白馬の微笑
04
――ぱちり、と目を開くと、目の前にはついさっき一緒に飲んでいたはずの男の顔があった。 ぼんやりと、輪郭が定まってくる。 「――よお、気分はどうだ?」 出逢った時と全く同じ台詞を言われても、周りの状況が全く異なれば、随分と雰囲気が変わるのだな、と、目の前にある男の顔を見ながら川西は妙に冷静な方の頭で思った。 顔が、随分と火照っているのを感じる。 ――夢の中じゃ、ない。 夢であればこんなに熱く感じることも、相手の重みを感じる事もないはずだ。今まで修羅場中の仮眠で散々な夢を何度か見たことはあったが、それとは段違いに迫力がある。 ――大体、こんないいベッドの感触は、しない。 そう、変な夢を見る時は決まって、机の上に突っ伏して寝ているか机の下で丸まっているかのどちらかだ。だから、これは夢じゃない。 まだ頭の隅が酔っ払っているのか、川西はそんな風にゆっくりとしか考えられなかった。 ――酔っ払ってるから、しょうがない ――そう、飲んだんだ、俺は。 ――今日くらいは、なんて、油断、して。 段々と、ゆっくりとだが事の経緯を思い出してくる。 シュッと吉浦が煙草に火を点けたのを見て、そういえば今日も一緒に飯を食べた時、この男は煙草を吸っていたな、等と思いながら。 前回合った時から、一週間に1度か2度という驚くべき頻度で、吉浦は川西を誘ってきた。 その理由も、他に誘う人間――特に女――もいないのか、という事も訊けなかった川西は、今日もまた吉浦を駅前で待っていた。 今日は、いつもの駅から乗り換えたある小さな駅の前での待ち合わせだ。他の大きな駅に比べると降車する人間の数は少ないが、それでも忘年会シーズン真っ只中らしく、二軒目だ、などと騒ぐ学生やサラリーマンの姿が見えた。 ――年忘れ、か。 会社でも忘年会があったが、殆ど飲みもしなかったし食べもせずに一次会だけで帰った。年を忘れる、といった風な騒ぎ方を知らない川西は、周りで飲み続ける同僚に溜息をお見舞いしただけだった。 それよりも、吉浦と一緒に過ごした方が、色々なものを忘れられた。 なぜだろう、と思う。仕事も性格も全く違う相手だからこそ、うまくいくのかも知れない。初めは180度違う人生を歩んでいる男に引け目しか感じなかったが、吉浦の雰囲気の良さ――それも初めはよく解らなかったが――に、ついつい気が緩んでしまうのだ。 しかし、そんな風に気を緩めているから、肝心な事が聞けないままなのかもしれない。 もう少しだけ、突っ込んだ質問もしてみたいのに、吉浦はそういう所だけ許さない雰囲気を持っている。 ――それとも俺が、ただ聞きたくないだけなのか。 聞いて、嫌そうな顔をされるくらいだったら、いっそ。 「よう」 「っ!!」 今までの回想に耽っていたら、不意に背中を叩かれて飛び跳ねそうになる。子供じゃあるまいし、とショックで鼓動が早くなっている心臓の上を片手で押さえながら、やっと来た待ち人を少しだけ見上げた。 「はは。そんな驚かんでも。待たせたな」 「あ、ああ。とんだ挨拶だ」 何度も会ううちに、それなりに本来の自分の口調でものを言えるようになってきた。喋り始めこそ若干のどもりはあるが、それでも大分滑らかに喋れているほうだと思う。 吉浦も気づいているのだろう、皮肉にも取れる川西の言葉に軽く笑んで応じた。 「待たせた分しっかり食わせてやるよ。あんた、大分健康的になってきたしな」 安心して連れまわせる、と付け足した吉浦の言葉からは、いい雰囲気しか感じられない。いくら人付き合いが苦手な川西にも、その嬉しそうな口調まで斜めから見ることはできなかった。 そんな吉浦のおかげか、段々と気分が高揚してくるのを感じる。ゲンキンなものだ、と思うのだが、どうせ外見からはそんなうきうきした気持ちなんて悟られないだろうから平気だろう。 ――前だって平気だったし、今日だって。 一杯以上飲んだって大丈夫じゃないだろうか。楽しめるんじゃないだろうか。 ――いや、むしろ飲みたい気分かも。 逆に飲んだ方が勢いで突っ込んだ質問もできるのではないか。 川西は以前になく楽観的になっていた。冷静な自分自身が見たらそれは、単にヤケクソになっているだけじゃないかといった風だったが。 