白馬の微笑
01

――久し振りの、外だ。



思わずシャバの空気は…なんていう往年のVシネマの台詞が脳裏を過ぎり、男はフッと自嘲げな笑みを浮かべた。

昼時も過ぎた平日のオフィス街に、スーツも着ていない20代半ば位の男が立っている。
ボサボサの頭、黒ブチの眼鏡、申し訳程度に羽織られたロングピーコートのおかげで、その下の服が何日も洗濯されず着まわしされているという事はぱっと見では解らなかった。
男の目の下には、しっかりとクマができている。あまり日光に当らない青白い肌には、薄くてもそれがクマだと如実に解った。
だが、そんなことを気にしている余裕は彼にはない。
今は、兎に角家に帰って布団の上で眠りたかった。

――やっと、やっと!布団で寝れる!!

ピーコートの前ポケットの中に入れられている手を握りこんで、軽いガッツポーズのようなものを作る。地味すぎて通行人には多分気付かれていないだろうが、彼なりの大きなアクションだった。




この冴えない男、川西晋平(かわにし・しんぺい)、27歳。彼女いない歴27年。
大手ゲーム会社のプログラマーなんて恰好いい職業についてはいるものの、その実はオタクにしか見えない暮らしを送っていた。


都内有数の工科大に在学中の時からやっていた同人PCゲームのプログラミングの腕を見込まれ、エロゲー会社にスカウトされて、そこからまた今の会社にスカウトされた。異動異動の怒涛の数年間も、今の会社に就職したことで終わりだろうとほっと胸を撫で下ろしたのを覚えている。だがそれも束の間、今では前の職場以上の忙しさで日々パソコンの前に向っている自分がいた。





――全く、趣味を仕事にするべきじゃないな。

今でこそ大手ゲーム会社に勤めることで、ある程度の休みはもらえるようになったが、今回みたいに何日も会社に寝泊りすることは決して少なくはない。むしろ人気のあるタイトルをいくつも持ち、更にアミューズメント機器の開発までしているのだから、社員を増やしてもその忙しさは変わることがないのだった。
まるで自分が働きアリ型のロボットになったような気すらする。まだ、普通の会社員の方がマシだったんじゃないかというくらい。
だが、川西は自分は到底普通の会社で勤め人などできるわけが無い、と思っていた。それは自分の職人気質でマニアックな所から来ている、と自己分析している。普通の人間から言わせたら『単なるオタクなだけじゃん』といわれる要素なわけだが、自分がそこに臨機応変な柔軟性とか社交性をプラスする気はないからそう言われても返す言葉はない。

――まぁでも、今日ばかりはイイ気にならせてもらっても罰はあたらないさ。

そう思いながら、欠伸交じりに地下鉄へ向う階段を下りる。体は下降しながらも、心は上昇気分だ。

――なんてったって、俺の娘が嫁ぐんだからな…!

勿論、27歳の川西に妻は居なけりゃ娘もいない。例えいたとしても嫁げる年ではまずありえない。
つまり、娘とは彼がプログラミングを担当したゲームのことであり、嫁ぐというのは彼の手から離れ後は発売を待つばかり、となった状態のことを指している。
我ながら変な感傷だとは思うが、同じ技術屋同士ではこの感情は普通のこととして扱われている。業界では技術屋といわれるプログラマーの中でも、特に川西はC言語とか、おおよそこれで女の子は成り立っていないだろうというものに、愛娘を育てるような愛情を抱いてしまうのだ。
――実際愛しいんだからしょうがないだろ、あー、嬉しいやら悲しいやらだな。
この手であれ以上プログラミングをいじれないというのは、と首を鳴らしながらホームの端まで歩く。やっている時は早く終わらないかと思うのだが、いざ出来上がってしまうとまだやり足りない、と疼く部分がある。
今回は初めて人気RPGシリーズのサイドストーリー的なタイトルに参加させられて、そこで既存のプログラミングを組み替えたり、コンセプトを変えずにデザインを一新させたり、等という作業をした。初めから組み立てるよりも、こういうスパイス的な使われ方をする方が向いている川西にとっては非常に嬉しい仕事ではあったが、得意なタイプなだけに何にも妥協はできなかった。
――ゼロからのプログラミングが0歳児から育てるんだとしたら、今回は一緒に買い物に行って服を買ってやったりするマイ・フェア・レディーみたいなもんだ、な。
なんて、最近ゲーセンで流行っているアイドル育成ゲームなどを思い浮かべながら、列車の最後車両に乗った。まもなくして発車する。
この、ゴウゴウゴトゴト言う音も懐かしい気がした。ちょっと前はこの毎日の通勤が結構クセモノだと思っていたのに、離れていればそれはそれで懐かしいものになるのだな、とフと笑う。
周りからみたらその笑みは酷く気味の悪いものだったが、それを気にするほど今の川西には体力も精神力もなかった。ただ達成感と疲労と帰省本能だけが、彼をこうして電車に乗せていたのだ。
ガタタン、と車内が揺れる。地下鉄では窓の外も常に暗く、時間の経過までもあやふやにしてしまうような気がした。
こんな風に揺られていると、ふっと意識を手放しそうになる。
――あ、やばい、酔ってきた。
基本的に車にもバスにも電車にも強い川西だが、空腹時や眠い時に車内でそれを我慢しようとすると結構気持ち悪くなることが多かった。
車内アナウンスが、次が家の最寄り駅だということを告げる。その語尾がわんわんと後頭部に響き、ああ、これは完璧にやばいかもしれない、と川西は重く長い息を吐いた。
さっきまで高揚していた気分が嘘みたいだ。
いや、さっきまで無理やり上げていたテンションが、電車に乗ったことでふつり、と切れてしまったといった方が正しいかもしれない。
頭は重いのに、胴体がやけに空洞な気がして、今更ながらに自分が空腹を訴えていたのだと言う事に気づいた。

