コペンハーゲンのように霧を含んだ、
05



――事故だと思ってもいいから忘れないでくれ、と岩住は言った。

だが、事故なんてものは皮肉な事にも傷がなくなれば自然と忘れていってしまうもので、覚えていたとしてもそのときの痛みだとか辛さだとか、そういったものを忘れないでいる方が難しいものだ。

だから、あれは決して事故ではないのだ。


――あんな、視界がぼやけるくらいのキス。

忘れられるはずがないのだ。








それでも周囲はめまぐるしく生活を続け、一人ぼんやりと物思いに耽る尚志の悩み相談を買って出るような人間はいなかった。普段からぼーっとしているように見せかけて実はものすごい集中をしているという尚志だから、それを知っている友人や担当編集者はまず「どうしたの?」だなんて訊いてこない。

――あれから、二週間が過ぎた。

〆切がまだあるから、と自分に言い聞かせて、月が変わってからもまだ喫茶店には行っていない。あれほど通っていたというのに薄情なものだ、と尚志は一人自嘲した。

――仕方ない、行く理由がない。

理由がなければ喫茶店に行ってはいけないというわけではない、それは解っていた。ならばなぜここまで頑なに行かなくていい理由を探そうとしているのか。
パソコンの前に向かう気にもなれず、ベッドにごろりと横になる。そのまま、あーとかうーとか妙な声を出して唸りながらごろごろと数度寝返りを打った。
なんて無駄な時間だろう。何に集中するのもできなくて、ただ気付けばあのときの事を考えてしまう。考えたくないのに、なるべく思い出したくないのに。

――これは、やはり、向き合うしかないのか。

思い出そうとしなくても、忘れていない限りは不意をついてよみがえってきてしまうあのキスを。
感覚を思い出しては何にも集中できなくなってしまうこの頭を。
どうにかするためには、やっぱりきっちり考えなくてはならないのだろうか。
そこまで考えた後、尚志はぐだぐだと起き上がった後、いつもネタ出しに使うメモ帳と気に入っているボールペンと自転車の鍵を取って、外出日和の夏空の下に出ようとドアノブを握った。









「いらっしゃいませ。あら、積田さん。おひさしぶりですね」
天気のせいか、カランカラン、と以前よりも随分と乾いた音を立てて店に入れば、古いレジの前で何やら書き物をしていた中前がぱっと顔を上げて柔らかな笑みを浮かべる。
「こんにちは…」
「あら、どうしたんですか?」
「あ、いや。二度目なのに顔を覚えててくれるなんて、何だか凄くて」
同い年かちょっと年上くらいに見える中前に敬語を使う気にはなれず、しかし何だか気まずくて言葉をきっちり終わらせられない。中前はそんな尚志の様子にただ微笑みだけを返した。
「岩住さまがいつもお話してましたしね。それに私一度来られたお客さんの事は忘れないんです」
「へえ」
接客のプロのようなことを言う、と尚志が感心すると、中前は言いすぎたかしら、と恥ずかしそうに笑った。
「今コーヒー淹れてきますね、お好きな所にお座り下さい」
「ああ、はい。……」
中前が奥の部屋に消えていくのを見た後、尚志はしばし逡巡した後結局前と同じ所に座ることにした。
ゆったりと身をソファに沈め、ほうっと一息ついた後に周りを見やる。

――しかし、本当に昼と夜で随分と雰囲気が変わるんだな。

中庭に向って嵌め込まれている窓からは夏の陽光が直接は入ってこないものの、自然の鮮やかな光を届けている。窓の外に広がる中庭では、梅雨を終えて元気を取り戻した薔薇や色色な花が溢れんばかりに咲いていた。その脇にいまは点灯していないが小さなライトが取り付けられていることに気付く。バーをやっている間はパーテーションでこっちへの道は閉ざされていたが、もしかしたら中庭に出る通路はあるのかもしれない。ライトアップされた中庭もなかなか見ごたえがあるのだろうな、などとぼんやり考える。

「お待たせいたしました」
「……」
「積田さん?」
「…あ、ああ。ありがとうございます」

名前を呼ばれて、弾かれるように脳内に届けられる映像は中庭から店内へ移された。見開いた目とは裏腹なぼんやりとした口調に、中前はくすり、とおかしそうに笑う。
その柔らかな表情の変化に、自分は彼女には受け入れられているんだ、と不意に思った。

