白馬の微笑
06


――今まで、こんなにも人と目が合うのを恐れたことはない。
というか、あまり人と目をあわせて話をしたことすらなかったのだ。

本当に、今まで、あんなに人の目を見て話そうなんてしてきた相手なんて、
吉浦以外、いなかったのだ。

だから、というわけでもないが。
今、どんなに吉浦から顔を背けていても、目が合ってしまうのではないかという、奇妙な確信めいたものがあった。




ゆっくりと、できるだけ不自然にならないように、できるだけ長い間腕時計に目をやって時間を確かめる振りをしながら、さりげなく顔をあげていく。
「どうかした?」
有坂の心配そうな声が聞こえる。彼女の声は響く方ではないが、しかし滑舌のいい女性のものだったから、それが彼に聞こえないかどうかが心配になった。

――うわ

こちらを覗きこんでくるように見てくる有坂の肩越しに、見知った男の体格を確認してまた目を伏せたくなる。
やっぱり本物だ。
だがこちらを向いてこようとしている人間から、あからさまに顔を背けるだなんてそんな馬鹿なことはできない。だんだんと近づいてくる彼の影を、そっと確認するだけだ。

「何、鳥の骨でも齧っちゃった?」
「いや、何でもな…」
有坂の見当違いの言葉に、それでもそれ以上心配されてはたまらないと首を横に振る。
…その瞬間に視界は揺れて、ぶれた視界に彼は写った。

何とか目が合わなかった、それだけが救いだ。

自分の持っていた確信が現実のものとならなかった安堵はあったが、そことは別に、心の中で何かがガラガラと音をたてて崩れていくような気がした。
それは、他でもない吉浦の隣に、女性の姿が見えたからだった。

腕を組んでいた、ように思えた。
――もしかして…

まるで、パズルゲームのゲームオーバーの時のような、そんな音が止んだ。
その代わりにうるさくなりだした、ドッドッと激しく脈打つ心臓を押さえるようにしながら、空いた片手で烏龍茶を手にする。
ゴクリ、と飲んで、ふう、と長く息をつく。
――いや、それ以上考えるのは、やめだ。
目の前の有坂がこれ以上心配してまた変なことを言い出さないように、とにかく平然を装う事の方が先決だろう。
「なんでもない、ちょっと噎せそうになって」
「え、大丈夫?無理して飲み込むと余計苦しいよねそういうのって」
こういうとき、人の言う事を勘ぐったりしないのは有難い。
それに便乗するようにして、席を立つ。
「あぁ、……ごめん、ちょっとトイレ」
「うん、いってらっしゃい」





――こんな所で、会いたくなんてなかった。
ならばどこでなら会いたかったというのだろう、会っても良いだなんて思えるのだろう。
こんなに心拍数が早くなって、どんなホラーゲームをやった時よりも背中に嫌な汗をかいている。
そんな川西にできることといえば、用を足す事もなく、ジャーッと音を立てて流れる水に手を出していることくらいだ。
人気のある店だろうに、トイレには人が居ない。混雑したとしても平気な様充分に広いスペースのとられているそこはがらんとしていて、1人でいるには今最適な場所なのではないかと思えた。
――いや、会った、とも言わないか。
お互い目が合ったわけではない。今までとは全く違うすれ違い方だった。否、今迄すれ違ったことなんてなかった。
初めて会った時から今迄ずっと、偶然にすれ違ったことなんてなかったのだ。
初対面で飯に付き合わされて、それからずっと向こうが誘うままに食事を共にした。そう、たったそれだけの仲だ。出会いがいくら珍しい類のものであったとしても、お互いの深い話をしたことなんてなかっただろう、と思いなおす。大体、今迄何度も考えまとめた事を、もう一度考え直すことなんてする必要はないのだ。

両手を冷たい水にさらしていると、段々と頭も冷えてくる気がした。
――そろそろ戻らないと。
そんなに長い時間居たわけではないが、かといってこれ以上長居をすれば有坂を余計に心配させてしまうだけだろう、と水を止めて顔をあげる。その拍子に鏡に映った自分の顔を見てしまい、思わず眉根を寄せた。
見慣れない前髪、見慣れない服装。
それが今日良い方に働いたのか、そうでないのかは解らなかった。この服装は街を歩いたりこういう店に来るのには調度よかったが、かといってこの服装の所為で吉浦に気付かれなかったのだとしたら、それは。
――馬鹿馬鹿しい。
折角整理されそうになっていた頭がまたこんがらがりそうになるのを寸でで止める。手をハンカチで拭って、ついでに眼鏡も拭くかとフレームに手を掛けようとした。
「…え」
カツッとフレームに爪が当った。指が固まる。
眼鏡を外す。その単純作業が上手くできなかったのは、後ろに人影を認めたからだった。


「――…よお」

酷く気だるそうな様子で、首に手をやる男が鏡に映っている。
彼の目線は鏡越しに川西を睨みつけるように見詰めていた。ここには彼と川西以外誰も居ないから、声を掛けられたのは自分なのだろう、といちいち確認してから川西はハンカチを元に戻した。
男――紛れもない、吉浦――は、相変わらずのしゃきっとしたスーツ姿に、いつもより険のこもった顔を乗せている。
なんでここまで冷静に相手の事を見ることができるのか、と川西は冷静な頭とは裏腹に動かない指先をどうにかしようとしながら思う。
それはきっと鏡越しだからではなく、あまりの出来事に頭が表面的なこと以外を考えられなくなっているからなのかもしれない。
体が思うように動かないのがその証拠だ。やっとどうにかして指を洗面台の脇に置く。体を支えるようにして指に力をこめ、ゆっくりと振り返った。

