コペンハーゲンのように霧を含んだ、
07
「………馬っ鹿だねえ、あいつも」 ――そんな見知らぬ人の声が聞こえたのは、コーヒーが所在なさげにただ香りだけを揺らめかせて、ごちゃごちゃした頭がむせ返りそうになっていたときだった。 こんなごちゃごちゃとした頭だったら、普通他人の声なんて聞こえなくなるのが尚志の常だった。 なのに今しがた聞こえた声といったら、ぱんと頭を軽く弾かれたような、そんな印象すら受けるほどに強い声だった。決して威張っているのではないその声音は、しかし皆を有無を言わせずねじ伏せてしまうような力を持っていた。 「俺がコペンハーゲンのカップをやったら要注意だって言っといたんだがなあ、あの野郎。な、積田君もそう思うだろ?」 「え……」 名前を呼ばれてやっと相手の目をみることが出来た。 目が合うと、店の奥からやってきた男はにやっと人を食ったような笑顔を浮かべた。それに連動して、脱色したのかそれとも地毛なのか、不思議な色をした髪の毛が若干の癖を持って揺れる。 「あぁ、そうか。そういえば顔をつき合わすのは初めてか」 「あ、はい」 思わず頷いて答えれば、男は笑みを深くした。先程よりは若干皮肉が少ない気がして、尚志はほんの少しだけ緊張を解く。 「じゃあ初めまして積田君。俺はここのオーナーの冷清水貴文(ひやしみず・たかふみ)。君にそのコーヒーカップをセレクトした者だ」 「…初めまして」 やけに芝居じみた口調の冷清水に気圧されながらも、尚志はとりあえずの挨拶をする。ただでさえ混乱している頭の中に更に新しい人間が追加されるのは、自分が書いてる小説で不意に浮かんできてしまったキャラクターよりもたちが悪い。まるで冷清水という珍しい名字ですら、聞いたことがあるような気がしてきてしまう。 冷清水は尚志の前、先程まで岩住が座っていたソファに腰を下ろすと足を組んだ。上等そうな革靴が見える。 「…聞かないんだな」 「何を、ですか?」 「俺が何でコペンハーゲンのカップを君にと思ったのか、とか。謙とはどういう仲なのか、とか…色々さ」 「はぁ…状況に混乱していたので…それに、そんな矢継ぎ早に質問できるような立場じゃないでしょう、俺は」 「それは過小評価ってもんだよ。…まぁだからこそあのカップに相応しいと思ったんだけどな」 そこまで言った後、冷清水はまだ芳香を漂わせる岩住のカップを取ってそれを1口飲んだ。その仕草に何故か尚志の胸が締め付けられる。 ――どんな関係だなんて、そんなこと。 聞けるわけがない、と尚志は目を細め、代わりの質問を探そうと口を開いた。聞いてくれなければ話さないよ、とでも言いたげな雰囲気を相手が作っていたからだ。 「…一体いつから、俺の事を」 「初めて君がここに来た時から。ほら、中庭の奥に建物があるだろ?そこが俺の家でね。偶然中前君にコーヒーを淹れてもらおうと思ってこっちに来たら君が居たって訳だ。それに、偶然でなくとも俺はなるべく客には俺の選んだカップを使って欲しいんでね」 淀みのない声が、他に誰も客がいない店内に響き渡る。普段ならばどんなに強い口調の人間を前にしても縮こまることがない尚志も、今日は何故か自分が酷く小さく思えた。 「…それで、コペンハーゲンというのは」 搾り出すような声で聞けば、あぁ、と冷清水は今思い当たったと言うような声を出した。 「君のぼんやりしてるのに実は繊細そうなイメージがさ、手工業のコペンハーゲンにぴったりだなと思ってね」 「俺のイメージはどうでもいいです」 「へえ?」 「なぜ岩住さんが、コペンハーゲンだから気にするのか。それが知りたいんです」 「そんなの、君に会うためのただの切欠だよ」 「そうだとしても…今のままじゃフェアじゃなさすぎる」 「フェアって?」 珍しく饒舌な尚志の様子が面白いのか、冷清水は身を乗り出して話を聞き始めた。尚志にもこれが普段と違うことくらい解ってはいたが、今更収集がつかなくなっているのも事実だった。 「あの人はきっともう俺に会う気はないんです。…弁解の余地もくれない、1度だけの勘違いで全部諦めようとしてる、仕事も…俺も」 「おや、意外に強気なんだね」 あからさまに面白がっている風な冷清水を睨みたい気持を抑えながら、尚志は言葉を続ける。 「強気じゃありません、俺のはただの悪あがきです。今までの自分が裏目に出た…というか。初めはそれでいいかと思ってたけど、やっぱりある程度頑張らないと本当に欲しい物は手に入らない」 そこまで言ってから、尚志は自分自身ではっとした。 ――言葉に直してみて初めて、自分の気持ちがきっちりわかったのだ。 今までぐだぐだ考えていたことが、一本の線になったようなそんな感覚。 冷清水はふぅん、とその猛禽類のような目を少しだけ細めて笑った。 「…その為に、コペンハーゲンの意味するところを知りたい、と?」 「少しでもヒントになれば、と思ったんです。…でもそれはもう…そうですね、本人から聞いた方が良いのかもしれませんね」 「言ってあげようか?」 「冷清水さんから聞いても脚色されそうですしね。…俺、いつか貴方と同じ文壇に立ってみたいなって思ってたんですよ」 「!」 立ち上がりながら言うと、冷清水は意外そうに瞠目した。その仕草が子供っぽくて何だか優位に立てたような気がして、尚志はくすりと笑う。 「…おやおや参ったな、知られてたのかい」 「ミステリーは大好きなジャンルなんです、最近は忙しくて読めてませんが。…岩住さん、そっちの編集もされてたんですか?」 「あいつは俺の高校時代からの友達だよ。…ああ、積田君。あいつはきっと、今の君みたいな表情に凄く弱いよ」 今度してやるといい、という助言じみた言葉に「気が向いたら」とだけ返して、尚志は店を後にしようとした。中前が心配そうにレジに立っているのを見つけて、小さく微笑む。 「ごめん、中前さん。コーヒー残しちゃって」 「いいんです、そんな事…私も温度間違って入れちゃってましたし」 「へえ、何だか珍しいですね」 流暢に言葉を紡げている尚志の方が珍しいだろうに、そんな風に言われて微笑まれると中前はぷいっとそっぽを向いた。おおよそ店員らしからぬ行動も、今となってはもう何も不自然ではなかった。 「岩住さまの所為です、それは」 「そう?あ、じゃあお代は岩住さんにつけておいてくれないかな」 「え…」 「次、俺が来る時は彼と一緒だと思うんで。…じゃ」 言っておきながら恥ずかしくなったのか若干赤味を増した顔で尚志が言うと、中前はワンテンポ遅れて笑った。 「解りました。…でも、どうやって…」 岩住と接触を図ろうというのか。中前はそれを聞きたかったのだろう。それがすぐに解ったから尚志は全部言われる前に自分の頭を人差し指で突付いて見せた。我ながら恥ずかしいポーズのような気がしたが、少しでも自分に自信を持たなければ今はやっていけないような気がする。 「…あの人なら、きっとまた読んでくれると思ってるんですよ」 今頭の中にある大量の文字と映像を、1つの大きな話に変えて。 ――俺なら、彼に伝えられるはずだ。 そんな自信を、歩く度に踏み締めながら。 |