コペンハーゲンのように霧を含んだ、
01

大学3年生になってからというもの、積田尚志(つみたなおし)の周りは就職活動一色と言っていいくらいの忙しさを見せていた。友人は皆真っ黒のリクルートスーツに身を包んだり、かと思えばカジュアル面接に着ていく服をどうしようかと悩んでいたりで、とかく落ち着きがない。
卒論もまだなのに就職活動に精を出すその姿勢がいまいち尚志にはわからなかったが、友人に言わせれば「将来が安定してるお前とは違うんだ」ということらしい。尚志からすれば自分も不安定な未来を持っているので、境遇にさしたる違いはないのになんで差別みたいな事いわれなきゃならないのか、といった感じなのだが。
尚志と彼の友達で一線何かを引くとすれば、それは「本を出しているか、出していないか」の違いだ。
尚志は去年の夏、不意に思いついた世界観を夏休み二ヶ月で書ききり、丁度よく締め切りの迫っていたとあるライトノベルの賞に送ったら最優秀賞をぽんっととってしまった。人間書き終えられるだけの集中力さえあればそこそこ評価してもらえるのだな、とは尚志が抱いた感想である。
それが大物の言うことなのか単に運が良かっただけなのかは謎だが、その世界観をベースにした現代風ファンタジーの様な小説のシリーズは中々売れているようで、尚志の懐は基本的に暖かかった。
しかし、元から貧乏学生だった訳でもない尚志はそこで人生が大きく変わったということはなく、大学生活を普通に、普通に、過ごしていた。大体芥川賞をとったというようなものでもないのだから教授に言える訳もなく、言ったとしてもよい成績をくれるような教授ではないから、目下尚志の「がんばり所」は「勉強」であった。
どちらかというと、卒業してすぐに働きたいという気持ちよりは、もうちょっとアカデミックな知識を吸収したいという気持ちの方が、尚志の中では強かった。だから今年のうちに頑張っておいて、来年からスムーズに事を進めていきたいと思っていたのである。院に行くにしたって、今いる大学でいいのか、もっと他に行った方がいいのか。考える事は色々あったし、その前にやらなければならない勉強も沢山あった。
ただ、友人達が就職活動で必死になっている時に、その中で勉強に精を出す事は難しかった。
いつもなら図書館や大学のラウンジで友人らと適当に勉強したりしていたのだが、次第に周りもこの不況下では愚痴の方がおめでたいニュースよりは多いというものだ、すぐに尚志の気は滅入ってしまった。人の話を真面目に聞くタイプなだけに、「いいよなお前は」という言葉を聞くと心がずしっと重くなるのだ。
結局、1人暮らしの自室でこもって勉強するハメになったのだが、それもなかなか上手く息抜きできないという難点があった。処女作を何の習作なしに二ヶ月で書ききってしまっただけの集中力でやりきろうとするから、休憩を挟むタイミングがわからなくなってしまう。
だから、適当にタイムスケジュールを組んで、小説のプロットを練る傍ら喫茶店にでも行こうという案がでてきたのである。
喫茶店なんて1人で行くようなものじゃない、と思っていたのだが、これが雰囲気のいい所を探すのが楽しくてよい気分転換になった。基本的に体育会系ではなかったからスポーツでストレス解消を図らない分、散歩するだけでも随分と体を動かしたような気になって気持ちが良い。
だが、どんなにいい雰囲気の喫茶店を見つけても、そこの常連になろう、という気は不思議と起こらなかった。というのも、自分がプロット練りに集中しすぎてもし作家だという事がばれたら何だか気恥ずかしくていたたまれないからだ。自分が文字を書くことを生業としよう、と決心していないから、余計に。

だがそれも3ヶ月も続ければ、流石に近所の喫茶店は大概網羅してしまって、あとは電車で数駅乗るでもしないと、という感じになってしまった。
わざわざそんなことまでして気分転換をするのはなあ、と、尚志は考えながら、今にも雨が降りそうな初夏の空の下、のんびりと歩いていく。
この近くにある喫茶店は2つ。どちらかに入って雨が通り過ぎるのを待とうか。
――でもどっちの喫茶店も女性客が多いしな、
そんな事を考えて尚志は溜息をついた。1人で喫茶店に入る上で、男である彼には結構重大な問題であった。別に女性客の目を惹くような外見はしていないとは思うが、女性の軽やかな笑い声が響いたり、香水の匂いが漂ったりするようなところは遠慮したかった。
正直、女性と付き合った経験なんて殆どなかったし、女性と付き合わなくても尚志は日々に満足していた。それに、どうしてもあの声の高さが集中力の妨げになるのだ。
コーヒーか紅茶の匂い、あとはなるべく密やかに漂うアフタヌーンの甘い香りと静かな空気。
それがここ数ヶ月歩き回って尚志が見つけた、「創作活動をする上での自分の理想」だ。その全てを兼ね備えた喫茶店なんてこの近所にはなかったから、一所に落ち着く、ということがなかったのかもしれない。

「…あれ」

ぼんやりと自分の理想を思い描いていたら、気づかないうちに住宅街に入り込んでしまったらしい。大学の立地がいい具合に都心から離れている分、ちょっと横道を行けば、閑静で上品な家が並ぶ景色に紛れ込んでしまう。
普通の大学生なら、この道と逆の駅前…繁華街の方に向かう。だからかここは異様に静かで、自宅からそう離れてもいないのに酷く場違いな気がしてくる。
「戻るか…でもな」
家に戻るまでに絶対一降り来そうだ。一体何分ぼーっと歩いてきたのかは知らないが、途中かろうじて見つけた町の名前は尚志が聞いたことがないものになっていた。大学のそばに住み始めてもう3年経っているのに知らないとは、よっぽど距離が遠いか、縁が遠いかだ。
雲がゴロ、と不穏な音を立てた。そしてものの数分しないうちに最近髪を切って露出した耳に水滴が当たる。梅雨が始まるか始まらないかの時期の雨は冷たくて、思わず首をゆるく横に振った。――その時。
カラン、と音がした。
ちょっと古い店特有の鐘の音。それが解る程度には尚志も方々歩いてまわっている。
音のするほうに顔を向ければ、アジサイと薔薇が導くように小道を作っていて、その奥には「OPEN」と小さく書かれたプレートが、蔓のまいたランプに掛かっていた。
――まるで少女小説だ。
この間ふと「流行だから」と手にとってパラパラと捲ってみて駄目だった少女小説の、「秘密のカフェ」な雰囲気を思い切りかもし出している喫茶店が、目の前に、ある。
いや、本当に喫茶店なのだろうか。喫茶店にしては随分と客を呼びたい、という意志が感じられない。薔薇の間に見える窓からは、綺麗だがメルヘンなアイテムというよりは怖い古書のようなものが並んでいるのが見える。
「…って、まあ、あまり選んでられる場合じゃないんだけどな」
段々とポロシャツに濃紺の染みをつくっていく雨をうらみながら、尚志は店の中に入っていった。




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