倒れた塔亥と、兄の変貌に驚き錯乱した弟の為に、まろ達は会場に用意されていた医務室へと移動した。
昼食時間の休憩中なのか、医務室には誰もいない。仕方なく勝手に空いていたベットを借用し、塔亥を寝かせた。
そして枕もと近くにまで椅子を持っていき、未だに震えが止まらない史鵠を座らせる。
今にも泣き出しそうな史鵠。どう声を掛けてよいかわからず、まろは震えた背中を優しく叩いた。
「……何で、お兄ちゃんがっ」
どの位そうしていただろうか。眠る兄の顔を見つめていた史鵠が、目の前のシーツをぐっと握り締めた。
「アレは……俺にも判る。闇に囚われた者の目だったっ……」
堪えきれなかった泪が流れ、ぽたりぽたりとシーツに染みを作る。

闇に囚われたモノは、大切なモノを壊そうとする。闇に堕ちる前でも、そうなってしまうのだろうか。
しかし白薙の竜は、堕ちる手前まで大切な少女を守ろうとしていた気がする。
ということは塔亥も、史鵠を守ろうとしたのか。

……一体何から?

母親が幼子の背を叩くのを真似るように、史鵠の背に震動を加えながらもぼんやりと考える。
塔亥の突然の行動。確かにその前から、弟に対する執着が強すぎると感じてはいたが。
闇が入り込んだのは、前の弟が亡くなった時か。それが膨れ上がり、試合に負けた所為で飽和状態になったとか。
だが塔亥は弟が何より大事だったはず。試合の結果で闇を増幅させるだろうか。考えたところで、答えが見つからない。

「地の術者の近くにいる者が、闇に堕ち易い事を知っているか?」
似合わぬ皺を眉間に寄せていると、史鵠とは逆側の枕もとに腰掛けたソノヒトが、穏やかに微笑んだ。
窓から差し込む光を受けて輝く、少々長めの前髪。その間から見える目は優しい。
夢の中で会った人物の面影を残す青年。現在は組織側のトップ、巽だ。
会場で塔亥を止める為に掴んだ腕は、未だに放されてはいない。
「どういう、ことじゃ?」
巽がこの場所を訪れた理由も気になるが、それよりも今は塔亥のコトを聞いておくべきだろう。
そう思い尋ねると、やはり気になるらしく、まろの手に触れていた史鵠の背に緊張が走った。
しかし子供2人に見つめられた巽は、穏やかなに表情のままで。絵本を読むように、優しく語り出した。

「闇は本来、還る場所を持たない。堕ちたものは、その場で爛れ腐り続けて呪いの詞を吐くのみだった。
けれどもある時、その姿を余りに憐れだと感じた地の力が、何処にも行けずにその場で腐れるしかなかった闇を土へと還した」

巽に腕を掴まれている塔亥からは時折、寝息とは異なる微かな声が漏れている。
今は巽が力を使い、塔亥の中に芽吹いたモノを摘み取っているらしい。
それがどういう作業なのか、まろにはあまり判らないが。

「おかげで闇は地の力を持つ者の近くを好む。己の存在を、唯一許してくれるその存在を」
「……だから、地の術者の近くにいるものが堕ち安いと?」

巽が一息ついたことを確認し、まろが質問を投げかけた。
史鵠の背中が、緊張を解く様子はない。

「あぁ。それに何故か誰もが知っているんだ。例えオノレが堕ちても、許してくれる存在があると。
だから生き物は……特に人は安心して堕ちてゆける。その後に見る映像が絶望だけだとしても、地に還ることが出来るから。
……いや、違う。地の中で見る夢は、何も絶望だけではない。その前に必ず、幸せな時も映し出す。
その所為で更に、後の映像に絶望するわけだけれども。大切なモノを失った現実よりは、未だ心地よいと言う人もいるだろう」

