コペンハーゲンのように霧を含んだ、
04

…しかし、そんな尚志の変化に気がついたのはバーテンダーの常だけだった。元から薄暗い店内で、人の顔色の変化に気付くには、眼がよほど慣れていなければまずない。
「積田さん?」
「……え、あ」
「兄さん、指離す」
「はいよ」
ちっと冗談めかして舌をならした岩住は、やはり尚志の表情の変化には気がつかなかったようだ。もしくは気がついていても、そうじゃないフリをしたのかもしれない。だが、そんなこと尚志にはどうだってよかった。

――編集者だって?

つい、ついこの間岩住をモデルにしたキャラクターを出したばかりだ。ここでもし自分が小説を書いていることが知れ、更にはまだ1度しか会ってなかった時にモデルにしただなんてことがばれたら?尚志は無表情ながらぐるぐると思考を回転させた。
「まぁ、俺の担当は海外ミステリとかなんだけどね。本屋にはよく並んでるとは思うけど、積田君みたいな子はあまり手に取らないんじゃないかな」
「………はぁ」
こういうとき、つねに気のないような返事をしていると、本当に気のないときに誤魔化せるのでよかった、と尚志は見当違いの事を考える。そうでもしないと冷や汗が出てきそうだった。黙ってシャーリー・テンプルを飲み干す。

――そもそも、なんでこんなに気にしているのだろう、小説を書いていることがばれるのが。そんなに馬鹿にされるのが嫌なのだろうか。ばれてその本を読まれることが恥ずかしいのだろうか。確かにそれは恥ずかしい、だが何で岩住に読まれる、ということを考えるとこんなにいたたまれない気持ちになるのだろうか。自分よりも男らしくてかっこいい岩住にコンプレックスを刺激されてるから?そんなコンプレックスなら体育会系の友人達を見ても思うはずだ。それに尚志は、別段自分の細い体躯が嫌いなわけではなかった。自分の作品を恥じているわけでもない。大学の友人には本の事を聞かれれば普通に答えていた。変なものを書いている、という思いはない。ないはずだ。なのに…

「…疲れた?」
「え」
答えのない自問に終止符を打つかのように、岩住が問いかけてきた。顔を向ければ、岩住の苦笑交じりの優しい瞳にいきあたる。
「ストレスを溜めたい、と思って誘ったわけじゃないんだけどさ。どうにも気乗りがしてないみたいだから。…それとも、それが普通なのかな」
「そんなことは…」
ある。ストレスとは思っていないが、今はボロを出さないためにもなるべく会話は慎みたかった。かといって今席を立ったのでは失礼だし、何より怪しがられるだろう。それだけは避けたかった。
「そう?…あー、何か上手く行かないな」
「そうですね」
珍しく同意を示した尚志に、岩住は少々不機嫌な顔を向けた。尚志は気付かないフリをしてもう一杯バーテンダーに頼む。
「やっぱりそう思う?何が悪いかな、俺かっこつけすぎた?」
「岩住さんは、元から格好いいと思いますけど」
編集だったらどこをどう直せば向上するのか位自分で考えてほしい、が、そんなことを尚志が口に出せるわけもなかった。
「はは、有難う。…積田君もきれいな顔してると思うよ」
「…?…そうですか?」
「ああ、昼より夜のほうがずっときれいだ」
「…前会った時は濡れ鼠みたいなもんでしたから」
岩住の視線から逃げるように新しく貰ったグラスに口をつけた。炭酸で気を取り直そうとするが、岩住の優しい声音についつい引き込まれるようになってしまう。

――何だか、この人の方がよっぽど作家みたいだ。

さっきは余裕ぶって人の唇になんか触ってきたのに、すぐに自信をなくしたかのように『上手く行かない』などという。かと思えば尚志をまるで口説くかのように「きれい」だとか言い出してとりとめがない。尚志も割と突拍子のない事を言ったりするが、それにしたって岩住のは前置きがなさすぎる気がする。
自分が彼をそうしているのかもしれない、なんて考えにはまるで行き着かない尚志は、いつものぼーっとした目で岩住を見た。
「…積田君」
「……なんですか」
眼鏡の奥の岩住の目が優しいようで強くこっちを見ている。視線が外せなくて尚志は1度だけ瞬いた。目だけじゃない、声もだ。
岩住は、トン、と人差し指をカウンターの上で叩いた。まるでこれから手品か魔法かが始まるかのように。
「…それでもさ、君に見られるといい雰囲気になるなあって俺は思うんだけど…」
「…?…そ、」
――それは、岩住さんの方じゃないのか。
言おうとして、言えなかった。
開いた唇に、唇を重ねられたからだ。

「……」
しっとりとアルコールを含んだその口付けを、無視することはできなかった。
ただ岩住を凝視する。
「…積田君、酔ってる?」
「…醒めました。岩住さんこそ」
「ああ、俺?俺は酔ってるよ、もうずっと、君に」
「はあ」
「何かな、こういう出会いもアリかなって思ってるんだが…どう?」
「どうって、言われても…」
こういう時、彼女がいれば断る種にもなったのだろう。というか、付き合いを希望するとはっきりいわれていないのだから答えようがない。
出会い方は人それぞれ日々それぞれだ。それを大切に思うか思わないかで全然変わってくると尚志は思う。前回の出会いは悪くはなかった。今日ここに来ようと思えただけ、いい出会いではなかっただろうか。
それに、岩住に見つめられるのは悪くなかった。この間全く視線を交わされなかったのが大分堪えていたらしい。人の視線を気にするだなんて、今までの尚志だったら考えにくいことだ。
しかし、この沈黙をネガティブにとったのか、岩住は小さくため息をついた。
「…やっぱり性急だったかな」
「…雰囲気は、悪くなかったとおもいます」
「そう?」
「はい。すぐに諦めるのはいけませんよ。…弱音を、吐くのも」
いくら岩住の言葉がとりとめがなくて脈絡がなかったとしても、彼の弱音は心に苦しい。基本的にそういう事を言われても、聞くしか脳のない尚志にはどう反応していいのか解らないから困るという部分もあるが。
「…まるで編集者みたいだなぁ」
「え」
くっ、と喉の奥で笑うのがわかった。ああ、これは小説に使える、と尚志は今この場に全く関係ない事を考える。
「期待を持たせてくれちゃっていいの?」
「まあ…そうですね、失望されるよりは」
「そうか、そーだよなあ」
「はい」
「さっきのキス、忘れないでね」
事故だと思っても良いから、と岩住が言った。そんなことを言うのだったら、全ての出会いは事故じゃないのかと尚志は思ったが言わなかった。
ただ、何故だか霧が掛かったように岩住が霞んで見えた。
そしてそれは、有耶無耶のままに店から出て、岩住と別れるまで続いていた。