コペンハーゲンのように霧を含んだ、
06
「そういえば、最近取材の他に他企画からの原稿依頼があったんですよ」 前回と全く同じ喫茶店での打ち合わせで、尚志の担当編集者である三木が思い出した、といった風に言った。 「え。…それ重要なことだったんじゃないですか」 思わずアイスコーヒーを吹きそうになって、慌てて尚志は口元を拭いながら言った。 三木は少しだけ困ったような笑みを浮かべてぽりぽりと後ろ髪を掻く。 「あーーそうですね、そうだったんですけど、編集長と相談して士猶さんはこれ以上連載持ったら大変だろう、って結論になったんですよ」 「俺、〆切破ったことないんですけど…」 「まぁ学生さんですからね」 その言われ様には少しだけカチンと来た。学生だからという理由で勝手にスケジュールを組まれてたまるものか。別に作家一本で食べてるのが正しい作家の在り方だなんて誰も言ってないだろう。 「確かに忙しいですけど…ちなみに、その企画って何なんですか?」 こういう時普段から感情を出していないと得だ。冷静に話し合いができてる気がする。 「あぁ、ライトノベル作家にSFとミステリを書いて欲しいってやつです。社の方でも新ジャンルの小説雑誌を作りたいって動きがあるらしくて。特に士猶辰巳さんに、ということだったんですけど、ねえ?」 ねえ、と首を傾げた三木に尚志は珍しく眉間に皺を寄せた。言わずもがな、尚志には向いてないとでもいわんばかりの口調が気に食わなかったのだ。今日はやけにイラつく。普段だったら、それもまた『そうですか』なんていうお決まりのセリフでやりすごせてしまえたはずだったのに。 そんな尚志の苛立ちには気付きもせず、三木は話を続けた。 「…でも、そういや結構しつこかったんで一応知らせておこうかなと思ったんですよ。編集長が何も言わなかったら多分伝えてましたねえ。てゆーか、士猶さん知ってます?海外班の岩住さんて」 「!!」 一瞬で顔が真っ赤になったのが判った。自分がこんなに一人の人間の名前を聞くだけで反応を示すだなんて本当に信じられない。 三木はカチャン、と音をたててコーヒーカップを置いた。というより、ほぼ落としたような感じだったが、殆ど飲んでしまっていたため中身をこぼすというようなことはなかった。しばらくしてから「うわ、めずらしー…」という三木の言葉が聞こえる。 「その分じゃあ知り合いだったみたいですね。ったく海外班も一体どこで士猶さんを見つけたんだか…あ!士猶さん、今度岩住さんに声掛けられても軽々しく承諾しないでくださいねー」 『士猶さん、売れっ子なんだから』と続けられた言葉はしかし尚志の耳には入ってなかった。 ―― 一体、一体いつからだ!? ―― と、いうか!俺のこと知ってて誘ったのか?! 真夏にも似た、茹るような暑さが支配するコンクリートの上を自転車で思いっきり駆け抜けながら、それでも尚志の頭の中は茹りっぱなしだった。 結局あの後三木のいう事が頭に入らず、どうやらいつも小説を連載してる雑誌で士猶辰巳特集ページがとても好評だから読んでくれとかどうとか、そういうことだけはかろうじて覚えていた。 浮かんでくるのは岩住の顔、声、仕草。 あれら全てが、自分が作家「士猶辰巳」だからこそむけられていたものだったとしたら? 初めてあの店に行った時、彼が近づいてきたのは尚志が作家だったから? いいや、そんな上手い話があるわけがない、と尚志は赤信号を前にして急ブレーキをかける。 頭をぶんぶんと横に振って、大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。 ――絶対に知らない、絶対に俺が「士猶辰巳」だなんてことは知られてない。 「士猶辰巳」だから口説かれてたなんてことは、ない、絶対。 信号は青に変わり、じゃかじゃかと緩い坂道を全力で登る。登りきって下る頃には頭が少しは冷静になっていればいいと望みながら。 ――行き先は、もう、決まっていた。 カランカランッ 「いらっしゃいませ…つ、積田さん?」 勢いよく扉を開けると、いつも柔和な笑みを浮かべる中前も驚いたようだった。当然だろう、自転車をここまで全力疾走させてきたのだ。雨に濡れてた時よりはましかもしれないが、汗だくでこんな店に入ってくる人間はまずいない。 「…こんにちは、中前さん。あのさ、この間岩住さんが来たのっていつ?」 「いつって…」 中前はやや困惑したように手を頬に当てた。そのまま首を傾げる仕草をしつつ、その後方に人が居ることにその時尚志は初めて気がついた。 「やあ、積田くん」 「………岩住、さん………」 ――そんな、まさか こんな夢みたいなことがあっていいものかと思う。尚志は額からつっと伝った汗を拭い、入口にずっと突っ立っているのも失礼だろうと奥の方へ、岩住の居る方へと歩を進める。が、視線だけはずっと岩住から離せずにいた。 岩住も岩住で、尚志から目を離すということはなかった。彼が先程まで座っていたのだろうソファの前に置いてあるソーサーもカップも、初めて会った時と同じだ。 ただ、違うのは。 片手に雑誌を携えているということだけだろうか。 岩住は、尚志の視線がその雑誌に釘付けになったのを知ったのか、ゆっくりと雑誌の背表紙で肩をぽんぽんと叩いた。 「久し振りだね。仕事は終わったの?」 仕事、という言葉がやけに胸を突いた。