コペンハーゲンのように霧を含んだ、
02
カラカラン、とさっきより幾分か湿った音を鳴らして、尚志は店の中に入っていった。中に入るとともに、コーヒー豆のかすかな匂いと、何かの花の匂いがした。雨の匂いのせいか、その香りは幾分湿ってはいたが。だが、コーヒーの匂いで尚志は少しほっとした。少なくとも喫茶店のような所であるのは間違いないらしい。 外からぱっと見ただけではわからなかったが、随分と天井が高く、上にはシャンデリアといっていいものかわからないくらいにシンプルな灯り(しかも今はついてない)と、天井扇…シーリングファンがゆっくりと回っていた。それだけでこんなに涼しいわけはないから、きっとどこかからエアコンがきいているのだろう。 ふっとそこら辺だけを見ると、中に人は一人も居ないようだった。 「いらっしゃいませ」 すっかり内装に目を奪われていた尚志は、その一言で正面に店員が立っているのに気付いた。女性か男性かわかりかねるトーンの声は、しかし外見からいって女性のようだった。深い緑のワンピースに、黒い髪を後ろに三つ編みにしている。 「あら、初めてのお客さんですね。雨宿りですか?」 そう、親しげに話してくる様子は、どうにも普通の喫茶店と違うようだ。 「…はい、そんな所です。散歩していたら一雨きてしまって」 思わずのせられてするっと言葉がでてきてしまう。店員は声を立てずに笑った。 「そうですか。ではどうぞゆっくりしていってくださいね。お好きな席にお座り下さい。」 「どうも」 店員は水でもとりにいくのか、尚志の言葉を聞いてすぐに奥にいってしまった。尚志の方はこれ幸いと、席を探しながら内装をじっと見ることにした。 ――随分、しっかりした調度品だな。 先日大学でイギリス形式美を学んだからだろうか、英国的雰囲気を探してしまう。少し外に出た窓、深い緑か臙脂色で整えられた一人掛けのソファ達。壁は白というよりは生成りで、それが全体の暗い色合いを暖かく落ち着けていた。今は使われていない暖炉が奥にあり、脇には洋書が並んでいる。さっき窓から見えたのもこの一角だったのだろう。特に何も書かれていないのは、自由に読んでいいということなのだろうか。本棚に並ぶ洋書のタイトルを見る限り純文学らしい。 ちょっと立ち止まって選んだりもしてみたかったが、いつまでも座らないのは流石におかしいかな、と思って大きな窓がある、少し明るい所に腰を落ち着けることにした。うまく角度をとってあるのか、席全体から入口の様子はわからないようになっていた。 ふと窓の外を見る。どうやら中庭らしい。さっき入り口にあったのと同じ色の薔薇がある。あとは名前はわからないが色んな花が咲いていて、いくつかはこの雨で軒下に入れられているようだった。庭の中心には古い池なのか噴水なのかよくわからないものがあって、その向こうには今尚志がいる店と全く同じ色の壁と屋根を持つ建物があった。あそこはきっとこの店の経営者の家なのだろう、そう簡単に見切りをつけたところで、コーヒーのいい匂いがしてきたのに気がついた。 「あ」 「お花、お好きなんですか?」 足音もなく――単に足音に気づかなかっただけなのかもしれないが――店員が横に立ってそうきいてくる。手に持つトレイの上にはコーヒーカップとソーサーが乗っていた。 「いえ。噴水があるのが面白いなと思って。申し訳ないんですが、花はさっぱりで」 「男の人で花に詳しすぎたらおもしろいですよね。と、コーヒーで御座います。」 絶える事のなさそうな笑顔でそう言われ、テーブルの上にコーヒーを置かれる。注文もしていないのに、とコーヒーと店員を見比べると、店員は笑みを深くした。 「コーヒーの方がお好きだと思って。でも匂いに厳しい方かな、と思いましたので。入ってらした時にコーヒーの匂いに気づかれた位ですから」 「はあ…そんなに解りやすかったですか、俺」 女性に自分について説明されることほど情けないこともない、と尚志は小さく溜息をついた。解りやすいということは別に悪い事ではないのだろうと思うが、つっこまれるのは苦手だった。 「すみません。でもコーヒーがお好きな方が来てくださるのが嬉しくて。このコーヒー、銘柄解ります?」 「香りだけだと…」 確かにここ数ヶ月の喫茶店周りで大分コーヒーには詳しくなったが、基本的にコーヒーを楽しむというよりは気分転換の意味合いの方が強かったから、香りにまでは固執していない。 確かにいい香りだ。店員が話を続けていた所を見ると、そんなにすぐぬるくなるといったものでもないのかもしれない。 「モカハラーロングベリー」 一口飲んでみようか、それとも店員の答えを待つか、といった時に、天井から声が届いて尚志はバッと顔をあげた。 