コペンハーゲンのように霧を含んだ、
03
「士猶(しなお)さん、今回の新キャラはいいですねー!久々の美男子系じゃないですか」
「はあ…」
出版社の近くの喫茶店で、尚志は向かい側でこれからの締め切りの説明をする担当編集者の話を聞き流していた。
士猶、というのは尚志のPNの一部だ。フルネームは士猶辰巳、しなおたつみ。解る人には解られてしまうかもしれないが、本名「つみたなおし」の字を入れ換えて適当な漢字をあてただけだった。
尚志はあまり外で打ち合わせをするのが好きではなかった。できれば全部電話とFAXでことを済ませて欲しいくらいだ。何のために家の電話をFAXつきにしたのだろう、と尚志が溜息をつくと、担当編集者が心配そうに顔を覗いてきた。
「士猶さん?大丈夫ですか?」
「ええ、はい、まあ…」
「ならいいんですけど。そちらの試験スケジュールに合わせて、こっちも夏に向けてキツめに組んでますから。体だけは壊さないで下さいね売れっ子さん」
「俺、売れてませんよ」
小さく言って、氷もすっかり溶けてしまったアイスコーヒーを飲めば、編集者の三木はあーあ、と大げさに肩をすくめて見せた。
「解ってませんね。今度雑誌の取材でも受けて見ますか、そしたら少しは自分の人気に気づけますよ」
「それだけは、駄目です」
三木の意図がさっぱりよめなかった尚志は、アイスコーヒーをストローが音を出すまで一気に吸った。

――ここのアイスコーヒーは、いま二つ、だな。





編集の三木に太鼓判を押されたキャラクターは、片眼鏡を掛け飄々としている魔法使い――ちなみに使い魔は蛇――であった。いわずもがなそれは先日会った岩住をモデルにしてあるもので、褒められるとまるでカンニングを咎められた小学生のように肩身の狭い思いになってしまう。別にやましいことをしているという気はないのだが、特に素性を知らない人間をモデルにしたというのは何だか個人的に良心が痛んだ。
「…金曜の夜、か」
この間、岩住に言われた言葉を反芻しながら、尚志は地下鉄に乗った。
初めは行く気などなかった。酒には強くも弱くもないが、特に呑むことが楽しいとも思えず、それが原因で大学のサークルには一切入っていなかった。それでも友人が出来たのは、ひとえに高校時代の友人が何人か入学していたからだ。活動的な友人達に誘われて、色々と深い交流もした。彼女もできたりしたが、どうしてもどこか合わなくて、愛想を尽かされたり自分から別れを口にしたときもあった。
でもそれも、ここ数ヶ月の進路の相違で、すっかり縁遠くなってしまった。友人達からいわせればそれはきっと「尚志の方が俺たちとの付き合いを拒否ってる」ということになるのだろう。だが、尚志は拒否というよりは遠慮をしていると思っていたので、どうにもそういった感覚の「ズレ」も、段々嫌になってきてはいた。
基本的に、尚志は人間関係に重きを置いた生活を送ろうとは思っていない。働かずに院に行こうと思ったのも、もう少し自分の中にこもっていたいという気持ちがあったからと言えなくもない。勿論知識を仕入れるのは好きだが、それを人間関係や日々に生かそうという気は毛頭なかった。あって、小説のネタくらいなものだ。それも現代風ファンタジーとかいう分野では、自分が仕入れる文系科目の知識では精神論とか哲学とか、そういう講義のちょっとした一言だとかそういうものしか使えないのだが。
「…別に俺は、贖罪の為に行くんじゃないぞ」
そう、最寄り駅で降りて自転車を走らせながら呟く。今日は金曜日、夜の予定は岩住に言われたもの以外、ない。土曜も日曜も大学の図書館で資料をみる以外は何も用事が、ない。普段からあるほうがおかしいのだが、まあそんな感じだ。締め切り前に原稿も仕上げてしまっているので何も問題はない。
「…断わる理由が、ないし」
緩やかな坂を上れば家につく。街路樹が夕日を反射して色を変えている。いつもならこんな日は、景色の綺麗さに幸せな気分になっただろう。フランスの詩でも思い出しながら、気持ちよく家に帰れただろう。
だが、こんな綺麗な景色の中でも言い訳しか考えられないのかと、尚志は溜息をついただけだった。







