「今日はスクランブルエッグの気分だって言ったじゃない!!」
瞼の向こうに朝日を感じるよりも早く、誰かの怒鳴り声でまろは目を覚ました。
「……うるさいのらね……」
鶴亀家に比べると壁の薄い鴛宅では、大声を出せば全ての部屋に聞こえてしまう。
小さく呟き、寝直すためにと布団を頭の上まで被った。だが残念なことに睡魔はもう去ってしまったらしい。
少しづつ頭が冴えてくる事を感じたまろは、仕方なく布団から這いだした。
「やっだ、またブロッコリー入れてある! 私が嫌いなの知ってるくせにっ」
「なら召し上がらなくても結構ですよ」
「……何を喧嘩しておるのじゃ」
洋服に着替えたまろがキッチンに向かうと、先ほどの声の主とその相手がいた。
子供ながらに眉を寄せて不機嫌な顔をしてみせると、気がついた桂嗣が困ったような笑みを作る。
「おはよう御座います、まろ様。煩くして申し訳ありませんでした」
そして早々に食卓に着いたまろに、温かな番茶を入れてくれる。10歳にして老後生活を夢見るまろは、朝は必ず番茶を飲むのだ。
「……私、うるさくしてないわよ」
怒鳴り声の主、葉月が拗ねた声を出して桂嗣を睨みつけた。桂嗣は苦笑している。
それがまた癇に障るのか、葉月が可愛らしい姿には似合わない罵声を桂嗣に浴びせ始めた。
この喧嘩と言うには一方的過ぎる遣り取りは、昨晩、葉月が帰宅した瞬間から続いている。
鴛に比べると身長も低く、顔も可愛らしい葉月なのだか。
「結構面白いだろ?」
2人の言い合いを、ぼんやりと番茶を啜りながら聞いていたまろの隣席に羅庵が座った。
眠そうな眼と寝癖がついたままの髪を見ると、今起きてきたばかりのようだ。
「恋人同士だった時も、こんなだったのらか?」
「あぁ。アレで同棲までしてたんだから、2人とも相当ひねくれてるよな」
羅庵には言われたくないだろうよ。思わず口にしかけ、慌てて番茶で流し込む。一言多い人間は得をしない。
「そういえば羅庵よ、嫁は何処に隠した」
2人の会話を聞きながら、ふと今朝方見た夢を思い出したまろがポツリと声を出した。
「……俺が結婚してる話、まろ様にしたことあったか?」
人様宅の冷蔵庫から勝手に牛乳を取り出して来た羅庵が、疑問で返す。
葉月と言い合っている桂嗣もその声に気がついたのか、一瞬だけ止まり、しかしまた葉月との会話を始めた。
「また稜の夢を見てのぅ。お主、見かけに寄らず愛妻家らしいな」
空の湯飲みを差し出し、牛乳を入れてくれと頼む。下に茶葉カスが残っていたけど、あまり気にはしない。
「あぁ。嫁さん第一だったからな」
「過去形とは、今は違うのらか?」
湯飲みの淵スレスレまで入れられた牛乳を、零さないように口に運ぶ。白い液体の中に茶柱が一本立っていた。
「結婚して3年で亡くなったんだよ」
「……ほぉ」
聞くべきではなかったかもしれない。などと言えるはずもなくて、取りあえず頷く。
白い髭を貼り付けて無表情を気取るまろを見て、羅庵が口の端だけを上げて笑った。
「もともと心臓に欠陥があってな。担当医が同僚だったのもあって、結婚する前から長くはないコトは知ってた」
透明グラスに並々と入った白い液体を、喉を鳴らしながら流し込む。
早口ではあるが、吐き捨てるというよりは懐かしむ口調で話した羅庵に、まろは返す言葉が判らず今度は無言で頷いた。
***
「スポ根万歳……」
「一緒に混ざってくるか?」
「謹んで遠慮させてもらうのらよ」
道場全体に響く木々の打ち合う音。単なる練習だというのに、どうして皆ここまで真剣なのか。
己の肉体を鍛え上げることに一切の興味を持たないお子様は、目の前で繰り広げられる剣術の稽古に驚きを隠せずにいた。
武道会中である為に鴛はいないが、多分師範クラスの実力を持つであろう人物が、他の生徒たちを指示し稽古は進められている。
5日間掛けて行われる武道会2日目。まだまだ出番のない羅庵を連れて、如月流の道場に見学に来たまろであったが。
……まろは先生(桂嗣)がいなかったら、絶対道場の端で昼寝してるのらよ。
己とはあまりに違う如月流の生徒たちに、ある種の尊敬の眼差しを送った。
「向こうの奥側にいるの、まろ様と同じ年位の子達だよな」
道場の入口側。壁に寄りかかっていた羅庵が、対角線上の奥側を示した。
そこには子供用の剣……勿論木で模してあるものだが……を握った子供達が稽古をしている。
1対1で行われている練習。その子供達の身長やたどたどしい動きからすると、確かにまろと近い年齢だろう。
「うむ。皆頑張っておるのぉ」
お前も頑張れよ。思わず突っ込みたくなる台詞に、羅庵がニヤニヤと笑う。