「ご名答です、岩住さま」 声の主は岩住、と言うらしい。そして、天井から聞えたと思った声はロフトのようになっている中二階からきたものだった。ちょっと目を凝らさなければ解らないような空間はプライベートスペースなのだろうか。 「あまり悪戯しないでコーヒー飲ませてあげなさいよ、中前君。俺の時はてんでノーコメントだったくせにさ」 くっくっと笑いながら階段を下りてきた男性は、尚志よりも5歳以上年上に見えた。話から察するにこの店員は中前さんと言うらしい。 「そうですね、では私は失礼いたします。ごゆっくり」 かすかに悪戯を咎められた子供がごまかすように楽しげな笑顔を浮かべた後、中前は尚志に向かって丁寧にお辞儀をして店の奥へと消えていった。 「いやはや、気に入られちゃったね君」 「…どうも」 「向かいの席いい?」 「どうぞ」 「有難う。…飲まないの?」 「あ」 急に現れた第二の人物の登場に気取られていて、すっかり良い香りを演出してくれていたコーヒーの事を忘れてしまっていた。こういうとき、集中力のよさはアダとなる。 確かにちょっと特徴のある匂いだった。だが、この匂いは果たしてしっかりとロフトまで届いていたのだろうか。 一口飲んで、その甘みに目を細めた。 「あれ、気に入らなかった?」 まるで店員のような口ぶりの男…岩住に、尚志は少し慌てて首を横に振った。 「逆です、その。甘いのは匂いだけかなと思っていたので」 「ああ、成程ね。中前君の洞察力も凄いなあ」 はは、と笑う岩住を横目に、尚志はコーヒーの味を楽しむことにした。人が向かいにいる状態では何のノートも開けやしない。 ――それにこんな人が前にいたら、と尚志は目の前の男にちら、とだけ視線を注いだ。 さっき見ただけで尚志が受けた印象といえば、岩住は所謂長身痩躯の仕事ができそうないい男、という感じだった。首を隠さないさっぱりとした黒髪と深緑の細いフレーム、インテリだけど運動もしてそうな、そんなイメージを与えるしっかりした肩と筋肉がそれとなくついた腕。 そこまで尚志が集中して見てしまうのは、今連載中のライトノベルに出したい男性キャラの外見がしっかり決まっていなかったからかもしれない。 尚志の観察ぶりに気づいているのか気づいていないのか、岩住は何やら書類のようなものを手にとって読み始めていた。その指が長くて何だか外科医っぽい感じがした。 ――もしくは魔法使いだな。 キャラの補充になるかもしれない、と尚志は頭の中でメモをとった。これで岩住がスーツ姿で書類を捲っていようものなら、もっと仮定職業も変わっただろうに。 「君、さっきぼーっと道を歩いていたろ」 「え」 「見てたんだ」 「……」 岩住がちら、と書類越しに尚志を見る。眼鏡で幾分その眼光は緩和されているものの、じっと至近距離で見つめられたら時と場合によっては背筋が凍るかもしれないほどだった。 ――使い魔は、そうだな、蛇。 彼が座る際に一緒に持ってきていたコーヒーカップとソーサーに描かれているグリフィンを見ながらそう思う。自分の白地に青のシンプルな筆遣いで草花の模様が描かれたカップとは違い、彼の物はセージグリーンにグリフィンと花、しかも金色の縁取りまでしてあった。 常連なのだろうか、そこまで思った時に岩住が何度か声を掛けていることに気がついた。 「…え、すみません、何か言いました?」 「何回か、ね」 「すみません、結構俺、ぼーっとするタイプみたいで」 言い訳じみた事をいって誤魔化そうと思っていたのだが、この手の男というものはいやに的確らしく、口の端をあげて笑ってから言葉をついだ。 「ぼーっとするよりは集中してた、て感じだったな。」 「…そうですか?」 「うん、そうだった。…君、名前は?俺は岩住、謙。岩石に居住する上杉謙信」 一瞬名前の書き方を言われているのだと気づかなかった。 「……積田です。積田尚志」 流石に向こうがフルネームを名乗ってくれたのにこちらが苗字だけではまずいなと思い、尚志もきちんと名前を告げた。その返答に満足したのか岩住は頷いて、それから「漢字は?」と聞いてきた。さっきから聞かれまくりで少し気分が悪い。だが、さっきまで散々岩住の事を脳内でキャラに置き換えようとしていたのだから(それに話しかけられてたのに聞いてなかったし)、ここは五分といったところだろう。 尚志はジーンズの後ろポケットに入れていたメモ帳とボールペンを取り出して、紙にさらっと名前を書き付けて見せた。 「学生だから名刺なんてもってなくて」 付け足すように言って岩住の方を見れば、岩住は「綺麗な字だな」といって感心なんかしていた。