――俺もこれくらい微笑んだり、話にいい相槌を打てたりしたら、あの人ももっと自信を持って、楽しそうに会話を続けてくれたのだろうか。

次の、約束を、してくれたのだろうか。


「…お飲みになられないんですか?」
「……………あ」
じっと中前を見詰めて考え事をしていたらしく、ふと我に帰った途端目が合ってた事に気付き尚志は大いに慌てた。
「の、飲みます。すみません何か、もう、最近ぼーっとしてて」
しどろもどろの言い訳をして、コーヒーを1口飲む。真夏にも関わらず室内の気温の所為かホットコーヒーの温かさは体にちょうどよかった。
少しだけ、頭が落ち着いてくる。

――もし、だなんて考えても無駄か。
どっちにせよ自分を変えてまで彼と仲良くしようとする気はなかったのだから。

ふう、と一息をついた。黒い液体と一緒に自分の中のもやもやも、一瞬だけストンと落ちた気がする。
自分の態度に反省したって、「もしも」を考えたってどうしようもないのだ。
口説かれて、キスされて、でも後の約束はなかった。
ただそれだけ、だ。

「…積田さんって」
「え、あ、はい」
ずっと立っていたのだろうか中前が首を傾げながら言葉を紡ぐ。カップを両手で持つようにしてソーサーの上に置いて、話を聞く姿勢を作った。
「積田さんって、凄く隙がありそうに見えて、そうじゃないって感じがしてたんですけれど。その実隙を突かれても気付かないだけなんですね」
「え…」
「内に集中する癖、ありますものね」
「ああ、はい、それはあります…けど」
いきなりそんな事を言われて戸惑う。それは、中前が見た目に似合わず歯に衣着せぬ物言いをしているからではなく、言われている事が全くもって図星だったからだ。
あまりそういった所まで見抜かれたことのない尚志は、心臓の動悸が酷くなっていくのを感じた。
「だから、隙を突かれて惑うような事を言われて、子供みたいにぐちゃぐちゃしてるんですよ」
「…………そんなに解りやすいですか、俺」
項垂れながら訊けば、中前は「傷つけようとしていったんじゃないんです」と慌てたように首を振った。
「ただ私、悔しくて」
「は?」
予想だにしない言葉のオンパレードに、尚志は思わず頓狂な声をあげてしまった。言った後に恥ずかしくなってきてコーヒーを飲んでやりすごそうとする。
そんな尚志にはお構いなしに中前は続けた。
「だって積田さん一度しかお昼にいらっしゃらなかったでしょう?なのに岩住さんたらあれからも何度か来ては必ずといって良いほど積田さんの話をするんです。あっちだって二度しか会ってないっていうのに、もう。」
「…うそ、でしょう?」
「嘘なものですか。あ、でも岩住さん、積田さんのお話はしても何をしたかとかどうだったとかそういう生々しい話はしないんですよ」
何も聞いてないから安心してください、といわんばかりの口調に尚志は「へぇ…」と適当な返しをするしかできなかった。
「それに、積田さんは積田さんであれ以来一度も来てくださりませんし。絶対何かあると思ってはいたんですけど…。今日いらしても前よりももっと物思いに耽ってらして、これじゃまるで女の子の恋煩い、って思っちゃったらいても立ってもいられなくて。接客業失格ですね、私」
「…いや、失格とかそういう所じゃなくて…」

――女の子の恋煩い、ってなんだ。

尚志は頭の中が再びぐちゃぐちゃしてきた気がした。でも、それはそれで一番的を得ている言葉な気もして、ついつい先日受講した性と文学の授業の内容まで思い出してしまう。純文学とかによくある、あれ。

――恋、恋なのか、これ。

小学校以来、人を自分から好きになった事がない尚志にとって、この言葉はまるで鳩尾に鉛を落としたようだった。
ぐい、と中前の話の所為で温くなってしまったコーヒーをあおるように飲む。

「積田さん?」
心配そうにこっちを見てくる中前の瞳があまりにも可愛くて、体の真ん中に鉛を抱えたまま尚志は思わず笑ってしまった。
――しっかり女の子な中前さんに言われちゃったな。
「…なんでも無いです。中前さんの印象がガラっと変わっただけで」

そんなことをつい口走ってしまったら、中前は一瞬きょとんとした後花が綻ぶように微笑んだ。

――ああ、でも


やっぱりこれくらい微笑む事が出来たなら、きっと次の約束だってできただろう。


いくら岩住が自分を気に入ってくれていたとしても、次に会える確証がないのならば、諦められても仕方がない。


結局思考がそこに戻ってしまって、それから先はやっぱりぼんやりと庭を眺めることくらいしか出来なかった。