とにかくこんな気分は初めてだと思いながら、吉浦に歩調を合わせて歩き始めた。 ――今日こそは、今日、こそ、は… そこから店まで行って美味しい料理を食べて色々食べて色々喋った事を、ビールと日本酒を数杯飲んだ所で川西はすっかり忘れてしまったのだった。 「――――……あぁ…」 そこまでを吉浦が煙草一本吸い終わる迄にじんわりと思い出し、川西は重い溜息をついた。 自分が前後不覚にまでなってしまったのが情けなくて、とりあえず恥じ入るだけの理性が戻ってきた頭で片手を口に当てた。それですら酷く緩慢な動きだったのだが、吉浦は気にせず紫煙を吐いた。 「大丈夫だ、吐いちゃいねえから」 「……そ、そうじゃ、なくて、その…」 呂律も普段より回らなくなっているのを感じる。話しベタがいつもの倍以上にもなっている気がして、どうにも身体が自分のものじゃない気がする。 理性的になれ、と努めているのに、眼鏡も外されてここがどこかもわからない状況で、ぐるぐるとその単語だけが空しく頭を回っていった。 「さっきまではあんなに可愛く眠ってたっつうのにな。ちと残念だが、まぁ起きたってだけよしとするか」 仄かに口元に笑みを浮かべた吉浦は、そう言って煙草を灰皿に押し付けた。 その拍子に、ふわっと身体が楽になった。吉浦がかけていた体重が一気に減ったからだ。 傍から見ればまるで押し倒されているようなものなのに、それを薄々気づいているのに、川西には深く考える余裕はなかった。勿論、突っ込む度胸なんてもってのほかだ。 「………こ、こは?」 それでもどうにかしようと思って、頭の整理をつけたくて、口を開く。 「ああ。――秘密、と言いたい所だが…俺の部屋だ」 「……」 ――こんな広いベッドがあって、自宅だって? 若干クリアーになってきた頭が、今の驚きでもっと活性化する。それでも、まだ脳と身体の連携は上手くいかない。元々これほど酔う前にストップをかけていた方だから、何がどうして自分の身体を抑制してしまっているのかが解せなかった。理解不能な事が出てくると、数式じゃないから答えが導き出されなくてそれ以上考える事を拒否してしまう。悪い癖だ。 「驚いてるな、随分酔いが醒めて来てるじゃねえか」 苦笑い、というべきか渋い笑みがまた間近に迫ってきて、川西は何度か目を瞬く。 「……な、んで」 単語単語でしか話しが出来ない。出来の悪いロボットみたいだ、とまた妙に冷静なもう一人の自分が嘲笑してくるのが解った。だが、今の川西にはどうすることもできない。知らない事で一杯なのだ、自分の身体の事も、吉浦の真意も。 「…酔ったはずみで、っていう言い訳を、準備してたんだがな」 「…え…」 「もしくは、あんたのしてきた質問の答え、だとか、な」 「……?」 質問だなんてしたのだろうか。 確かに、聞きたいことは山とあった。それを聞けたなんて、酒の力は随分と強いのだな、と感心したのも束の間、さっきよりも吉浦の顔が近づいてきて息を飲む。 ――なにを、何を俺は彼に聞いたんだ? 「――あんた、俺に女がいるのかって聞いてきたんだよ。覚えてないのか?」 「………………」 まるで人の心を読んでいるかのように、吉浦は言葉を紡ぐ。 いつもは驚くばかりなのだが、その言葉は今回ばかりは信じられないものだった。 「教えてやろうと、思ってな。――俺に女が居ない理由」 ――よりによって、その質問。 「…教えて、って…」 驚きすぎて、鸚鵡返しのようにしか返せない。 にやり、と吉浦が笑んだ。まるで、今から人を斬るのが楽しみでならないと嗤う気が触れた侍みたいに。 「――ま、こういうこったな」 そう言って、吉浦はもとから肌蹴ていたらしいシャツをズボンから抜き去った。 いくら室内温度は高めとはいえ冬にそんな事をされると、ゾクリと背筋が粟立ってしまう。 「………!」 「あんたも女がいないみたいだし、経験も少なそうだからな。…気持ちよくだけ、させてやるよ」 下唇を舌で舐めながら川西のベルトに手を掛ける吉浦は、それはもう低く艶のある声でそう告げた。 「…っあ、やめ…」 「触る前からそんな声出してんなよ。