白馬の微笑
07


食べる、という事がこんなに簡単で、それでいて難しいだなんて考えもしなかった。

有坂の会社に関するああでもないこうでもないという話に適当に相槌を打ちながら、食べ物の味を感じようと努力してみる。だが、一向に舌の味蕾は反応してくれない。自分がどれだけ感情に左右される動物なのかを感じるには充分すぎる仕打ちだ、と川西はぐいっと烏龍茶を嚥下しながら思った。

「…川西ちゃん、本当にそれだけでいいの?」
追加注文をしようとした有坂に、自分はいい、と手を横に振ったら怪訝な顔をされた。
「ああ、これでも胃が拡張された気分」
「そう?…じゃ、この葱のを…」
注文している彼女を、どこか遠い目で見つめながら、川西は下腹部を緩く撫でた。
もう、食欲は殆どなかった。かといって満腹感もなく、ただただ気持ちが心臓を中心に胃の下部まで支配しているような、変な腫瘍か虫でも飼っているようなそんな違和感だけがあった。
――きっと、まだ吉浦は店内に居る。
そう考えると、余計に胸が重くなるのが解った。
一体どんな顔をしているのか、どんな面を下げてこの美味しい料理を口にしているのか。
もう美味しいだなんて感覚が頭の中から抜け落ちてしまっている川西にとって、それを想像する事は難しかった。元からプログラムとその結果は瞬時に計算・予測する事は出来ても、映像化されたムービー部分の先の行動なんてのは解らなかった。
そんな川西にも解るのは、吉浦は自分の様に食欲をなくしたり、食事に対する姿勢を変えたりはしないのだろうという事位だった。

どんなに疲れていても、どんなに機嫌が悪い時でも食事に対する感謝は忘れないのだと吉浦は言っていた。下手をすると一日中栄養補助食品だけで済ませてしまう川西はその言葉を聞いたとき随分驚いたものだったが、普段からこういう美味い食事をとっているからこその台詞なのだろうと今更になって思う。こんな思いを吉浦に知られたら、たかだか焼き鳥風情でそんな事まで考えるのか、と笑われてしまいそうだったが。
――でももう話す事もないよな。
有坂から無理やり獅子唐と南瓜を貰ってそれを咀嚼しながら、最後になって辛味を出す獅子唐に自分達の関係を繋げる。食べる前は辛いのか、辛くないのかと勘ぐってしまうのに、食べだすと一瞬はそうでもないなと思って気を抜いてしまう。そして、その瞬間に辛味が咥内を襲うのだ。
それと同じで、あんな男と知り合いになってしまっていいのかと訝しみながらも、何度か会ううちにすっかり絆されてしまい、結局後で痛い目にあってしまったのだ。痛いというか、後味の悪い別れ…いや、別れといっていいものか。
じわじわと広がっていく辛さを南瓜と水のどちらで緩和しようかと逡巡していると、不意にコップの脇に携帯を置きっぱなしだったということに気づいた。
――同じ、ってか。
辛味を緩和する為に水があるように、喧嘩には常に仲直りの術がある。話そうと思うのなら、携帯を使えばいいだけだ。
そう言いたげなポジショニングに、思わず川西は笑ってしまった。勿論、仲直りしようだなんて気はなかったのだが。
話そうと思えば、向こうは応えてくれるに違いない。
ただ、自分にその度胸がないだけなのだ。

「…ご馳走様でした、っと。じゃ、行こっか」
テーブルの上の皿を綺麗にして、有坂は艶たっぷりの肌を見せ付けるように笑って言った。
あれから数分間お互い何も話さずに居たが、それでも雰囲気を悪くしないのが有坂の大人な一面だと思う。
「――ああ」
逆に大人になりきれない川西は、ガタ、と音を立てて椅子を引いた。せめてもと笑おうとする位が関の山だった。

――そうか、今出て行ったら、もう二度と吉浦と会うことなんてなくなるのかもしれないのか。

会計を済ませながら――ちなみにきっちり割勘だった――改めてそう思う。本当なら、今日だって会う予定はなかった。さっき出会ってしまうまでは、もう二度と会わないだろう、だなんて考えていたのに。ほんの少しだけでも後ろ髪をひかれる思いになってしまった自分がおかしくて、眉根を寄せる。
――会いたいと思えば会えるなんて、そんな。
いくら電話には出てくれるだろうとは思っても、今更こっちから会いたいといって会ってくれるような男ではない気がする。そこまでプライドを捨てても自分に向かってくれる男であるのかどうか、臆病な自分には量れない。
「川西ちゃーん、出るよー」
「あ、ああ」
和風だが自動のドアが開いて、びゅっと瞬間冷たい風が吹いてくる。
顔中を斬るように撫でていった風が、逡巡している自分を責めているようにすら思えてくる。

――吉浦は、何が言いたいのか。
――自分は、どうしたいのか。

問題はそのたった2点で、前者は今聞けば答えてくれるような気がした。
だが、それを聞きたくない自分がいるのだ。どんな答えが返ってくるのかなんて、よく考えれば解りそうなものなのに、そうすることすら放棄するくらい、怖い。
相手が自分をどう思っているのか、なんて。

