白馬の微笑
02

「おい、どうした、食べないのか?」

目の前に並べられた暖かな料理をただただ凝視していた川西は、ビールを煽り訊ねてくる吉浦にひきつった笑みを浮かべた。







腹が盛大に鳴って、ひとしきり吉浦に笑われてしまった川西は、もうほっといてくれと言わんばかりの長い溜息をついた。久し振りに外にでてみればこんな事態に見舞われ、今日は一体何の日なのだろうと本気で考える。
――俺が悪いんだけど、ああ、知ってるけどそれ位。
27にもなって自分の体調管理もまともにできないのか、と頭のどこからか叱咤の声すら聞こえてきた。それがしっかり者の弟の声をしているあたり、自分もほとほと情けないと思う。
「何だあんた、まさか空腹で倒れたとか言うなよ?」
笑いの波も収まった吉浦が、コートを羽織りながら言った。銜え煙草でコートを着る様はそれはもうムカつく程に似合っていて、実際胃には何も入っていないのにムカついた。
「……」
しかし川西は何もいえなかった。仮にも恩人である吉浦を、邪険に扱うわけにはいかない。
むすっとして黙り込む川西の様子を図星と取ったのか、吉浦は「よし」と川西の鞄と腕をとって歩き出した。
「ぅわ…っ」
「食ってないんだろ?夕飯にはちっと早いが、いいとこ連れてってやるよ」
俺の奢りで、と付け足す吉浦の力は強くて、起き上がったばかりの川西には断る術がなかった。


――…一体俺はこいつに何扱いされてるんだ?


こんな格好で、気分もまだ優れないのに、なんだってこんな初対面の男に付いてきてしまったのだろう。何とかビールだけは断ることができたが、初めて尽くしの所でリラックスできるはずもなかった。
――さっさと腹に何か入れて、一応金だして帰ろう。
来てしまった以上それがベストだ、と覚悟をきめて手を合わせる。
奢る、と吉浦は言ったが、それを貸しにして何か脅迫してくるということもありえる。こんなに鋭い目をした男が、普通の職についているはずがない。
「……いただきます」
「おう、食え食え。胃にも優しめなのを頼んだからな」
「どうも…」
そのキツい眼差しを向けられると、思わず目を伏せてしまう。見つめられているとやりにくいが、とにかく箸を手に取り、黙って揚げ豆腐を1口食べた。あんのかけられている揚げ豆腐は確かに甘めで程よい温かさもあり、胃の中にじぃんと染みっていくのがわかった。
「…うまいだろ」
食べたのを見届けた吉浦は、にっと笑って自分もまた焼き魚を綺麗にほぐして食べ始めた。
「…あ、はい」
「そりゃ良かった。――あ、ところであんた、名前は?」
「…!」
そういえば、だ。というか、この男は名前も知らない男に飯を奢る気になったのか。一体どこの豪快な人間だろう。
改めて目の前の男を妙だと思ったのだが、とりあえず向こうにも名乗らせてしまった以上、教えないわけにもいかなかった。
「…川西。川西晋平」
「川西な。改めてよろしく」
言いながら吉浦はスーツの内ポケットから名刺を取り出して渡してきた。暗に自分も出すように求められているような気がして、川西も鞄から名刺をだす。
――…一応、人に言える職業についてるんだろうか。
少なくとも名刺を渡せるくらいには、と吉浦がヤクザではないかと疑い始めていた川西は、でも自分もこの名刺を出すのは気がひける、と思っていた。別に自分の仕事に誇りをもっていないわけではないが、馬鹿にされても言い返せない口下手な自分が嫌なのだ。
お互い片手で名刺を渡しあって、おそるおそるその字面を確認する。
そして、そのあまりに見慣れた会社名を見て愕然とした。

