐに発芽を始めるだろう。その子供の周りにいる人間たちの中にと』
強く握るあまり、くっと爪が立てられた。地補本人は、気がついちゃいねぇだろうが。

『俺は俺にとって大切な人達が闇に堕ちる姿を見たくはない。それは俺が生まれ変わっても同じだ。だから海堵……』
『……この街を追い出される地の術者たちは、お前にとって大切な人間じゃねぇのかよ』
いっそ懺悔かと言いたくなるくらいに切実な声に、自覚のないままでぽつりと漏らした。
地補から、喉で笑う声が聞えた。

『俺は酷い人間だから、大切な者が沢山助かるなら少しの大切な者が不幸になることは厭わないんだよ』

嘘つきな地補の台詞。つられて俺も、喉だけで笑った。
其処まで言うなら、やってやるよ。小さく呟くと、地補が喉だけではなく声を出して笑った。
本当は地補が死んだ後になんて、この街を訪れたくはないのだけれども。


『そいうえばイシはどうした?』

腕を掴んでいた手が離れ、俺はようやく地補にと視線を移した。
この前来たときには未だ耳元に付いていた筈だが、今はその気配さえ近くには感じない。
『刻印を持たずに生まれた子供に渡した。他の兄弟が去っていく中で、1人でこの街を支えなけりゃいけねぇからな』
『そうか』
軽く答えて、地補の子供の数を思い出し驚く。あれだけいて刻印を持たずに生まれたのが、たった1人だとは。

『だがソイツから地の力を受け継ぐものが生まれるんじゃねぇのか?』
巨大すぎる地補の力ならば、孫に隔世遺伝することも軽く考えられる。其れはどうするつもりなのか。
『あぁ。だから海堵にはしっかり頑張って貰わないと困るんだよ』
『はぁ?』
『忌まわしき刻印を持つ子供なんて、この街から追い出されるくらいにさ』
口の端と眉頭を上げる地補。年寄りには似合わない表情。

『……俺は多分、この街の子供として生まれ変わっちまうだろうから』

軽く吐き出された言葉は、聞えない振りをしてやった。
つまりお前は、生まれ変わった自分がこの街を壊さないかが心配なんだろう?


***


「……還るか」

叩き起こした分の闇は始末を終えた。刻印を持つ元相模の住人も、散り散りに何処かへ行った。
住人が逃げ惑ったこの街も、敵が消えたことを悟りその内ゆっくりと日常に戻り出すだろう。

上っ面をなくした闇は、コレでもう簡単に目覚めることはない。……ただし、深い眠りについた闇だけだが。
まぁどうせ直ぐに現れる芽なんてものは、樹の力を持つものであれば摘み取ることが出来る。
不安定な闇の部分の排除をする時に漂う本能的な恐怖を、刻印を持つ者への嫌悪感に摩り替えるとは。
悪知恵が利くヤツだと、朱に染まった空を見上げて思う。

「……還るぞ」

誰に向かっての台詞ではない。
ただ死んでもなおこの街に留まるであろう地補に、聞えたら良いとは思った。





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