コペンハーゲンのように霧を含んだ、
08



数日間家とコンビニと大学にしか足を向けずに、尚志はパソコンに文字を打ち込んでいった。こんなに集中して話を書いたのは多分生まれて初めてではないかというくらいの熱の入れっぷりに、担当に原稿を渡した後ふっと自嘲の笑みまで漏れてしまったくらいだ。そのときの三木のおびえた顔といったら、今でも思い出すだけで笑えてしまう。

――とにかく俺は書いた。

部屋でぼんやりと溜まっていた洗濯物を洗おうと洗濯機をまわしながら、不意にそんな充実感に包まれた。
別に思いが通じる事が大切じゃない。自分が抱えている思いに気付いて、それに何らかのアクションを起こせたことに満足している。
こんな気持は初めてで、これが世に言う『恋による充実感』なのかもしれない、とも思う。自分が同性愛に目覚めてしまったことについて高尚な脳内議論を戦わせる余力なんてものはないが、やるだけやったろ、という溜息ならいくらでも出てきた。
それが充実してるからなのか、まだまだ物足りないからなのか、そんな事は考えちゃいなかった。
「…あれ」
ふと洗濯機とは違う電子音がして、尚志は台所へ向った。どうやら携帯が鳴っているらしい。メールでもきたのだろうか、と画面を開けば、仰々しい名前が文頭に乗っていた。
はぁ、と今度はおもい溜息がついて出る。


≪随分売れ行きいいみたいじゃない君の本、平積みになってるの見たよ≫
<有難う御座います>
≪雑誌の新作、まだ出てないんだっけ。読んでもらえるといいね≫
<余計なことは言わないで下さいよ>
≪大丈夫、謙は俺の所に来てないから≫


「………そう、なんだ」

そこまで短いメールのやり取りをして、尚志は数日まともに使っていないベッドにばたりと横になった。
――あれから、冷清水とは数度連絡をとっていた。最後に店を訪れた日から数日経った後、偶然駅前で会ってしまい、携帯のアドレスを教えるはめになってしまったからだ。
冷清水貴文、といえば知る人ぞ知る中堅ミステリ作家だ。中堅、とは言ったが最近見なくなったアンティークや史実に基づいたミステリを現代風に見事に昇華し、最近では賞もいくつか取っている(本人は賞なんてものに興味はないらしく、授賞式も欠席したとか)。珍しい名字からか1度見たらなかなか忘れられない名前は、尚志の小説が掲載されている雑誌でもコラム欄に数度載っていたように記憶していた。全く、そんな人の名前を『聞いたことがあるような気がする』で片付けていた自分が、あの時どれ程混乱していたかを思うと呆れて物も言えない。
<大丈夫だといいと思ってます、それでは>と返事を打ってメールを送信し、尚志は携帯を手から離した。

岩住が冷清水の元を訪れないことをほっとしている自分と、どこかでやきもきしている自分がいる。

「――どうにかしてくれ。」

昔なら『どうにでもしてくれ』と呟いていた所だっただろう、と気がついて尚志の口元が自然と笑みを作った。
たかが1つの感情が人をここまで変えるなんて、小説の世界だけの出来事だと思っていた。

「もう、ぼんやりしてるなんて言われたくないしな…」
そのまま恋する頭になる前に、尚志は冷清水が自分にコペンハーゲンをあてがった理由を思い出して考察することにした。
冷清水に言われてから、コペンハーゲンの食器について少し調べた。あの青い絵は一つ一つが手作りで、職人が描いているから基本的に値段が高いのだという。その白地に青の独特の色合いは霧を含んだ青、と称えられることが多い。
それがぼんやり、の象徴なのだろうか。
だとしたら随分と自分は相手を誤魔化してきたのではないだろうかと思う。霧なんて大したものを、自分が纏えている自信も自覚もない。むしろ自分が常に五里霧中である、といった感じだった。もしかしたら冷清水はそこまで読んだ上でそのコップをセレクトしたのかもしれないが、それが岩住にとって良い印象を与える理由になるような気は全然しなかった。
――霧を含んだ、青、か。
もしかしたらそれが岩住の趣味なのか。尚志がその言葉から思い浮かべられる人間のタイプとしては、深窓の知的な令嬢とか、ものすごい言い回しで控えめな人間とか、何だかよくわからないものばかりだった。そんなものの中に自分が入っているとは到底思えなかった。
――むしろ、岩住さんの方がそんな感じだ。
浮き沈みが激しくて霧のように掴みにくい。なのに、きりっとしたシャープな印象を与えて離さない。物言いは基本的にストレートなのに、まだ何かを含んだような感じがする。
――解るかな、俺に。
その前に自分が出来ることと言えば、シミュレーションみたいな小説を書くことだけで。果たしてそれで本当に岩住の心を掴むことが出来るのかなんて、何の確証もない。

