白馬の微笑
08


あの日、目が覚めて動転した頭のまま駅へ向かったのに、駅名だけは律儀に覚えている自分の頭が信じられなかった。
元から記憶力と分析力だけはあったのだが、それが実生活、特に感情面で活かされるということは殆どなかったため、自分の能力と言うのはこういうときにも役に立つのだな、とやや客観的にそう思う。
目的の駅に着く、というアナウンスを聞いて席を立った。前の駅で吉浦へ連絡を入れていたから、何も焦る事はない。平日の夜、ラッシュとラッシュの間のポケットにはまったのか左程混んでいない車内を出ると、また冬の風が駅の構内だというのに吹いてくる。
それほど自分の体温が上がっているのだろうかと片手で頬に触れてみればやはり熱い。これじゃあ今から起こるであろう事に緊張ではなく興奮しているかのようで、川西は眉根を寄せた。

――しっかりしろ、俺

とりあえず歩調から整えようかと、遅くなってきていた歩みを少し速める。おかげで後ろから来た急ぐ人波に揉まれること無く改札を抜けることができた。
途端、携帯が震えた。メールを確認すると出口を指示され、簡単な行き方がのっていた。どうやら、迎えには来ないらしい。まあ、車内で肝心な話を始めてしまったりなどしたら大問題だろう。家に行くどころか、途中で車から投げ出されるかもしれない。
『前』、吉浦の部屋から転がるようにしてタクシーに乗って、何分で駅に着いただろうか。そんな事を考えながら、夜道を歩いた。外出こそそんなにしないものの、方向音痴ではない自分をほんの少しありがたく思う。


――でも、どうすりゃいいんだか。
目的地と思われる小奇麗なマンションを10数メートル先に見据えて、一瞬足が竦む。
どうするも何も、これから吉浦の家まで行って彼の言い分とやらを聞くだけだろう、と頭は至極冷静に答えを出す。聞いて納得さえできれば、受け止める事ができた、という事にはなるのだろうから。
それだけならばシンプルな計算式だ。だが、問題はそこまで単純じゃない。
…少なくとも、川西にとっては。

もし、自分がただ単純に興味深い対象として吉浦の目に止まっていたのなら、『あの夜』の事は本当に遊ばれていただけなのかもしれない、と思う。自分の事を如何程にも思っていないのであれば、ただの遊びの一夜ですら「忘れて欲しい」ものになるのかもしれない。吉浦がもし酔っていたのならばその可能性は非常に高い。川西が断わり続けているのに何度も接触を図ってきたのも、ひょっとしたら口止めのためだったのかもしれない。
ならば、何故さっき会った時に吉浦はあんなことをしてきたのか。たかだかからかいの対象としてしか川西を見ていなかったのであれば、飯屋のトイレだなんてリスクの高い場所でキスなんてしてくるのはおかしい。
『どうして今更こういう事をするんだ』と、吐き捨てるように言ったのは数時間前。あの返事は結局返ってこなかった。吉浦はいろいろな事を話してくれる割に、自分について質問されることはあまり得意じゃないのかも知れない。以前聞いた『女はいるのか』という質問にも、言葉じゃ何も返ってきてはいなかった。
――まあ、あれの場合は態度で示す、というか。
非常に奇妙で不可解な彼の行為を、でもどうにかして分析するとしたら、それはきっと「女に興味は持てない」ということなのかもしれない。だが、今日吉浦は女連れじゃなかったか。ならばバイセクシャルだとでも言うのか、それとも単に川西と有坂みたいな間柄なのか。
くしゃ、と髪を軽く掴む。慣れない髪形は、暫く歩いていたからか元通りになってきていた。それでも初めて吉浦と会ったときのもっさりしたものよりはマシだろうと思う。
出逢った時、よりにもよって最悪のコンディションで最悪のいでたちだった川西を、引っ張ってでも食事に連れて行ってくれた彼は今考えればこの上なく優しい男だ。
それなのに、それなのに。
何でそこを第一と考えてやれないのだろうと、川西は吹いてくる風に流された前髪を直しながらそう思った。

――多分俺は、言葉じゃないと解らないんだ。

確乎たる言葉による宣言。一昔前の恋愛SLGだったらそこでゲームは終了するイベントだ。あんなことをしてくる位だったら、答えは「遊び」か「告白」か、だ。もうその2つの選択肢しかないと思おう。『お前が前の恋人に似ていて――』だなんて話は多分出てこない。多分。出てきたらこの貧相な身体全部使ってあいつを殴ろう。遊びでも、だ。そこまで自分は落ちぶれていない、と川西は決意を改める。