「…お」
カラン、とドアを開けた途端に、尚志は聞き覚えのある声を耳にして溜息をついた。
「いらっしゃいませ」「いらっしゃい積田君」
バーテンダーと岩住にほぼステレオ感覚で同時に歓迎の言葉を貰った尚志は、やっぱり来てしまったことを後悔していた。
「あれ、浮かない顔してどうしたの?試験でもあった?」
「別に…待ってて頂けるとは思わず」
「何言ってんの、俺から誘ったんだから俺が先に居て当然でしょ」
そう言いながら、岩住はおいでおいで、と尚志に向かって手招きしてきた。もうできあがっているのか、それともこれが素面なのか、と尚志は内心頭を抱えながらもカウンターに座る岩住の隣に腰掛けた。
以前、喫茶店だったときのここに入った時、確かに端っこにカウンターのようなスペースがあることには気づいていた。だが、そこが夜には立派なバーカウンターになっていようとは。ちなみに、カフェスペースはシックなパーテーションと観葉植物に邪魔をされて覗くことさえかなわなかった。
バーだとかそういう所に出入りした経験のない尚志にとって、このシックなバーカウンターと落ち着いたバーテンダーの仕草に眉根を寄せた。
それを、岩住はどうやら勘違いしたらしい。
「…積田君、そんなに来たくなかった?」
「え、いや…来たくなかったら来ませんでしたし」
「嬉しい事言ってくれるね」
「はあ」
「何飲む?」
「何でも…強くなきゃ、特には」
「ああそう。じゃ、初めは弱くいってみようか。シャーリー・テンプルを」
「はい」
最後の一言はバーテンダーだ。どうやらバーテンダーと岩住は仲がいいらしい。常連なのか、それとも岩住が店に来る前からの知り合いなのか。…尚志にはどうでもよかったが、とにかく岩住が饒舌で積極的なのにいたく驚いた。前回も前回で積極的かつお喋りではあったのだが、なんというか、覇気が違う、と言う感じだった。
もしかしてこの人は夜型人間て奴なんだろうか、と溜息をついたところで、バーテンダーの綺麗な長い指先が先ほど岩住が適当に頼んだカクテルをカウンターに置いた。
「どうぞ」
「あ、どうも。……」
――何だか随分似た指をしてる。
綺麗さでいったら断然バーテンダーの方が上なのだが、長さと細さがよく似ている。促されるままに岩住と乾杯をしながらも、尚志は岩住とバーテンダーの指を見比べる事を止めなかった。
「…つーみた君。また何に集中してんだ今度は」
「へ」
「今気づいたみたいな顔して。せめて一緒に飲んでるとき位はこっち見ててほしいもんだけどな」
「はあ」
さっきまで眉間に皺をよせかねん勢いで言ってた岩住だったが、尚志のその気の抜けた返事を聞いた途端にくつくつと笑いを漏らした。なんだかやるせなくって尚志はグラスに口をつけた。ジンジャーエールの甘味が口の中に広がる。名子役の名前だけはあるなと、頭の中でぼーっとその子役のクルクルした髪を思い出す。
「相変わらず気のない返事だねえ」
「…や、指が気になって」
「指?」
ふ、と岩住が笑うのを止めて、グラスを持っていないほうの手を広げて見せた。尚志は頷く。
「そう、指です」
「何でまた」
岩住は驚いているようだったが、言葉端には好奇心がにじみ出ていた。尚志はまた一口金色の飲み物を飲んでから口を開く。
「…バーテンダーさんと岩住さんの指、似てるなぁと思って」
「…………」
あんぐり、とまではいかないが、岩住は開いた口が塞がらなかった。
「やっぱり失礼でしたね」
「いえ、積田さんの目は鋭いですよ」
と、思っても居なかった所から声がして尚志は顔を動かす。声の主はバーテンダーで、淀みない手の動きはそのままでにっこり笑った。決して色気のある容姿ではなく、どちらかというと爽やかなタイプなのだが、薄い唇がなんだか少し妖しい、切れ者な印象を与える人だ。
「…と、いうと」
「貴方を此処に呼んだ人は僕の兄なんです」
「え」
さらり、と声のトーンを変えることなくバーテンダーは事実を告げたが、その表情はおかしそうに笑っている。
「……その観察眼で見破られるかと思ったけど…まさか指先で解られるとは」
そんな弟とはうって変わって、岩住は苦虫を噛み潰すような表情で言った後チッと舌打ちをした。
「兄さん柄が悪いよ、積田さんがびっくりするだろ」
「俺は別に…」
「だってさー俺の作戦がさー…ま、いいか。流石の集中力だ、積田君」
それでこそ俺が見込んだ男、だとか何とか適当な事を言っているが、隣の席の岩住は全く酔った風には見えない。もしかしたらこっちが本当の性格なのかも、やっぱり夜型か、と尚志が思ったところで、隣から長い指が尚志の肩をがしっと掴んで引っ張ってきた。
「正直な話。常(じょう)の方が指は綺麗だろ?」
岩住に耳打ちされるように問われる。別に否定する必要はないと思ったので尚志は首を縦に動かした。それに、何故か岩住は満足げに口角をあげて笑む。
「仕事柄やっぱり綺麗な指っていいよな。俺は一族の血を誇りに思うよ」
「…岩住さんも指が長くて格好いい手だと思いますけど。…何の仕事をしてるんですか?」
確かに客商売をするのなら容姿は指先であっても整っていたほうがいい。だが、岩住の指の感じは何だか客商売のそれとは異なる気がする。
「はは、有難う。俺の仕事?興味ある?」
岩住はそう悪戯っぽく顔と指を近づけてきた。
「…はい」
「……なんだと思う?」
人差し指がすっと尚志の下唇を撫でた。
突然の事に思わず目を数度瞬きした尚志は、目の前で楽しそうに笑んでいる岩住をじっと見つめる。岩住の指は、尚志の唇の真ん中でとまったままだ。
「な、憶測でいいから言ってみて?」
「……外科医?」
「ブー、外れ」
外したのが嬉しかったのか、岩住はにやっと笑った。そして人差し指と中指で、今度は上唇をすっとなぞる。
「…まさか、当てるまで指を外さないって事は…」
言いながら、尚志は必死に岩住の男らしいのに長い指を口で挟まないようにした。
「ああ、それもいいなあ。…でも、積田君の困った顔ずっと見てたくて今日呼んだ訳じゃないからな。教えるよ」
言い終わると同時に岩住の指が唇から離された。尚志は思わずほっと吐く。
「俺の指は完全オフィスワーク向け。…編集者やってんだ実は」
「………」

その言葉を聞いた瞬間、尚志の顔色はカーテンをひいたようにサっと白くなったのだった。