駅に向かって有坂と仕事の話をしながら歩く。彼女の話は基本的に当たり障りのないことで、さっき食事中にした事と大してレベルは違わなかった。
「…っていう訳」
「へえ…」
「………」
「……?有坂?」
ふ、っと会話が途切れて、今までのリズムが狂ったように感じ思わず問う。すると有坂はニッと笑った。
「――…で、さっきトイレでなにがあったの?」
「!…別に」
「嘘。随分長かったし、その割に戻ってきてからずぅっと考えてる風で。気分が悪いって感じじゃなかったんだもん、疑っちゃうよ。変な奴にでも会った?」
これは、わざとはずして聞いてきてるのだろうか、と思う。だが、その目からは逃げられなかった。
目は口ほどにモノをいうとはよくいったもので、こんなに強い視線は吉浦と同レベルなのではないかと思ってしまう。
もし、自分が有坂を見つめ返すように吉浦の瞳の色を見つめて何かの感情を受け取れるのであれば、今こんな風にぐだぐだと考える必要もなかったのだろうか。
――あー、駄目だな、本当に。
信号待ちをしながら、額に手を当てる。デコを出して分け目をちゃんと作ったのは久し振りで、新鮮な触感に少し驚く。
こういう些細な違いにも、吉浦があんなに怒った原因があるのだろうか。

「…会いたくない奴に会ったんだ」
「あら」
話してくれるとは思っていなかったのだろうか、有坂は意外そうな顔をした。
「それで、少し言い合い…というか、揉めて、で、出てきた」
「川西ちゃんが揉め事?珍し〜」
「そうか?」
「何か川西ちゃんって、好きな人を作らない代わりに嫌いな人を作らない印象があった」
「…随分無機質な人間だな」
「あはは、二次元かプログラミングにしか情熱を注げないのかなって女の子達とちょっと話題に上ったくらいよ。ま、そんなのは業界じゃ山ほどいるし。…続きは?」
「あぁ…そうだな」
何を言ったらいいものかよく解らなくて、青になった横断歩道を歩きながら少しだけ間をとる。
「会いたくないって、その前に何かあったの?」
助け舟かただの好奇心かは知らないが、手を変えるように有坂が言葉を投げかけてきた。
「…まあ、俺が戸惑うような出来事が1つ。それまでは…そうだ、な…結構楽しくやってたんだ」
「上辺だけの楽しいお付き合いってこと?」
「…ちが…わないか。俺は相変わらずの態度だし、向こうが色々気に掛けてくれて、…それがよく解らなかったんだ、俺には」
「よく解らないって…川西ちゃんの事が心配だったんじゃないの、その人」
「そりゃ、そうでもなきゃ俺なんかに声を掛けたりしないよな。…でもお人よしって訳でもないんだ、良い奴なんだろうけど、腹の内が見えなくて、真意が…解らなくて」
また信号が赤になって、足と一緒に言葉も止まる。
――なんで、こんなに沢山有坂に話せてるんだ?
ふと、そんな疑問が頭を過ぎる。そんなに自分は、誰かに相談したかったのだろうか。確かに一人きりで考えるには抱え込みすぎているかもしれない。思考の袋小路に入り込んでしまって、後退はせずにそこでぐるぐる回ってしまっているような感じを、もう随分長いこと続けている。
「真意だなんて…聞いちゃえばいいじゃない、そんなの」
「相手が忘れろって言った事を、わざわざ掘り起こす事は無いよ。…大体、俺は経験値が低すぎる」
「真意を推し量るための?」
「そう」
「だったら聞くしかないじゃない。向こうだって、川西ちゃんと揉めるほど仲良くできたんだったら貴方の経験値の低さ位解ってそうなものだけど」
「…聞くのは、簡単だ」
そんなもの、酒の勢いでもなんでも借りれば簡単に口から滑り落ちる。
――だが
「聞いたらきっと、向こうは答えてくれる、し、俺もこんな酷い状態にはならない、と思う。だけど」
「――だけど…?」
何だか言葉が詰まりがちで、まるで泣いているような声だな、と内心自嘲する。それでも今まで声に出していなかった分感情だけが高まって、言葉が関をきったように溢れてくる。
「だけど、俺の方が準備できてない。答えは多分…二通りある。でも、俺にとってどっちがプラスでどっちがマイナスかだなんて解らない、というか考えたくなくて、聞いたら俺も態度を変えなくちゃならないだろうとか色々考えてはあるんだけど…ああもう何言ってんだか……ともかく、向こうの行動が全ての元凶なんだけど俺の態度も悪いんだ、言葉が足りてなくて、お互い、その」
「…川西ちゃん、まるで壊れたロボットみたいよ」
「……酷いな」
「うん、酷い。ていうか、そういう思いをさ、相手にそのままぶつけるんじゃ駄目なの?喧嘩ってそういうもんじゃない?」
「喧嘩って…いい大人が?」
その言葉を聞いて有坂はプッと笑った。社内でも評判の彼女の笑みが、これほど不思議に見えたときは無かった。
「まだまだ全然。喧嘩の1つも経験してないような人が、いい大人なわけないじゃない」
「……」
「青春期をパソコンと一緒に過ごした川西ちゃんには、全部を理路整然とまとめないと気がすまないのかもしれないけど、対人間じゃそれは無理って言ってもいいわね。特に友人関係とか、恋愛じゃ。大体川西ちゃんはプログラマーであってプランナーじゃないんだから、全部にシナリオ立てなくたっていいじゃない」
そう一気に言って有坂は満足したようだった。どう?と自分の提案についてのコメントを求めてくる。
「…つべこべ言わずに、とりあえず聞いてみろ、ってか」
「そう!まずはそれ。1人の問題じゃないでしょう?川西ちゃんと、もう1人の存在があって初めて喧嘩ってのは成り立つんだから。まあその感じじゃまだリングの上にもあがってないみたいだけどさ」
「物騒だな」
そういえば有坂が得意なのは格闘ゲームだったか、とその物言いに笑いながら思い出す。
「…パンチ1つでKOできるような相手じゃないぞ。侍みたいな男なんだ」
「プログラマとはまた違った世界の男みたいね、それ。出逢いをじぃっくり聞いてみたい所だけど、喧嘩が終わってからにするわ」
「だから喧嘩じゃないよ」
「そうね、川西ちゃんには自分の悪い所がちゃんと見えてるんだものね。…でも、相手への怒りは一度だしちゃったほうがいい。後で我慢しなくてもすむもの」
「…怒るのは苦手なんだけどなあ」
「酸欠にならないように気をつけてね」
真面目にアドバイスしてくれる有坂がおかしくて、笑みがますます深くなる。
こんな風に吉浦とも笑いあいたいな、それはもう無理かもしれないけど、最大限の努力はしたい。
なんとなく、そう思えるようになってきた。