――じゃ、もし…

そう考えているうちに、足はどうにか彼のマンションのロビーにまで着いたらしかった。目の前の暗証番号式の自動ドアが思考の邪魔をしたらしい。
とりあえず郵便受けで部屋の番号を確認して呼び出してみる。すると両方無言のまま勝手に切られ、それと同時にドアが開いた。
――そんなに話したくないってのか。
さっきまでできるだけ理論的に考えていたのに、また胸の奥で怒りのような二本の角がムクムクと生えて来たような気分になる。
――気に食わない。
それは、初めて吉浦に会った時にほんの少し抱いた感情と似ていた。自分には手の届かない人間が、川西の何を知っているのかと問い質したくなる位深い笑顔を見せた時。
あの時と今とで違うのは、自分の気持ちだけなのだろうか。それとも、向こうが変わりすぎたのだろうか。話をしていないから、推測だけがどんどん先へ進んでいく。
――こっちは、お前の所為で…
変えられたのに。その台詞を彼の目の前では告げられないであろう事を自覚しながら、奥歯を噛み締めてエレベーターに乗った。

開いて直に、吉浦がいるとは知らずに。

「……っ」
「早く出ろ、閉まるぞ」
ドアが開いた瞬間見えた長身に全身が強張った。それを見透かしたか、吉浦が降りるように促す。恐る恐る、といった風に廊下に出れば、「こっちだ」と奥へ向かっていってしまった。
――心臓に悪い男だ
さっきの登場の仕方で、自分の中でさっきまで構築されかけていた答えも理論そのものも崩れてしまったのを感じた。それ程自分の心に影響を与える男なんだ、と思って、もう答えなんてそれだけでいいような気すらしてしまった。それはつい数時間前、トイレで会った時の彼には抱けなかった思いだ。

ガチャリ、と音がして黒いドアが開く。先に入るよう手で促されて、相手に背中を見せるのはどうだろうと思いつつも逆らえずに中に入った。靴を脱ぎながらふと顔を上げると、後ろ手にドアを閉める吉浦の姿が目に入って、思わず顔を背けた。見たくないものをみてしまったという気持ちもあったが、それ以上にその行為に彼の情欲をはかってしまったという自分の思考回路に眩暈がしそうだったのだ。
「…リビングは奥、か?」
相変わらず何もかも広い造りだ、と前回来たときはろくに見もしなかった部屋を見てそう思う。
とりあえずどこかに腰を下ろしたい、と思っておずおずと声を出すと、吉浦の表情が少し変わった。
――ん?
その変わりようが、経験値の低い川西にはいかんとも表現し難い。行動から情欲だの何だのと推測できるのはきっと、学生時代のエロゲー制作の経験からだ。せっぱつまった男の行動の定義について、制作内で様々な談義をしたのを覚えている。
「…いや…こっちだ」
意識が一瞬遠き青春の日々に飛びそうになったところで、吉浦が何かを押し殺したような声で言った。え、と聞き返すように彼の顔を見ようとすれば、がしっと腕を掴まれて視界が揺れる。
「――ま、ま、待て!」
――何すんだ!
そう思ったのだが、待て、しか声が出なかった。自分にしては割と大きな声がでたはずなのに、吉浦は全く動じない。
廊下を少し進み、横のドアを開ける音がする。
そして気がついたら、ぼすっと言う音と共にどこかに倒された。慌てて、起き上がろうとする。
その拍子に目に入ったのは、いつかどこかで見た景色。起き上がろうとした手が感じたのは、柔らかな…

――寝室じゃないか!