――証券、会社…

しかも、CM等も多く見る大手の、だ。
今まで一度も触れた試しのない職種の名刺を、思わず取り落としそうになる。
「――なんだ、ゲーム会社か、ここ」
証券マンと知り合いになってしまった、と生きた心地のしない川西は、吉浦のその言葉に顔をあげた。どうやら、驚いたのは自分だけではなかったらしい。
「有名だよな、俺も知ってる」
――ってことは、知ってはいるがゲームはやらない、つータイプか。
大方この会社も株式だし、アミューズメント部門は変動がどうとかいう分析でも思い出しているのだろうと踏んで、「どうも」と小さく頭を下げてから鳥釜飯を箸で刺す。
その様子を見て、吉浦はゴホンと咳払いをする。思わずびくっと肩を竦めて前を見ると、吉浦は首を傾げていた。
「何と言うか、堅苦しいな、あんた」
「…初対面、ですし」
「敬語とか堅っ苦しいのはナシな。折角美味い飯食いに来てんだ」
「はぁ…」
「いいだろ?大体同い年位だろ、縁だ、縁」
この男に縁などと言われると、やっぱりヤクザなイメージを抱いてしまう。この顔で顧客に会ったり説明してやっているのだろうか。証券マンなんて人間のやってる事は全く知らないから、何をどう想像すればいいのか解らなかったが。
とりあえず、敬語を使わない方が喋りやすかったから、烏龍茶で喉を潤した後、川西は口を開いた。
「…わかった」
「よし」
川西の言葉を聞いて、吉浦は偉そうに笑った。でも、その笑顔が少し子供っぽくて、もしかしたら本当に自分と同い年くらいなのかな、と思う。
「しかし、ゲーム会社ってのは解せないな。そんな気分悪くなるまで働くのか」
アルコールを胃に入れて若干険の消えてきた――それでも充分威圧的だが――顔をこっちに寄せてきながら、吉浦が訊ねてきた。
至近距離で見詰められて思わず壁に背中をぶつけると、吉浦はうんうんと頷きながら顔を離した。
「少しはまともな顔色になってきたな。寝てる時のあんたときたら土気色で、そろそろ駅員呼んだ方がいいかな、と思ってたんだが」
――ああ、あと少し寝てればこんな事態にはならなかったのか。
と、悔やんでも遅いか、と川西は小さく溜息をついた。
「その節は本当にどうも…でも、体調を崩したのは、仕事の所為じゃなくて俺の所為」
声こそは小さかったが、今までで一番長い台詞を口にする川西に、吉浦は「へえ」と相槌を打った。
「ということは、体調管理が苦手」
「そう」
頷いて、味噌汁を手に持った。確かに、ここの料理は一品一品が柔らかい味をしている。
「少しはセーブするか、体力つけるかしないと、通常業務にまで支障がでるぞ」
「……知ってる」
まるで母親や弟の様な事を言う奴だ、と思いながら、川西は味噌汁の豆腐となめこを飲み込んだ。

体を鍛えればいい、とかいう問題ではなく、川西は基本的に仕事をしているとき他の何もかもを忘れてしまうところがあった。限界ギリギリまでやりこんで、出来上がってから何十時間も寝たり何人前も食べたりするという不健康極まりない生活ばかりしている。
仕事が佳境に入っている時に食べるものも、基本的にはジャンクフードかエネルギー食品ばかりで、カロリーだけを摂っているといっても過言ではなかった。だから、今みたいに何品もあって野菜も白いご飯もある料理を食べたのは、本当に久し振りのことだった。

逆に胃がおかしくなるかもしれないな、と思いながら慎重に箸を運ぶ。
有難いことに吉浦の選んでくれたメニューは、成人男性には脂身こそ足りないものの、そのあっさりとした味付けと程よい熱さが調度よく、川西の使われていなかった胃を活性化させてくれた。湯葉料理なんてのも店では初めて食べた、とその淡い甘みを味わって嚥下する。

「おい、眼鏡、曇ってんぞ」
二杯目のジョッキを頼んだ吉浦は、味噌汁の湯気で白く濁る川西の眼鏡を指摘した。言われて、ああ、とも、うん、ともつきがたい言葉を返しながら眼鏡を外す。視力は決して良いほうではないが、至近距離の料理の見分けくらいは流石につくので、この際外したままにすることにした。
「………」
川西が眼鏡を外した途端、吉浦の視線を特に強く感じて惑ったが、こんなことで動じてはいけないだろうと自分をただした。
「…おいおい」
「え……」
眼鏡を端に置き、さてまた食べるかと箸に手を伸ばしたら、その手の甲を掴まれる。強くも弱くもないその力が、何となく目の前の男のものではないような気がした。
驚きが来たのは、その後だった。きっと、疲れていたのだろうと思う。
そうでなければ、いくらなんでも直に振り払うことができなかった自分への言い訳がたたなかった。

