濃すぎる蒼が晴れた空の色に変わり、ついには白色にまでなった頃。
桂嗣はようやく意識を取り戻した。

「……貴方でしたか」
眩しい光に目を細めながら、未だに己の腕を掴んでいる相手にぼんやりと呟く。
「あぁ、お前が堕ちる寸前だと聞いてな」
桂嗣の横たわるベットの淵に座っていた相手……巽が、掴んでいた腕を放した。
その表情は、先ほど闇の意識の中で見ていたものと変わらぬ優し気な笑顔で。
「強く、なったつもりだったんですけどね……」
自嘲気味な声の桂嗣が、先ほどつけなかった溜息をゆっくりと吐き出した。

まだ幼いまろでは竜の意識に飲まれる危険性が高いと、身代りになった己だったが。
あの程度の記憶に堕ちそうになるとは、あまりにも情けない。
自己嫌悪に陥った桂嗣は、先ほどまで巽に掴まれていた腕で己の顔を隠した。
「精神の力を持たないお前では、仕方のないことだよ」
桂嗣の考えを感じ取ったのか、昔と同じ穏やかな口調の巽が慰めの言葉を吐いた。
確かに精神の力を持たない桂嗣では、人の中に入り込んだ闇の意識を取り出すのは危険行為だ。
しかもソレを己の中に取り込もうとするなんて、力の弱い者なら自殺行為と言われそうなもの。
けれども。
「そのくらい、強くなれたと思っていました……」
顔全体を腕で隠しているせいでか、くぐもった声の桂嗣がそう呟いた。
巽は何も答えない。ただそのまま真っ白な壁を見つめていた。


長い、沈黙。
かといって気まずい空気ではない。どちらかといえば、穏やかにさえ感じる雰囲気。
どうにか自己嫌悪から脱出した桂嗣は、顔を覆っていた腕を退けてそっと辺りを見回した。
十畳程の部屋。あるのは今桂嗣自身が使っているベットと、勉強机のみ。
しかもこの部屋にあるもの全てが染み一つない純白。もちろん壁も白色である。
「白桜院……?」
「あぁ、流石に桜花寮に連れては行かなかったからな」
微かに吐き出された桂嗣の声に、ベット淵に座る巽が答えた。
白桜院(はくおういん)とは組織が経営する孤児院で、庭に植えられた桜の花が全て白色であることからその名がつけられたと聞く。
ちなみに桜花寮は組織で働く者達……特に幹部・幹部候補達に与えられた宿舎だ。
桂嗣がゆったりとした動きで、上半身を起こした。

「私は、何日ほど此処で?」
「此処に来てからは2日。意識をなくしてからはもう3日だな」
「……思っていたより時間が経っていますね。まろ様達は?」
「今朝早くに白薙を出たと聞いた。今頃は次の街に着いて、鴛達と会っているだろう」
「そうですか。では早く、追いかけないと」

互いに視線を合わせることもせずに話す桂嗣と巽。久しぶりに会ったとは思えない程に、当たり前のような感覚。
一つだけ息を付いた桂嗣は、指、腕、肩、首と順番に動くことを確認した。
3日も眠っていた割には、何処も鈍っている様子はない。


「久々に、懐かしいモノを見てしまいましたよ」
一度ベットから出ようとし、巽がシーツの端を踏んでいるために出られないことに気がついた桂嗣は、もう一度座りなおした。
「闇に堕ちる前って、己の記憶を見るんですね。初めて知りましたよ」
まるで世間話でもするかのように続ける。
「頭の中に記憶されていても、あんな風に目の前で映像が流されると、前世どころか、たった今起きたことのように感じてしまいます」
桂嗣が何故ベットから出ないのか気がついていない巽は、そのまま何も言わずに話を聞いている。

ふと、桂嗣が息を飲んだ。穏やかだった空気が、少しだけ不穏な色に染まる。
純白の壁から巽の横顔に視線を向き変えた桂嗣は、特に気にした様子のない巽に、言い難そうな声で、それでも口に出した。

「架愁は、秋花さんでも貴方の本当の弟でもないんですよ」
意味もなく、眉の間に皺を寄せる。苦しげな表情。けれども言われた張本人である巽は、先ほどと変わらない優しげな顔。
「架愁は、俺の弟だよ」
サラリと返すその声も、桂嗣とは異なり穏やかなままだ。
「貴方の弟は、浴槽で亡くなったじゃないですか」
「あぁ」
「なら架愁は……」
「生まれ変わったんだよ。両親に殺された架秋は、今の架愁へと」
そこでようやく、壁を見つめていた巽が、桂嗣の方を向いた。
「お前の言いたいことは判る。架愁を身代りにするな、だろう? 俺が護りきれなかった存在達の身代りに」
薄く細められた巽の視線が、動揺した桂嗣の視線とかち合う。
「でもな、桂嗣。そういうお前は蔓貴君の向こうに誰を見ている?」
「私は……」
反論するように声を出し、けれどもそれに続く言葉を出せずに詰まる。


それから又どの位かの時間が過ぎた。
押し黙ってしまった桂嗣の次の言葉を待っていた巽が、小さく微笑みを零し立ち上がった。

「そろそろ仕事に戻るとするよ。なにせ2日も此処に篭りっきりだ」
幼い日の優しげな表情と口調。
「……お手数をお掛けいたしました」
言い詰まってしまった桂嗣は、巽に顔を向けることが出来ずに、祈るようにして握った両拳を見つめている。
「気にするな。俺にとってはお前も、架愁に負けず劣らずの弟分だ」
弟分、と言って可愛がるには不釣合いな桂嗣の頭を軽く撫でた。アノコロと変わらぬ巽の行動。
「……そ、れは、嬉しいですね」
巽の手を退かそうともせず、固まったままの桂嗣が答えた。目線はまだ、己の拳。


「蔓貴君達は相模の街にいるはずだ。早く追いかけて行くと良い。道は知っているんだろ?」
巽が立ち上がったおかげでベットから抜け出せた桂嗣に、巽が窓を指して其処から出て行くように伝えた。
「えぇ、地図さえ見れば大丈夫でしょう」
玄関から出れるとは思っていなかった桂嗣も、気にせず窓の鍵を開けた。生暖かな風が中に入る。
「そうか。まぁ念の為……というよりも立候補者がいるから、案内人を出してやる」
「……鬱灯ですか? それなら是非ともご遠慮させて頂きたいですね」
「まぁそう言うな。お前を此処に連れてきたのも奴なんだから」
あらかさまな桂嗣の反応に、巽が喉だけで笑った。

「鬱灯なら、呼べば5分と掛からずに来るだろうし、俺はもう行くよ」
そしてまた優しげな表情を作り、巽は扉の方から出て行った。


開け放しの窓。
生暖かな風が、桂嗣の周りに張付いている気がした。




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