白馬の微笑
05
「川西ちゃん、最近調子悪そうだね」 そんな声をかけてきたのは、社内でも珍しい女性社員の有坂だった。 他人を気遣う余裕があまりない時期のプログラミングルームは殺伐としているのだが、彼女だけは誰にでも挨拶をする。心のお茶汲み係、とでもいいたいのだが、それで中々プログラミングのスジもいいから頭が上がらない。ちなみに、川西が女装したら面白そう、などと言ったのも彼女である。 返事のない川西に対して有坂は首を傾げ、また口を開いた。 「最近川西ちゃんご飯食べてる?12月に入ってから急に顔色よくなったと思ったのに直にそれだもん。…もしかして、彼女にふられた?」 「………」 冗談だと解っていたのに肩が跳ねた自分に、川西は信じられないといった風に眉根を寄せた。 あれから、何度も吉浦からメールや電話が来た。 電話は基本的に無視を決め込み、メールに書かれている誘いの言葉には『忙しいから』と一蹴した。 こんなに人に誘われるのは初めてだったが、それよりこんなに人の誘いを断ったのが初めてだった。 初めは毎回毎回必死になって拒否の言い回しを考えたものだったが、最近はそんな言葉を使うのにも慣れてしまったのか、適度に冷めた口調で答えることができた。 ――多分、もう二度と会うことはないだろう。 相手も証券マンだなんていう忙しいにも程がある仕事に就いている人間だ、いくら大手とはいえこんなゲーム会社にまで訪ねてこれるはずがない。 自宅の住所も幸い知られていなかったし、お互いの活動範囲は被るところがない。 唯一懸念すべき所があるとすれば、それは出会った駅なのだが、そこを使わずとも帰ることができる。それにラッシュ前に吉浦があそこを使っていたのなら、それは紛れもなく仕事の出先からの帰りとかであって、時間帯さえ気をつければ会うことはない。 「………」 こんなにも彼と会わないように会わないようにと細かく考えていると、考えすぎるほうが出会ってしまう確率が逆に高くなってしまうような気すらした。 重症だな、と思う。 「川西ちゃん?」 「あ、ああ」 「ほら!もうぼーっとして。頭に栄養が回ってない状態でちゃんと仕事ができると思ってるの?」 「できてなくはないよ」 有坂や同じ職種の人間とならスムーズに話をすることができる川西は、ほら、と言ってPCのモニタを見せる。普通の人間では理解できないその内容を見て、その内容が理解できる有坂はギャッと悲鳴をあげた。 「そんな人間離れしたものは見せない!ていうか絶対絶対バグ大っ量にあるんだから!」 「バグが解らないほど複雑に作れば、ないだろ?問題なんて」 「〜〜〜〜〜〜〜っ。醜い、醜いプログラムだわ…工数だけは守ってよ?」 「SEみたいな事言うなよ…」 「交渉全部私なんだからね、そのうちまた遠くの火事が燃え移ってくるんだから」 「はい、はい」 社内でもバグの少なさ、回収率の高さで知られる川西としては、そんな有坂の言葉は痛くも痒くもなかった。 ――正直、 仕事の話になると、川西は強い。 元々、仕事ができる男ではあるのだ。でなければこんな大手会社に引き抜かれてやってくるわけがない。 顧客に文句を言わず、仕様が三回変わった位では動じない。SE―システムエンジニアの持ってきた詳細設計にだって、可能領域と不可能領域を理路整然と説明し妥協させるだけの勝負強さだってある。唯一苦手なのは交渉とスケジュール管理だけだったが、前者は最近美人の部類に入る有坂に任せることによって解消した。 ――ただしそれは、仕事に限ってのことだけだ。 会社の飲み会があったり、他社の人間と交流する機会があっても、そこで彼らが川西に対して抱くのは『暗いやつ』というイメージだけだ。 結果的に、川西の本来の姿を知っているのは、同じ職場の同じプログラマーとSEや担当者数人位なものだった。 だから、逆を言うと同志達での飲み会が一番厄介だった。滅多に無い事なのだが、たまに2,3人での小規模な飲み会に連れて行かれると、色々とやらかしてしまうのだ。主な出来事は失言程度、だったが。 ――それで、酒を控えてたのに。あー、もう、俺は… 再び自己嫌悪の波の中をたゆたい始めそうになった川西の思考回路は、有坂の次の一言で現実に引き戻された。 「じゃあ今日はきっちり色々吐いてすっきりしてもらおうかな。ブドウ糖もいれてもらわなきゃ」 「…は?」 一気に顔が曇った川西を、有坂はふふっと笑って見下ろした。 「今日はキリよく逃げて、ご飯、食べにいきましょ」 艶やかに微笑まれて、川西はいかに自分のヒューマンスキルが拙いのかを身を持って知った。 ちなみに逃げる、とは定時で帰ることなのだが、川西はむしろ有坂から逃げたかった。 「…それで、一体何に浮き沈みしてたの?」 ――有坂女史は強かった。 