「…あんた…」
「……な、何を…」

おずおずと手を引っ込めようとして、吉浦が慌てて手を離した。もしかして無意識のうちに手がのびてたのかとも思ったが、まさかそんなことはないだろうと考え直す。
吉浦が小さく咳をする。どうやらこれは彼なりの気を落ち着かせる方法らしかった。
「いや、すごいクマだな、と思って」
「ああ…仕事が今日やっと終わって。それまで寝てなかったから」
おそるおそる箸を取ったが、今度は手をとられるということはなかった。
「そうか、そりゃ、連れてきて悪かったな」
「…いや、美味しいし、正直腹も減ってたし……助かったよ」
――今更殊勝なことを言いやがって
『そうか』と言いながらほっと息をつく吉浦とは逆に、川西は内心毒づいていた。早くなる脈拍を隠すかのように、烏龍茶を飲む。
確かにここの料理は美味い、それにこのやりとりから察するに奢りというのは本当だろう。やましさも感じられない。
…ただ、どうにも気に食わない。
それが吉浦の外見から来ているのか、それとも性格からかは解らなかったが、川西はこんなによくしてもらっていると解っていても、吉浦に対して好意的にはなれなかった。
多分それは、自分自身の中にある劣等感から来ているのだろうと思う。自分なんかに飯を食わせてやって、それでこいつは慈善事業でもしたかのようにいい気になるんだ。そんなサービスはゲームの仕事をしている時だけにさせてくれ、と舌打ちの一つもしたくなってくる。
――感謝は、する。だけど、それだけだ。
具合が悪かった自分をみてくれたことには感謝をするが、奢ってもらおうという気にはもうなっていなかった。無理やりにでもお札を奴に渡してやろう。
そして、それっきりにしよう。
――こりゃ、名刺を渡さない方がよかったかもな
名刺だなんて自分の所属が解るものを渡してしまったのは、やはり軽率だったな、と思う。
「…ごちそうさま」
手を合わせてそう吉浦に言えば、吉浦も「ご馳走さんでした」と言って席を立った。あぐらをかいていてもたまに足の痺れる川西は立って靴を履き歩き出すのも一苦労だった。
そんな一動作にも疲れを見せずに付き合ってくれる吉浦を、偽善者か本当の善人か見定めるのは保留にしよう、と思う。今日分かれて、それだけの関係であればそれが一番だ。わざわざ気に食わないからってそいつを嫌いな奴に認定してしまったら、かえってそいつのことを気にかけるようになってしまうのを、川西は知っていた。

――こんな、遠い人間の事を、気にかけるような俺にはなりたくない。



「本当に、家まで送ってやらなくていいのか?」
店先から数分歩いた後、吉浦は『じゃあここで』と言って別れを告げようとした川西に心配そうな声で聞いてきた。
結局、お金はなんとか受け取ってもらえた。吉浦よりは払う金額は少なかったが、それもしぶる吉浦を何とか説得してのことだ。そんな風に誰かを説得したのは生まれて初めてで、その時を思い出すと喉がまだ渇いているような気がする。
「ああ、すぐ、そこだから」
「そうか。気をつけて帰れよ、帰ったらすぐ寝ろよ」
また家族のようなことをいう吉浦に、川西は小さく頭を下げるだけだった。


そうして、吉浦と川西は別れた。


家に帰ってからすぐ、川西は久し振りの布団の感触を確かめるように、毛布にくるまって眠った。
夢に現れた吉浦が、何か色々と小言を言っていて、きついセリフなのに何故かコミカルに聞こえてしまって、目を覚ましてから笑ってしまった。
こんな風に知り合いが夢に出てきて、そしてそれで笑ってしまうなんて、今までなかったことだった。
そして、そこで気がついた。
自分が吉浦を気に食わなかったのは、自分の劣等感からじゃなかったのだ。

単純に、なぜ自分なんかに飯を食わせる気になったのか、その理由が解せなかったからだった。

次に会った時にでも訪ねてみれば良い、と思ったのも束の間、そんな機会はもう二度とないだろうと思う自分自身によってそれは綺麗に潰されてしまった。
そうだ、あれはたった一回のことだったんだ。
証券マンなんてただでさえ忙しい仕事に就いているやつに、こんな不衛生で不規則な暮らしを続ける人間を誘う時間なんてありはしない。
そんな風に自分を慰めるような言葉を脳裏にくりかえさせながら、川西は出社の準備を始めた。
もう、感傷は終わりだ。自分はまた無機質を愛でなければならない。
まるで、昨夜確かに胃の中に入っていたあの暖かい料理が消えてなくなってしまったような、そんな喪失感だけが立派で、忘れたいがために風呂で熱いシャワーを浴びる。

――ちゃんとしたものを食べろ、っていう教訓だよな。
川西はらしくもなく会社できっちりとした弁当を食べながら、冬の青空に向って一人溜息をついた。
きっと数日もすれば、昨日の飯の味も忘れて、また仕事に没頭するのだろう、と。






しかし、吉浦との縁が、そこで切れることはなかった。

一週間もしないうちにきた週末に、携帯が鳴ったのである。
忙しいのか、と聞いてくる吉浦に別に、という曖昧な返事を返せば、耳元でまた信じられない言葉が発せられた。
『じゃあ今日7時半にこの間の駅前で会おう。鍋を一人でつつくのは寂しい』
「は…?!」
『予約はとってあるから、絶対来いよ。じゃあな』
川西は、改めて吉浦に名刺を渡すべきではなかった、と深く後悔した。

――まあでも、鍋か……。



ぎゅる、となり始める腹を落ち着かせてから、川西はその日の報告書のプリントアウトを開始した。

吉浦が偽善者なのか、善人なのか。

それを考えるのは、食事の時でもいいだろうかと、あの印象的な一重瞼を思い出しながら、思った。