――そーいや、俺、最後にちゃんとしたモン食ったの何日前だっけ…。

ドアが開く。足の裏に力を入れて立ち上がるとくらっと眩暈がしたが、男の自分で立ちくらみも貧血も似合わないだろう、と無理やり歩を進め、ホームに足をつけた。
背後でドアが閉まる。黄色い線の内側に入ると間も無く電車は走っていき、人気の少ないホームには川西だけしか残されていない気すらした。
みぞおちの辺りがシクシクする。足元がおぼつかない。

――あ、やばい、これは…

並んだベンチの上に鞄をおざなりに置いてその隣にうずくまる。
全身にぶわっと脂汗がわいてくるのを感じながらも、川西は何も考えられずに真っ暗な世界へと落ちていった。









「………………はい、では今日はこのまま…」

川西がゆっくりと暗い世界から戻ってきて、瞼を開けたのは、聞きなれない男の声が耳に届いてからだった。

――どこだ、ここ。

川西は上体を起こした。背中に違和感を感じてさっきまで寝ていた所を見ると、それはさっき自分が鞄を置いたベンチであるらしかった。

――ああ、俺、倒れたんだっけ

正しく言うと倒れたのではなくうずくまったのだが、そんな些細なことを考えるよりも、目の前で電話を掛けている男の方が気になった。

――誰だこいつ。

「ええ、どうも…失礼します」
スーツを着ているということは駅員ではないのだろう。冷え込んできたこの季節にコートもなしでよく電話なんか、と思ったら、自分の腹の上に男のコートらしきものがあることに気付いた。
もしかしたらうずくまっていた自分を介抱してくれたのだろうか、と首を傾げていると、男は携帯を耳元から離した。どうやら会話は終わったらしい。
「よお、気分はどうだ?」
電話していた時とはうって変わった乱暴な言葉遣いに眉根を寄せる。だが、顔を見ればその口調の方が自然にも思えた。
一重のキツい目元が怪訝そうに細められて、川西は慌てて口を開いた。
「………あ、あぁ、何とか…」
「そりゃ良かった。電車から降りるなりあんたいきなり蹲りやがって、どうしたもんかと」
「…あ、ありがとう、ございます」
おずおずと掛けられていたコートを差し出せば、おう、と短い声で受け取られる。動作も口調もあまりにも川西が普段付き合う人種のものとは違っていて、いちいちびくついてしまうのが情けなかった。
大体にして仕事の関係者以外の人間に会う機会なんていうものもここの所減ってきてしまっていたし…と、内心自己弁護を繰り広げたが、傍からその様子を見てた男は何を思ったのかいきなり笑い出してしまった。
低い声の笑い声が、地下鉄のホームに響く。

――何なんだ、この男。

「……え、ええと…」
「え、ああ。すまん、俺は吉浦だ。吉浦恭丞(よしうら・きょうすけ)」
よろしくな、と言いながら煙草に火をつける男の横顔を、川西は呆気に取られたような顔で見詰めていた。

その後、見詰め合う二人を川西の腹の虫が盛大に邪魔をして、またこの男――吉浦は、大声で一笑いしたのだった。





それが、川西と吉浦の、出会いだった。