長い、話が終わる。何となくだが、まろにも理解することが出来た。
つまるところ巽は『史鵠の力の所為で、塔亥が堕ちそうになった』 と言いたいのだろう。とても遠まわしではあったけれど。
まろ以上に頭の回転が速いと思われる史鵠には、当然理解できたはずだ。先程以上に大きく震え出した姿が、そのことを現している。
こういう時、周囲の人間はなにをしたら良いのか。十歳児のまろでは経験不足過ぎて次の行動に移れない。
カタカタと音を鳴らす椅子。史鵠の全身が、震えているらしい。途切れ途切れに聞える嗚咽の音が痛かった。

「君はこの土地を離れた方が良い。制御方法も知らない強大な力は、相模では特に危険だ。此処には種が隙間無く散らばっているからな」
「……種とは、何のことじゃ?」

巽の言葉に答えられそうに無い史鵠に変わり、まろが疑問を投げた。
気にした様子のない巽が、穏やかな表情のままで答えを紡ぐためにと口を開く。

「多種類ある闇の形態の一つだ。遥か昔より相模の地中に眠り、絶望を見た生き物の中に勝手入り込んでは発芽の時を待つ」
「塔亥の中でも、発芽をしたと言っておったな。……助かるのか?」
「樹の力を持つものならね、その芽を摘み取り枯らせることが出来る」
「……そうか」

思わず、安堵の溜息を付いた。塔亥が助かるのなら、史鵠がオノレ自身を責める思いも少しは軽くなるだろう。
もしこれで助からないと言われたなら。この少年のことだ、きっと自分自身を許さない。
まろより多少年齢が上なだけで、世間では未だ子供と呼ばれる年なのに。史鵠は己を責める方法を知りすぎているから。


ぴくりと、塔亥の瞼が動いた。芽は摘み取られたのか、巽が腕を放す。史鵠が息を飲む音が聞えた。
塔亥の瞼がゆっくりと明けられるものの、その奥にある瞳は虚ろな色を灯している。

「……すまない……」

虚ろな目が史鵠を捕らえた後、幾ばくかの間をおいてから塔亥がぽそりと呟いた。
擦れた声は、単に寝起きだからか。それとも。まろが考えている間に、塔亥がもう一度同じせりふを吐いた。

「……すまない。お前と、この大会で優勝してみせると約束したのに……」

涙声に近いような、懺悔のときの声に近いような。
言葉を続けながら、塔亥が先程まで掴まれていた腕を伸ばして史鵠の頬を撫でた。
会場の時とは違う雰囲気。まろも止めることはせずに、史鵠の斜め後ろでその様子を見る。
何度も繰り返される、塔亥の謝罪。
だがソレは闇に堕ちて史鵠を攻撃しそうになったコトではなく、試合に負けたことについてだった。

「兄ちゃん。俺はそんな約束、していないよ?」

塔亥に頬を撫でられながら無言で聞いていた史鵠だったが、塔亥の言葉が『すまない』ばかりになると、ようやく口を開いた。
軽く首を振るのは、そんな約束はしていないから謝らないで、というところか。
きっと塔亥が大切な弟のために、1人でそう誓ったのだと思ったのだろう。しかし。

「いいや、約束をしただろう。柚歩(ゆずほ)が安心して此処で過ごせるように、兄ちゃんが相模の長となりこの街を変えるって」

史鵠の頬を撫でている塔亥は、聞き逃してしまいそうなくらいにさらりと、史鵠ではない誰かの名前を告げた。
それは多分、亡くなった弟の名前。
塔亥はいつも、史鵠を見ながらその中に守れなかった弟を見ていたということか。
即座に史鵠の顔を見る。いや、この場所からでは横顔しか見えないのだけれども。
誰かの身代りになるなんて、傷つかないはずが無い。そう思ったのだが。

「……そうだったね、お兄ちゃん。でも俺はもう大丈夫だから、お兄ちゃんはお兄ちゃんの為に生きて……」

身代りにされた張本人である史鵠は、特に驚くこともせずに塔亥にそう告げた。
優しい弟の言葉に、兄が安堵にも似た微笑を浮かべる。
その後でもう一度だけ『すまない』と呟き、塔亥は瞼を閉じて少しの間休息を取った。




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