頭が、ぎゅっと手に握ったシーツのように真っ白になる。
「川西…本当にいいのか?」
「…は?」
――良いってなんだ!俺が此処まで来たのは単にお前と話をしたかっただけだ!
そう思ったのに声が出ない。それは間違いなく、間の前にまで押し迫ってきた吉浦の顔の所為だ。こんな精悍な顔を近づけられたら、息を飲まずにいられるほうがおかしいというものだろう。
眼鏡を外される。こめかみの辺りが擦られてくすぐったくて思わずびくりと肩が跳ねる。
「…忘れてくれなんて言って、悪かった」
「…よ、しうら…」
まさかこの状況で謝られるとは思わなくて、川西は目を瞬かせる。
「だが、来てくれたって事は…いいんだろうな」
「…ちょ、ちょっと待…」
「待たねえよ。危うく、お前の会社にまで行っちまう所だった」
"自分がこんなに粘着質だったとはな″等と言って苦笑している吉浦を前に、川西には一体何がどうなってこんな風になっているのか全く理解できなかった。
――部屋に行く、ということはこういう意味を持っているのか?
最早吉浦の言葉なんて半分も耳に入ってはいない。ただただ混乱の渦の中に巻き込まれ、息もできない位だった。
だがそれが比喩だけではなく、実際に息もできなくなるのは混乱し始めて直のことだった。
混乱を制する事のできなかった川西には、吉浦が自分にどんどん近づいてきて、キスをされるまで、事態の深刻さを受け止める事ができなかったのだ。
「――ん、んんっ」
強引に歯列を割って入ってくる吉浦の舌に、自分の舌が触れた瞬間思わず声が漏れた。じわわっと一気に広がった快感が、頭までもを支配しようと動き出す。
上顎、歯の裏を舐め取るように咥内を蹂躙され、最後に舌を吸われて唇が解放される。ふう、ともはあ、ともつかない吐息が漏れて、思ったよりも熱い己のそれに驚き眉間に皺が寄った。
「…よ、吉浦。俺はこんなことをしに…」
「ん?キスは嫌いか」
――全く話が噛み合っていない!
未知の生物と出会っているような気持ちだ、と川西は呆気に取られたように身体の力が抜けた。しかしそれ幸いとトスッとベッドに倒されてしまい、再び全身が強張った。
ネクタイを外され、シャツのボタンに手が掛かる。

――結局、何の言葉も無くこいつは俺をやるつもりなのか。

『俺と』ではなく『俺を』である所に、川西と吉浦の心の距離がある。川西自身もそれに気づき、内心どこかで客観的に今の状況を見ている部分が嘲り笑っているように思えた。
こうなると、さっきまで打ちたて途中だった理論的に言えば、この関係は『遊び』という事になるのだろう。吉浦の行動は情熱的かもしれないが、告白も同意も順序もなければこれは彼にとって『遊び』の範疇に入るのではないだろうか。
そこまでふっと考えが繋がって、川西は吉浦の秀麗な額を見た。それから、意志の強そうな眉と目に視線を移す。

――なんて男だ…こいつもこいつだが、俺も俺だ。
何で今、声が出せないのだろう。
何で、非力だと解っていたとしても全力で抵抗しようとしないのだろう。
何で、何で、何で。

肌蹴られたシャツから露出した肌を、吉浦がするりと撫でる。
「…っ」
鎖骨のラインを撫でられて、思わず息を飲んだ。
もう既に上半身は胸元から腹までしっかりボタンを外されてしまい、鍛えられていない、ただ細身の身体だけが吉浦の目には映っている。

――こんな貧相な身体を見て、お前は欲情できるのか、吉浦。
そう思うと、不意に目の奥が熱くなってきた。
――ヘンゼルとグレーテルじゃあるまいし、こんな風に食べられる為に俺はお前と一緒にメシを食った訳じゃないのに。
吉浦と一緒に食事ができたのは、単純に楽しくなったからだった。自分が何を言わなくても、何気なく楽しい時間を過ごせる相手。自分に面白い話をしろと強要するようなタイプじゃなかったから、逆に自分も言いたい事をそれなりに言えるようになった。
そんな相手に今、自分は何をされているのだろうと思うと、数回の瞬きじゃ戻せないほど視界が歪んでくるのが解った。
元から視力は良くないが、この原因は間違いなく…涙だ。

――ああ、やっと解った。
予想していた二つの言葉に対する自分の返答、自分の気持ちを、今になって川西は悟った。

「おい…川西?」
脇腹を撫でかけていた手を止めて、吉浦が顔を覗き込んでくる。心配そうな顔だ。
当然か、と川西は思う。
なんてったって、自分は今泣いているのだ。つうっと流れ落ちてしまった涙を、拭えないでいる。

――そんな顔をするなら、初めから俺みたいな奴を選ぶなよ。
どこにいったってお前なら引く手数多のはずだろう、と川西は目の前の男前を揺らぐ視界の中見つめる。何がどう働いて、自分なんかを相手に選んだんだろうか。素材が良くったって、何だって、吉浦を楽しませる部分が自分に少しでもあったのだろうか。
――いいか、もう、そんな事は。
自分の気持ちに気づいてしまった以上、こんな状態は耐えられなかった。
ただ、無意識のうちに口が開いて、今まで一度だって言ったことのない言葉が出てくる。そんな自分の声を、どこか遠い所から見ているような感覚で川西は聞いていた。



「…吉浦、俺、お前の事が好きなんだ。………例え、これが遊びだって」



構わない。
流石にそう締めるだけの強さは無くて、語尾はただ掠れたようになってしまった。