加えてやけに静かな笑顔を浮かべられ、戸惑う。 「………岩住さんこそ」 「あぁ、俺はね、ついさっき今日の分は終わりにしようと思った所。これでも一生懸命頑張ったんだけど、交渉してもらえなくてね」 「交、渉…?」 「そう。ま、簡単に言えば原稿依頼なんだけどね。…座ったら?」 本当だったら今すぐにでも店を出て行きたかった。だが、自分から岩住の事を聞いた手前、それはできない。 「……」 何をいう事も出来ず、尚志はソファに座った。その様子に満足したのか岩住は薄く笑って、再び深いスチールグレイのソファに腰を下ろす。 「中前君、コーヒーお願い、お任せで」 「は、はい」 いつもと違う岩住の雰囲気に気圧されたのだろうか、中前が接客業のプロらしからぬ慌てたような声をだした。この間から中前の意外な面ばかり見ている。新鮮には違いなかったが、尚志にはそんな所にまで気を回すことは出来なかった。中前がいつもと違う行動をとっているというのなら、それは紛れもなく自分達の所為で、更には尚志の変化から来てるものだといっても過言ではないからだ。 「…積田君、さ」 「……はい」 岩住は前回会ったときの歯切れのいい口調はどこへいったのやら、呼びかけただけで他に何も言わなかった。思わず尚志が返事をすると、酷くゆっくりとした動作で雑誌が2人を隔てるテーブルの上に置かれる。 「こういうライトノベルの雑誌とか、読む?」 「…いえ」 これは事実だ。自分が掲載してる雑誌をくまなく読んでチェックを入れるほど尚志には時間がなかった。 岩住はへえ、と短く言って、別の話題を出そうと口を開く。 「士猶、辰巳って人の特集記事が載ってる」 「……へえ」 ちら、と表紙を一瞥すると、確かに『士猶辰巳総特集・無敵世界観に迫る』なんて文字が躍っていた。いつも世話になっているイラストレーターの、珍しく暖色を多く使った絵が表紙になっている。まだ、あの魔法使いの絵を表紙にされないだけましだったが、それでも尚志には充分脅威だった。 こめかみを最後の汗がつーっと落ちる。シーリングファンの心地よい風ですら体を冷やす原因になった。 「士猶辰巳。しなお、たつみ…しなお…」 「………」 何が言いたいかはもう解ってた。解っていたが、聞きたくなかった。解っているから、聞きたくなかった。 「面白いと思わない?シナオタツミ、って言葉、入れ替えるとツミタナオシになるんだ」 「………」 もう、何の音も口から発することができない。ただ、手を白くなるまで握る。岩住の口から溜息がこぼれた。 「…君だろ?士猶辰巳って」 「……それだけで決めつけるんですか」 かろうじて反論らしきことがいえても、岩住はふっと笑うだけだ。 「士猶辰巳の原稿が入った封筒を偶然見ることができてね。君の字だって思った。ほら、初めて会ったときに名刺代わりに君の名前、書いてもらっただろ?」 「………」 自分の字が綺麗だといわれたことはあっても特徴的だといわれたことのない尚志は面食らった。まさか封筒に書いた宛名が決定打になるとは思わなかったからだ。 生憎仕事柄筆跡を見るのは得意でね、と尚志から目を逸らすことなく岩住はつけたした。その視線から逃げたくて、尚志は視線を横に広がる庭の方へ向ける。 「…俺が士猶辰巳だからって、声を掛けたわけじゃないでしょう」 「おや、認めるんだ?てっきり俺には知られたくないのかと思ってたよ」 「…知られたくはありませんでした」 「……………そう」 岩住はさっきよりも深い溜息をついた。こんなに長く喋っていて岩住が笑わなかったなんて初めてで、その重みから逃げるように尚志は視線を外し続けた。 「…俺は、士猶辰巳が君だからっていう理由だけであそこまで粘れないよ」 「………」 「純粋に、士猶辰巳の文章に動かされたんだ」 「………」 「君も、俺に動かされただろ?」 「………」 確かに動かされた。誘われるがままにバーに入って、口説かれて、ガラにもなくうろたえた。 だが、この動きは果たして岩住のいうものと同じなのだろうか。 その答えが岩住の口からゆっくりと紡がれ始めるのを、尚志は視界におさめた。 「俺が嫌いだからこそ、あそこまで断るなんて暴挙に出られたんだ」 「え…………」 「そうだろう?俺は初めから名前もきっちり明かしたし、編集者だって事も言った。なら俺が始めにアポイントを取ろうとした時に気付いたはずだ」 「……そんな」 彼はアポイントまで取ろうとしてたのか?なのに尚志には何の連絡もなかったのか? あまりの理不尽さに目が眩んだ。 岩住はくっと自嘲げに笑った。 「そんな顔して。自分は悪くないっていいたいのかい?」 「違い、ます…」 「違わないだろ。…俺が馬鹿だったかな、みっともなく君に恋心剥き出しで、君がキスを許してくれたから調子にのって」 「違うって…」 いってるでしょう、なんて言葉を岩住の強い瞳が言わせてくれるはずがなかった。 「…士猶辰巳が俺を拒否するなら、それは積田尚志が俺を拒否したと、そう考えていいんだろう?」 岩住はその言葉を最後に席を立った。 そのままやっぱり何も言わずに帰っていく。 出て行く際に中前がコーヒーを2杯持ってきたが、岩住は軽く手をあげただけで、その表情には何の色もなかった。 尚志は一人、自分が特集されている雑誌を睨みつけながら、コーヒーの匂いが充満してきた店の中に置いていかれた。 ――こんなのは、最悪だ。 |