『なんでっ』
『桂嗣、俺は大丈夫だから』

ここに来てから、一体どの位の時が過ぎたのであろうか。
映像が綴られるだけのこの場所では、正確な時間を測るなんてコトは出来ない。
天眠としての記憶が終了したのか、桂嗣の目前に現れた映像は幼い日の巽であった。

『だってまた痣が増えてる!! ちゃんとオバサン達に言おうよぉ』
『良いんだって。俺が、悪いんだから』
あれは遠すぎる幼少時代。偶然か必然なのか。桂嗣が6歳の頃に、巽は隣人としてやってきた。
優しそうな両親。なのに巽の身体には、至る所に無数の痣が出来ていて。
『巽は悪くないよ!! だって僕と同じだもん!!』
『……あぁ、そうだな。ありがとう、桂嗣』
優しく微笑む巽。未だ10歳にもなっていないのに、子供とは思えない表情。
幼い桂嗣は泣いているのだろう。映像が歪んでいた。

術を使うための力は、血で受け継がれる。片親だけでも術者の血を持っていれば、ソレは子供へと続くのだが。
残念なコトに、巽の両親は術者の家系ではなかった。それなのに巽は生まれながらに強い力を持ち。
……稀に、あるのだ。コウイウコトは。
けれどもあまりに稀なコト過ぎて、妻が夫以外の相手との子を産んだのだ、と周囲は勝手なことを言い出す。
覚えのない罪で弾圧された妻の大半は、その怒りと悲しみを子供へと向ける。生まれながらに強い力を持ってしまった、子供へと。


『それよりも聞いてくれよ、桂嗣。俺に弟が出来るんだ』
『おとう、と?』
『昨日、母さんが病院に行ったんだ。それで、帰って来てから俺に弟が出来るんだって』
楽しげな話題に切り替えた巽が、ピースサインを出した。夏だというのに長袖のシャツの裾から、紫色の痣がチラリと見える。
そんなことにはもう慣れてしまっているのか。全く気にした様子のない巽が、笑顔のままで続けた。

『母さん、俺が名前付けていいって』
『良かったね、巽。もう名前は決めたの?』
『架秋(かしゅう)にしたんだ。秋を架けるって書いて架秋』
『綺麗な名前。でも何でその名前にしたの?』
『俺の大切な人の名前に似せたんだ。そんで今度こそ、俺が護ってやるって』
『大切な……人?』
『あぁ、俺が今の俺じゃなかった頃に大切だった人。……桂嗣は、未だ思い出せていないんだったな』

映像が、少し斜めになる。きっと意味の判らぬ幼い桂嗣が首を傾げたのであろう。
その当時、確かに桂嗣は天眠の頃の記憶がなかったから。
『思い出したら、きっと判るよ』
首を傾げたままであろう桂嗣に、大人びた表情の巽が優しく微笑んだ。


この先のことは、映像なんて見なくとも鮮明に覚えているのに。
指先が白くなるほどに強く手を握った桂嗣の頭に、ふとそんな言葉が過ぎった。
子供の頃だけれども、桂嗣が桂嗣として育ったまでの全ての原点とも言えよう。
巽のアノコトがなければ、きっと稜には会わなかった。もしかすると鶴亀家ではなく、組織側で働いていたかもしれない。

穏やかな時の映像が崩れると、直ぐに鮮やかな炎が全面に映し出された。
あぁそうだ、覚えている。巽の弟である架秋が生まれて一年も経たない頃に、巽が家に火を放ったのだ。
術者である両親が必死に消火活動を行っている姿が、遠くに見える。
その横で声をあげて泣いている巽の両親。

後々聞いた話では、巽の弟にも、あってはならぬ力があったらしい。
両親は悩み、苦しみ、そして間違いを起こした。湯を張った浴槽に、赤ん坊を落としたのだ。
赤ん坊はもがき続け、しかし自力で出てくることは出来ずに力尽きた。
そして居間で弟の身体を拭いてやろうとタオルを片手に待っていた巽に、突然の発作が起きて亡くなったのだと告げると。
巽は家に火を放った。己を育てた両親を焼き尽くす勢いで。
両親は迂闊すぎたのだ。今まで暴力を振るわれてきた巽が、ソノコトに気が付かないはずがなかったのに。

消火が終えても、巽と殺された弟の骸は何処にも見当たらなかった。


可哀想な、巽。
幼すぎた己では、助けるどころか其処まで思いつめていたコトさえ知らなかった。
そして思い出す、桂嗣が桂嗣ではなかった頃の記憶を。祈朴と、秋花との事を。
どうしてもっと早くに思い出せなかったのか。
この記憶さえあれば、巽が弟に対して、どれほど想っていたかが判ったのに。
もしかすれば、この悲劇を未然に防げたかもしれないのに。
相手がいなくなったと判ったときに、その相手が大切な仲間だと思い出すなんて。
祈朴の鮮血と天まで焦がす炎が被さって見え、胸の辺りをギリギリと痛めつける。

助けたいと願っているのに、誰一人助けることが出来ない。
いつも近くに居たのに、無力な己では、唯大切な人達が何処かに行くのを見送るだけで。

カタカタと音を鳴らす桂嗣の唇からは、小さな嗚咽が漏れていた。
先ほどまで痛いほどに握られていた拳は、力なく広がり。ゆっくりと、爪の先からイロを失っていくのが判る。
そろそろ、堕ち時かもしれない。
下らない考えが頭の中をよぎり、桂嗣は口元に薄っすらと笑みを作った。


映像が崩れる。無力な己を嘲笑うかのように広がっていた朱が闇にとける。


あぁ、未だ先があるらしい。
長く生き続ける己には、絶望なんて想いはゴミ箱に捨てるほどあるだろう。
それを全て見なければならないのだろうか。
目を凝らした所で何も見えない空間の中で、桂嗣は諦めの溜息を吐いた。

……いや、吐こうとしてその少し手前で止まった。
自分以外はいない筈のこの場所で、誰かが己の腕を強く掴んだから。

「なっ……」
思わず振りほどこうとして身を捩る。けれども桂嗣の腕は放れない。
それどころか桂嗣の腕を掴む手の力は、更に強くなり。


周囲全体を覆っていた濃すぎる蒼が、晴れた空の色にと変わった。




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