まだ酔ったままだって思い込んでりゃ、凄く悦くなっから」 ベルトを外され、中途半端な格好で仰向けになっている川西には、目の前の男はやや逆光になってしまいその表情はしっかりとは解らなかった。ぼんやりとした視界は裸眼だからだろうとも思う。目が乾いてきていたが、まだ泣いているわけじゃなかった。 「………っ!」 それでも下着の上から股間を撫ぜられ柔らかく掴まれた時には、どうしようもなくなって目を瞑ってしまう。 その拍子に太ももで吉浦の腰の辺りを挟んでしまい、まるで昔作っていたエロゲーのキャラが誘ってるような仕草になってしまった。思わず赤面したが、初めから火照っていた頬ではその変化は微々として伝わらなかったようだった。 「本当なら、全部なかった事にして忘れてもらうってのが有難いんだがな」 「…ひぁ…っ」 下着から半勃ちになったモノを取り出され、実際につっっと人差し指の腹で撫で上げられ、思わず変な声が漏れる。 「…いや、一番いいのは俺がこんな事に及ばないって事か」 「そん、…っぁ、な……」 「素面のあんたには絶対手出しは出来ねぇ。…ああ、随分綺麗な色してるな、自分でも余りしないだろ」 ――するって、何を 自慰の事を言われているのだと何とはなく耳年増な自分には判ったのだが、それを認めてしまったら終わりな気がして緩く首を横に振った。 未だに、吉浦がしてくれる『気持ちいいこと』の全貌を理解することを心のどこかで拒否している。酔いの所為か性格の所為か、抵抗も受容もできそうにない。 「っんん…」 自分とは全く違う触り方に容易く翻弄される。根元から先端の括れの部分まで力強く擦られ、目を閉じても頭の奥まで刺激されるような感覚に苛まれた。 「…はは、抵抗しねえのか」 「…っ!」 「嬉しいやら、だ。…しっかり忘れてくれよ」 そう言って川西の先走りを舐めとり、そのまま咥内に含んだ吉浦の顔は、直前寂しそうに笑みを浮かべていたようだった。 だが、それを川西が深く考える前に、その頭はやってくる快感の波に喘ぎを漏らす事に精一杯になってしまっていた。 「―――あぁっ」 久し振りに達したと感じた瞬間に、酔いの力か強すぎる経験の所為か、ふっと自分が意識の底に沈んでいくのが判った。 ――あぁ、もう何がなんだか。 そう思った瞬間、川西は意識を手放した。 「――……あ…」 次に起きた時、目の前に吉浦の顔はなかった。 その代わり、ちょうど鎖骨の上の辺りに彼のものらしき腕があって、その苦しさで起きたのだろうと推測した。何となく抱きついてきているように感じたのは気のせいだろう。 ――じゃ、なくて!!! ぶんぶんと首を横に振る。 冬なのに半袖で寝て居る吉浦の二の腕に、もう少しで見蕩れてしまう所だった。 「…………んん…」 「――!」 頭の振動が寝ている吉浦にも伝わったのだろうか、くぐもった声を聞いて、川西はやっと覚醒した。 そして同時に、慌てた。 ――とと、とにかく、出よう 覆いかぶさるように隣に寝ていた吉浦を何とか起こさないように押しやって、皺だらけの服をどうにか誤魔化すようにコートを着て、ぐしゃぐしゃの髪はいつものままだから放っておいて眼鏡を掛けて、転がるように川西は外へ出た。マンションの外に出るまで、普段の起床から出勤までの時間の数倍早い動きだった。 ここがどこかは知らなかったがタクシーを程なくして捕まえられると、川西は最寄の駅へとだけ伝えて溜息をついた。運転手は駅名を確かめるように聞いてそのまま走り出す。 ――これで、終わり、だ。 何が、とか、それで良いのか、とか、どうせ携帯の番号を知られているのに、とか。 色々と問題が目の前に暗いカーテンを落とすのを感じながらも、今の川西にはただ逃げる以外に方法が見つからなかった。 ――なんだってあんな人間と、知り合いになってしまったのか なんで吉浦があんな行動に出たのか、その真意を考えようとする前に深い自己嫌悪の波に囚われる。 ――とりあえず、家に帰って、シャワーを浴びて、もう一度寝よう。 今なるべく吉浦の顔を思い出したくなくて、目先の事だけを考える。 そうしないと、さっきまでのベッドの感触と、吉浦の顔を、思い出しそうになってしまう自分がいた。 |