ごろりと寝返りを打って、顔にかかる髪をかきあげる。
――やるだけ、やって、後悔がないくらいにして。
そうしないと、きっとこの恋の重みは軽くならないのだろう。
重みに耐えかねたように、尚志は眠りについた。







書いたものが実際に雑誌や本に載るまでは、結構な時間が掛かる。それを毎日じりじりした気持ちで待つほど尚志は暇ではなくて、卒論研究の題材を調べたり、専攻を見てくれる教授に挨拶に行ったりと、学業で忙しかった。それまで小説を早くでかす為に勉強を等閑にしていたのだ、仕方ないことだろうと思って小説には使わない書き方をしながらレポートを作成する。4000字のレポート、6000字のレポート、一応きちんと授業に出てはいたから、そこまで大変な作業でもなく坦々とやり過ごした。自分が将来何をどうしたいのか何てことは考えていないから、勉強で葛藤するなんてことはなかった。
悩むことがあるとすれば、それはものすごく近い将来。
――あと、少し。
あと2週間もすればきっとあの小説が載った雑誌が出る。ライトノベル誌では1,2を誇る出版数だからきっとあの人の目には止まる。それを彼が手にとってくれるかどうかはまた別の問題だとしても。
「…積田君、積田君?」
「……え、あ、はい」
教授に呼ばれて尚志は慌てて立ち上がった。いつものことだと知っているのだろう、もう2年続けて世話になっている教授は苦笑した。
どうやらレポートの返却をしているらしい。この間提出したばかりだというのに何と言う早さなのだろう、と改めてこの若く見える教授の前に立った。
「積田君、よくできました。いつも読みやすい文章で助かります」
「あ、有難う御座います…」
「君の小説も読みましたよ」
「へ」
思わず背筋が凍った。いくら聞かれた人には自分は本を書いていると答えてきたけれど、ここまで知れ渡っていたとは思わなかった。
教授は柔和な笑みを返した。
「はは、そう固くならないで。面白かったですよ。僕の授業で学んだのかな、あの東洋哲学的な理論の」
「はぁ…すみません、概論だけでも随分興味深かったので、その時から度々参考にはさせて頂いてました」
多分教授が言っているのはデビューしてからすぐの作品のことだろう。主人公の魔法のシステムを、当時とっていた哲学概論の授業で教わったことを基にして作ったのだ。作った当初は、後になってこんな風に露見するとは思っていなかった。思わず顔が赤くなる。
「嬉しいなぁ。僕、ファンタジーとか大好きでね。基本的に国外のものばかり読んでたんですが、小山君から君の話を聞いて読んでみたら、これがなかなか」
「小山ですか…」
一体誰から尚志の話を聞いたのかと思っていたが、高校時代からの腐れ縁の小山からだと知って納得がいった。彼は教授のゼミにいる。口が軽いわけでもないが石のように硬いわけでもない小山ならば、世間話か何かの弾みで言ってしまっていたとしてもおかしくはない。
「君みたいな文章の書き方だったら、きっとエッセイや純文学でも人気が出ると思いますよ」
「え、そうですか…?あまり波のある生活を送ってないので難しい気がします」
「あはは、そういうものこそ日本の純文学にはぴったりな気もしますが…ああ、もうこんな時間か、長々とすみません」
「い、いえ。有難う御座いました」
「新作、楽しみにしていますよ、それでは」
「は、はい、また…」
背を見せて教室を出て行く教授をぼんやりと眺めながら、溜息をついた。
――こんな人だって知っているのだから。
岩住だってこれからも読んでくれればいい、そんな事を切実に願った。