正直男の字が綺麗でもプラスに働くという事は少なそうなのだが。 「有難う。あ、俺の名刺いる?」 「いいえ」 「そう」 一連の質問が去って、やや温くなったコーヒーを飲む。甘味と酸味が同じ位強くなっていた。まるで匂いが液体の中に閉じ込められてしまっているようで、なんだか勿体無いような気もした。 「お代わりはいかがですか?」 と、そんな尚志の心を見透かしたように中前が声を掛ける。 「あ、お願いします」 「中前君俺も俺も。キリマンジャロね」 「はい、かしこまりました」 ちょっと遠くで頭を下げる中前が見えた。そしてすぐまたその姿を店のの奥へ消す。 「随分気に入られたみたいだな、積田君は」 「え」 「さっきから『え』が多いなぁ。まあいいけど。そんなにここ緊張する?」 「いえ、それは全然。変な感嘆詞が多いのは俺の癖みたいなもので」 その言葉を聞くやいなや岩住はくくっと笑った。 「…なんですか、急に」 「いや、何か君の外見で感嘆詞がどうの、ていうのが面白くて。積田君てC大生?ここの近くの」 「ええ、まあ」 「だからかあ。まあ中途半端な大学生だったらこんな所にこないだろうしね」 「中途半端な社会人が何を言ってるんですか。お待たせいたしました、コーヒーです。」 本当にいいタイミングで中前はやってくる。どこかにカメラでもあるのかな、と尚志は思う。 「酷いなあ中前君は。俺なんてこんな所にまで仕事もってきてやってるっていうのに」 「平日のこんな時間に仕事も持たずにいらっしゃられては困りますから。積田さま、今度は熱いうちにいただいてくださいまし」 「ありがとうございます」 にこり、と笑うとき中前のサイドに流した前髪がゆれる。それが何だか気になって、中前が奥に消えるまでその姿を眺めていた尚志に、その存在を誇示するかのように岩住はため息をついた。 「…おつかれですか」 「いいや、あー、うん、疲れたよ」 「どっちなんですか」 「別に。あーあ、完全に今日は中前君にとられちゃったなあ」 「へ」 さっきよりもさらに深いため息を混ぜて、岩住はソファの背に思い切り体を沈めて腕を組んだ。これ幸い、とばかりに尚志は新しくいれられたコーヒーを口にする。やっぱりいれたてのほうが美味しい。しかしほっとしたのも束の間、すぐに岩住は姿勢を戻して眼鏡をかけなおした。 「ま、いいか。なあ積田君、君もう20過ぎてるでしょ?ここさ、夜9時からはバーになるんだよ。よく聞くでしょ、隠れ家とかって。ここもそんな感じなんだけどさ」 「はあ…人来るんですか、こんな所」 「立地が立地だからこれが意外に有名人とかが来たりしてるんだな。で、今日会ったのも何かの縁ということで。今度一緒にのまない?」 「………中前さんは」 その言葉を聞くなり岩住ははぁぁぁ、と大げさなため息をついた。が、その後すぐににやり、と笑みを浮かべる。 「残念、彼女はカフェ時間にしかいないんだな」 「…俺、夜は仕事の時間って決めてるんで」 言った後、尚志はしまった、と思った。こんな、中前さんには中途半端な社会人だなんて言われていたが仕事のできそうな人に「小説かいてます」だなんて口が裂けてもいえない。その思いが顔に出ていたのだろうか、岩住が片眉だけを器用に上げて反応を示した。 「仕事?なに、夜の仕事?」 「何ですか夜の仕事って。…ネットですよ、ネット。プログラミング代行、とか」 「ふぅん」 口から流れるままにさせた言い訳だったが、岩住はそれ以上きいてこなかった。納得したのかしていないのかいまいち微妙な表情だ。 何だかいたたまれなくて、尚志はコーヒーを飲む。 「…俺としては、あいつが一見の君にロイヤルコペンハーゲンのそのカップを出す、その理由が知りたかったんだが」 「…?」 こんなに近くにいるのに、小さく掠れた、さっきよりも大分低い声で話されて、尚志は一瞬別の国の言葉でも聞いているのではないか、という気になった。大学のどの教授よりもいい声をしていた…ような気がする。 じっと岩住を見つめて、もう一度あの声で繰り返してくれないかな、と尚志は思った。彼がもし本当に魔法使いなら、呪文の1つでも出してくれたかもしれない位、じっと。 …尚志の瞳に満足したのか、それがよほどおかしかったのか、岩住はふっと薄い唇で笑みを作った。 「…次の金曜日の夜に待ってるよ。」 そしてそれから、岩住は書類に目を通しながらコーヒーを飲み終わるまで、尚志に話しかけることはなかった。 帰り際だって「じゃあ」とだけ言って、さっさ席を立ち清算して、店を出るまで尚志に視線をやることはなかったのだ。 ――何だかそれが、尚志には気にくわなかった。 |