「まろ様も剣ぐらい握れるんだろ。ちょっと相手してもらえば?」
「湯飲みより重い物は持たぬことにしておってな」
羅庵がからかうより先に、まろはスッパリと言い切った。しかも真顔のままな所を見ると、本気らしい。
「普通は箸より……じゃねぇのか?」
軽く噴出した羅庵は、それでも少しの間を置いて突っ込んだ。
即座にまろが首を振り、何故箸ではなく湯飲みと言ったかの説明をしようとする。
だが口を開きかけて、視界に入ったモノに目を大きく開き、口はそのまま閉じた。
「……へぇ」
口を閉じたまろとは逆に、羅庵が小さな感嘆の声を漏らした。目もまろとは逆に、楽しそうに細められている。
その視線の先にあるモノは。
「……凄いのらね」
少し無言の間を作っていたまろだったが、声に出さずにはいられないと、軽く溜息を付いた。
まろ達が見ているもの。それは子供達の稽古姿であった。
遅刻してきたのか、それとも用を足してきたのか。先程見ていた時にはいなかった少年が、子供達に混ざり稽古をしている。
だがその場にはあまりに不釣合いな剣捌き。流れるような優美な動きで、相手の剣を叩き落とす。
あれならば、まろ達の直ぐ前で稽古をしている大人達にさえ負けそうにない。
年は12歳前後。胴衣の上からでも判る、筋肉が付いているか疑わしい程の細い体からすると、本当はもっと下かも知れない。
いや。此処まで人目を惹く雰囲気……殺気ともいうが、を放っていることを考えれば、もう少し上かも知れないが。
何にせよ子供達の中で稽古をさせる存在でないことは、初めて見たまろにさえ判ってしまうような人物。
しかも此処まで才能の差を歴然と出されては、一緒に稽古する子供達の気持ちが萎える可能性がある。
これは鴛ちゃんに忠告しておく必要があるのらね。偉そうにそんなコトを考えていると。
「……んでお前みたいな奴が道場に来るんだよっ」
思っていた通りの状況になった。優雅な剣捌きの少年と組まされていた子が、その少年に殴りかかったのだ。
練習ではないからか。それとも剣を持っている相手以外には反撃できない性質なのか。少年はされるがままになっている。
しかも慌てているのが指導していた人だけのところを見ると、この状況は毎度のことのようだ。
無抵抗で倒れた少年を蹴り付ける子供……達。何時の間にやら周囲の子供で少年を囲んでしまっていた。
四方を囲み、頭を抱えて丸くなった少年を蹴り付ける子供達。はっきりといえば、胸糞の悪い光景に。
「ぬしらっ……」
「痣持ちは家に篭ってれば良いんだよ!!」
怒鳴りつけようとしたまろの声に、少年を蹴る子供の罵り声が被った。
「……痣持ち?」
その言葉の意味が判らないまろが、そこで軽く息を飲む。
「なるほど」
その隣で理解したらしい羅庵が、ぽつりと呟いた。まろは直ぐに視線の先を変え、説明を求める。
目が合ってしまった羅庵は苦虫を噛んだような表情をしてから、小さな溜息を付いた。
***
「痣持ちっていうのは、特殊な紋様の形をした痣を持って生まれた子のことだ」
指導者がどうにか子供達を止めたのを確認した後、一瞬にして冷めてしまったまろが羅庵を連れて帰宅する最中。
説明を求められた羅庵が、これじゃそのまま過ぎるな。と自分で言っておきながら笑った。
「ふむ。しかし紋様の形をした痣は、地の力を持つ子供の証ではなかったか?」
鶴亀家にいた頃、桂嗣に聞いたことがあるぞ。とまろは至極真面目そうな顔で答える。
まろにとって先程の光景は、あまりにも信じがたいものだったのだ。
「そのとおり。けど相模には古い言い伝えがあってよ」
「言い伝え?」
訝しげな顔で羅庵を見上げている。時々大人顔負けの言動をするまろも、こういう時は純粋に怒るらしい。
「あぁ。地の力を持って生まれた子供は、相模に厄をもたらすだろうっていうヤツが」
ありがちだろう? と口の端だけを上げて笑う羅庵。その左頬には、地の力を持つ子供の証が刻まれている。
そういえば羅庵は幼い頃にしか相模には住んでいなかったと言っていた。
それもこの言い伝えに何か関わりがあるのだろうか。頭の端で考えて、聞くことは止めて置く。
今朝方も軽い失言をしたわけだし、この質問はもう少し後に取っておこう。
つまりはその内質問する気だということだけれども。
「下らん言い伝えなんぞ、まろは信じん!」
説明は聞いたものの結局賛同は出来ないと考えたまろは、怒り任せにその場で高らかと宣言した。
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