果たしてそれからきっちし2週間後、雑誌は書店に並んだ。今まで出版社から送られてくるその雑誌をパラパラと捲る程度でしかなかったのだが、今回ばかりは書店で確認してしまった。表紙に『士猶辰巳』という文字を見て思わず恥ずかしくなってしまう。こんなことはデビューした時だってなかったのに、なんて現金なんだろうと自分を笑わずにはいられなかった。
最寄り駅前にある大きめの書店でそれを確認した後、午後からの授業の為に大学へ行こうと自転車に乗った。
秋口の風はまだ若干の暑さを持っていて、この風も涼しくなる頃には自分の20回目の夏も終わってしまったという事になるのだろう、とぼんやり思った。20回目にふさわしいのかそうでないのかは解らなかったが、とにかく初めての事が多くて驚いた。
「誕生日もそんな風になれば良いけど…」
11月の誕生日まではまだ一ヶ月近くあった。それまでに何がどう進展したり、もしくは終わったりするのかなんて今の尚志には見当もつかない。

「何誕生日なんてのんきなこと呟いてんだ、お前」
「へ」

自転車置き場のいつもの場所に自転車を置くと、ふいにそんな言葉が背後から掛けられた。ふっと振り返ると視界に現れたのはオレンジ色の髪。
「あぁ、深沢…」
「登己(とき)でいいって。チャリ通なんだ?」
「あ、うん。言ってなかったっけ?」
「聞いてない。で、誕生日に何かやりたい事でもあんの?」
「え…」
矢継ぎ早に質問をしてくるのは、この春から新しく友達になった深沢登己だ。つい始めに会ったときの癖で深沢と呼んでしまうのだが、彼はそれが気に食わなくていつも下の名前で訂正する。背はあまり高くないが、ツンツンに立てられたオレンジ色の髪と赤い眼鏡が印象的で、彼もいずれ作品に登場させたいと現在申し立て中だ。いい返事はもらえていなかったが、それもまぁ時間の問題だろうと尚志は思っている。
自分の半歩手前を歩く登己の髪の毛が鼻先をくすぐりそうになるので慌てて横に立つようにしてから、尚志は改めて言葉を捜した。
「えーっと…」
「いつだっけ、誕生日」
「11月29日」
「まだ先だなー、彼女とかは…」
「いないって。そういう、登己は?」
名前で呼べば、登己は「よし」、と短く言葉を返して笑った。サングラス越しの色素の薄い瞳が細くなって、そんな素直な笑顔を尚志は少しだけ羨ましく思う。
「俺は元旦。つーか話逸らしてないか、お前」
「べ、別に。ほら、授業始まるって」
急におどおどしだす尚志がおかしいのか、登己はますます笑みを深くした。しかし傍から見れば素行が悪いのに真面目そうな青年が絡まれているようにしか見えなくて、そんな2人の周りを他の学生達はあからさまに避けて通っていた。全国的にも割と真面目で有名な大学だけに、登己のような存在は浮いて見えるのだ。尚志にはそれが羨ましく思えるのだが、今ばかりは深く近づいてほしくなかった。
「ふーん、まぁそれは追々教えてもらうことにするかな」
「まいったな…」
お互い同じ講義をとってるため歩く方向は同じだ。にやりと笑う登己に内心冷や汗を流しながら、尚志は歩くスピードを速めた。

――ちょうどその時。

自転車置き場と校舎を隔てる乗用車道をメタリック・ブラックの車が走ってきて、キッと音をたてて尚志達の脇に停まる。
「…んだ、この車…?」
そう、登己が怪訝そうな声をあげる。その声を合図にしたように、助手席のドアが開いた。
「乗って!」
「へ…」
とっさのことに反応できずにいると、ぬっと手が伸びてきて尚志の腕をがしっと掴んだ。そのまま車に引き込まれそうになり、思わず短い声をあげる。
「わっ…」
「尚志?!」
登己の声も知らず大きくなる。見ようによっては立派な拉致であるこの状況は、授業前か辺りが閑散としてきてることだけが救いだった。
「ごめん、この子借りてくよ!」
バタン、と荒々しくドアが尚志を引きずり込んだ男の手によって閉められた。その手がハンドルを握ろうとした瞬間に、尚志の中で1つの記憶がよみがえる。
――こんな綺麗な手は…
「い、わずみさん…!?」
「……やぁ、積田君」
久し振り、なんて言葉は告げられることがなく、車は走り出した。
さっきまでつい隣にあったオレンジ色がバックミラー越しに遠くなっていくのがわかったが、尚志の視線は数ヶ月ぶりに見る岩住の横顔に釘付けだった。