駄々をこね、なんとしても定時には帰るまいとしていた川西を難なく連れ出し、更には『やっぱり服装がシャキっとしなくちゃ始まらないわ』等と言って食事の前に身だしなみを整えさせられた。着ていた安物のシャツにも良いネクタイを締めればそれなりに見えるもので、結局ネクタイとベストとジャケットを買わされてしまった。 『本当はフルコーディネートしたいんだけど…』という有坂の恐ろしい一言を聞かなかったことにして、川西は彼女と一緒にショップから出たのだった。 そして今は、どういう訳か銀座の焼き鳥屋に連れてこられている。なぜ銀座くんだりまで来て焼き鳥屋なのか、そもそも焼き鳥屋だったら会社の最寄駅前で事足りるだろうに、と突っ込みたい所は多々あったのだが、有坂のテンポいい注文に川西は徐々にその気をなくしていった。 「…何って。別に、浮いてもいない」 「嘘、顔色よかったときは凄い楽しそうに仕事してた癖に。今じゃ前より酷くなってる」 「酷くって…」 レバーを口にしている有坂とは対照的に、川西はまだつきだしのとり味噌をつついていた。 食欲がないわけではないが、こういう話をしていて積極的に食べよう、とは思わなかった。 「仕事中毒具合が、ね。ほとんど定時に帰ることが無かった川西ちゃんだけど、最近顕著すぎ。――そんな毎日過ごしてたら、ハイになる所じゃなく修羅場で真っ先に倒れるに決まってる」 「…仕事で倒れるなんて無様な真似はしない、よ」 「でも家に帰って倒れてたりはしたでしょ?いい加減若くないってことは自覚しなきゃ。ほら、英気養って」 差し出されたぼんじりを言われるままに手にとって、1口食べる。久し振りの肉に胃が驚かないだろうかと気にしながらも、その優しいタレの味に食欲が湧いてくるのが解った。 目の前を見ると、有坂が川西が食べる様を見て微笑んでいた。 ――あ… その瞬間が、吉浦と被って、目を疑う。 有坂と吉浦は全然似ていないはずなのに、その嬉しそうな仕草がどうしても重なって見えた。 ――嬉しそう、って。あいつは別に、こんな笑い方… してなかったはず、と思いながらも、今更ながらに胸が痛んだ。 だが、痛む理由もよく解らないまま、肉片を飲み込むのと同時にその疑問も飲み込んでしまった。 「川西ちゃん?」 「ん…なんでもない。美味しくて驚いた」 「そう?ここ女の子に人気があって、私もたまに友達と来るんだけど…若干優しい味だから、汗臭い男性諸氏にはちょっと物足りないのが多いみたいで。そう言って貰えると、連れてきた甲斐あるわ」 「ボリュームは結構あるみたいだけどな」 「ね、結局本当にいい男ってのでもなければ、焼き鳥の些細な味の違いにも興味を示さないのよ」 上手く話題を逸らす事ができたが、川西は『いい男』と言う言葉に小さく溜息をついた。 …それに気付かない有坂ではない。 「あ、でも川西ちゃんがいい男かどうかは保留ってことで、ね。だって素質良いのに勿体ないことばかりしてるじゃない」 「素質…ね」 『あんた、素材は悪くないのにもったいなさ過ぎると思ってな』 似た言葉で彼のあの台詞を思い出すなんて、どれだけ引きずっているのだろう、と川西は苦い顔で烏龍茶を飲んだ。 ――そもそも、あんな事をされて、当然のようにだが断り続けている俺に、そろそろあいつを思い出す権利はなくなるはずだ。 会ってからの時間と楽しかった量から、会っていない時間とショックだった出来事分を引くだなんていう心の計算をする。意味が無いとわかっているのに、無理やりな公式にでも当てはめなければ自己完結できない気がしてしまうのだ。 ――今は肉でも食べて、忘れよう。 「…まぁ、今日はここで腹いっぱい食べて、『いい男』とやらになれるよう若干の努力はするよ」 「そうこなくっちゃ。…ちょっと浮上したみたいだから、何があったかは聞かないことにするわ」 「…ありがとう」 「どういたしまして。でもここ、ちゃんと割り勘にするからほんっっっとに真面目に食べてよ?」 「はは、頑張るよ」 久し振りにプログラムのコメントを更新した時以外で笑うと、有坂はちょっと吃驚したようだったが、直につられるようにして明るい笑顔を見せてくれた。 食事は人を明るくするのだ、ということが、何となく判った。 「ああ、何より食事は人を明るくさせるしな」 ――だが、そんな川西の微笑みも、この声を聞いて直に凍り付いてしまうこととなった。 「?…どうしたの、川西ちゃん。小骨でもあたった?」 「………いや…」 怪訝そうな有坂の声がかろうじて脳に届いたが、彼女の表情は頭に入ってこなかった。 彼女の肩越しに見える、新たに来たらしい客のコート姿から、目が放せなかったのだ。 ――吉浦…。 店員に案内されてこっちを向きそうになる彼から、川西は隠れるように下を向いた。 |