「あー、何だか長く話したって感じなのに、やっと駅ついたね」
来るときはそんなに駅から離れていたとは思っていなかったのだが、ゆっくり歩いたのか帰りは随分と時間をかけてしまったようだった。腕時計を見ると結構な時間が経っていて、それでも運動不足の身体が疲労を訴える声はないようだった。それ程今の自分は気持ちに重心が置かれているのだろうか。
「途中まで一緒だったっけ、会社の方向?」
「ああ…と、ごめん」
不意に携帯のバイブを感じて駅入り口で立ち止まり着信を見る。
「……」
「出ないの?」
「…あ、いや…」
「喧嘩相手?出ちゃいなって。折角向こうがリングを用意してくれてるかもしれないのに」
「こっちがディスアドバンテージになるじゃないか…」
「いいからでちゃいなって。私そこのコンビニ行ってるから」
「あ、ありさ…」
ポン、と肩を叩いてコンビニへ向かった彼女の背中を見てから、意を決したように通話ボタンを押す。

「…はい」
『…川西。俺だ、吉浦』
「ああ…」
電波に乗った彼の声を耳元で聞くのは久し振りで、自然と高鳴る鼓動を抑えるように左手で胸の辺りをさすりながら声をだした。
『今、外か?』
「そう、だ」
『……誰か、一緒に?』
「いや…」
まるでスパイ映画かゲームのような台詞回しに、ほんの少し非現実的な気分になる。いつもと違う自分、いつもと違う場所、…慣れているのが吉浦の声だけだというのが奇妙だ。
『そうか。…俺も、今店を出て分かれた所だ』
「……」
別にそんな事を報告されなくても、と思うのだが、何となくほっとしてしまう自分が居た。
『……川西、会いたい、いや…会えないか』
それでも安堵したのも束の間、歯切れが悪いながら聞いてくる男の言葉に心臓が跳ね上がる。
「……どこで」
『どこでもいい。ああでも、ゆっくり2人で話せるところがいいな。言わなきゃならないことがある』
「…別に、どこでも」
さっきディスアドバンテージになると言っていたのに、いざどこで会うかと聞かれればアイデアはない。結局向こうの言うがままの場所に行くのだろうか、と思うとそれはそれで嫌なのだが。
『そうだな…』
――だったら、いっそのこと
「……お前の家でどうだ、駅に着いたら連絡をいれる」
『…っ、いいのか、それで』
「知らない店よりはマシだ。…じゃ」
『…ああ』
携帯を折りたたむのとほぼ同時に通話をきって、川西はコンビニへ向かった。
別段答えを用意しなくてもいい、という言葉だけでこんなにも度胸がつくものなのか、と自分でも不思議に思ったが、これも只の喧嘩の一端であるのなら、仲直りへの道も簡単に切り開けそうな気がしてきた。

――そうか、仲直りしたかったんだな、俺は。
少々言葉が違うかもしれないが、そんな感じのことがしたくて、ただそれだけの為にこれだけ悩んでいただなんて馬鹿みたいだ。
さっきは仲直りしたくない、なんて言ってはいたが、それは単に何も聞かないで、無かったままでまた元の関係に戻るのは無理だ、というだけの事なのだ。
そう思える今の自分ならば、たとえどんな言葉を向こうが用意していたって、受け止める事ができるのだろう。
そう、純粋に思っていた。