「何も言わないのか」
「…」
「…まぁいい。――久し振りだな」
「……あ、あぁ」
すっかり戻ってきてしまったどもりを抑えられず、情けない声が漏れて川西は歯をかみ締めた。
「相変わらず、と言いたい所だが……随分変わったな、何があった?」
変わった、という言葉が自分の服装や髪型を指すのだろうという事が直にわかってしまって、流石に川西は眉根を寄せた。
好きでこんな姿になっているわけじゃないというのに、なんだってそんな事を言われなければならないのだろう。
いや、元から『好きだから』何かをするという事がなかったのに、そういうこと自体間違っているだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎった。
「……」
「だんまりか。それも別に構わねぇよ。…俺の誘いを断ってたのは、あの女の所為か?」
「…!」
いくらなんでも、そこまでストレートに物を言ってくるとは思わなくて、川西はゴクリ、と喉を動かした。指先はとても冷たいのに、心臓の辺りはじんじんと熱くなってきているのが解る。
言葉が見つからず更に黙っていると、吉浦が口元だけを歪ませるように笑って一歩こちらに足を踏み出した。
「…沈黙は肯定ってとるぞ。あの女の所為でそんな格好するようになって…あの女であんたは変わったのか。――俺の言葉には動かされなかったくせに」
「…?、な、なにを言って…」
――大体、お前だって女連れできてるじゃないか。
そんな突っ込みをも許さないような吉浦の形相に、もう後ろには下がれないと知りながら洗面所に背中を押し付けた。
吉浦は直も近づいてくる。
不意に、あの夜の出来事がフラッシュバックしてきて川西は肩を竦めた。吉浦の気持ちなんて解らないのに、次に起こるであろうアクションが大方予想できて、その内容の浅ましさに吐きそうになった。
そしてそれが実現されてしまうと、逆に川西は吐くどころか息をすることすら困難になってしまっていた。

吉浦の手が川西の喉に当てられ、緩く締め付けるようにして掴まれ顔を寄せられる。
掠めるとも噛み付くとも言えない荒々しい所作で唇を奪われ、洗面所の大理石に爪を立ててしまいそうになった。
「…!!!…んん…っ」
いつ誰が来てもおかしくないような場所でキスをされ、必死で相手の胸元を押し返す。
ドン、と強く押せば相手と自分の間に距離ができて、やっと姿勢を立て直すことが出来た。


――なんで、何だってこんな事を
されなくてはいけないのだろう、と思わず下唇を噛んだ。
悔しさとも憤りとも違う感情が心の奥からむくむくと頭を上げてくるのが解って、川西は目の前の男を睨めつけた。


「…れろ、って言ったくせに」
「…何だ?」

未だ眉間の皺が消えない吉浦が、早口で呟かれた川西の言葉に怪訝そうに顔全体を歪める。
そんな顔をしたいのはこっちの方だ、と川西は思った。

「忘れろって言ったくせに、どうして今更こういう事をするんだ」
「…川西、」
「あの日の事が忘れられなくて避けてる俺に、見せ付けるように女連れで来てるお前が、何だってこんな事出来るんだ」
「…あんた、覚えて…」

これじゃあいつもと逆だ、と川西は思った。
いつもは吉浦が一方的に喋って、川西がどもるようにたどたどしく返していた。だとすると、普段吉浦はこんな頼りない返事だけの為に、今まで話しかけてきてくれていたということになる。
――随分忍耐があるんだな
川西は、トイレから出ようと足を踏み出した。吉浦のような忍耐は自分にはない。訳のわからない、感情も考えも見えてこないような言葉に、どれだけの意味があるのだろう。川西が吉浦から聞きたい言葉は、そんな断片じゃないのだ。
だから純粋に、そして単純に吉浦はよく我慢したな、と思った。いや、吉浦だってその糸が緩んだか切れたかしたから、あんな行動に出たのかもしれない。――その深い感情は量り知ることはできなかったが、かといって同情したいという気持ちは全く無かった。
その感情をもっと深く感じる事ができたのならば、川西にだって言うべき言葉は他にあっただろうに。

――だって、餌付けした方とされた方じゃ、立場も抱く思いも違うに決まってる。
その思いが自分自身どのようなものを抱いているのか知らないまま、ただ記号として言葉で感情が整理されていく。
…もう深く考えたくなかったのかもしれない、だから今口を開く事が出来たのかもしれなかった。

「忘れられる訳、ないだろう。…お前なしじゃ、ぶっ倒れそうだって心配される位だったのに」
「……」


…そこから先、自分がどんな顔をしていたのかは全く覚えていなかったが、兎に角その場から立ち去る事は出来た。
吉浦のしていた表情だってよくは思い出せなかったが、とりあえず席に戻った有坂に「大丈夫?」と聞かれて、いつもの弱弱しい笑みを返せる位の強さはあったようだった。