コペンハーゲンのように霧を含んだ、
09
車が、昼の静かな住宅街を滑るように走っていく。 「…連絡しなくていいの?」 「え…」 さっきからずっと見られていたのに、今になって岩住は口を開いた。このままずっと喋らないのだろうかと思っていた尚志は不意を突かれてどもる。 「ツレがいたろ」 「あ…!」 登己のことか、と思い当たって直に尚志の手は携帯へ伸びた。今の時間なら普通は授業を受けているが、何にせよ意外と心配性な彼のことだから授業に出てないかもしれない。1件の不在着信元が登己からで、あぁ、と息をつく。 <知り合いの車だから全然問題ない、詳細はまた後日> それだけ打って送信した。多分これで、それ以上の追求はメールではしてこないだろう。後日どう説明をしようかとふと考えたが、まだ始まっても終わっても居ないので、今から考えても仕方がないだろうという事で落ち着いた。 「送りました」 「そう」 「……」 「……」 助手席に座り直した尚志は、見慣れた道が視界に入って初めてやっと気付いたという風にシートベルトを締めた。それでも視線が岩住から外れたのはただの一回だけで、それ以外はずっとその端整な横顔を眺めているだけだった。 あれから岩住は何も言わない。 何も言われないのをいい事に、尚志は岩住を見詰め続けた。もし見られるのが嫌だったら嫌とはっきり言うはずだしと、少しばかり都合良く考えては見るが、実際の所なんでこんなに一人の人間を凝視できるのか、そもそも何で見ているのか、その理由は全然解らなかった。 それからしばらく黙っていると、やがて車は止まった。 「降りて」 「はい」 返事を待つでもなく先に車を降りてしまった岩住を追うようにして外に出れば、そこは見覚えのない少しだけ開けた駐車スペースであることが解った。 ――この壁の色… 車が4台止まれるかどうかというスペースの側面には、よく見たことのある壁があった。加えて屋根の色も確認したところで、やっとそこがあの店の裏側にあるのだということが解った。 「こっち」 ぼーっと壁を見ていると不意に腕を掴まれた。さっきから乱暴だと思ったが、目が合って岩住にニヤリと笑われたらそんな考えはすぐに消えてしまった。 「裏口から行こう」 「え…」 「鍵なら持ってる」 岩住は短くそういうと、スタスタと歩いて壁の周りを囲んでいる生垣の隙間に申し訳程度にある裏口まで尚志を連れて行く。そこでやっと腕を離し、空いた手で鍵がジャラリとついたホルダーから1つを出して中に入った。 ――勝手知ったるなんとやら、てやつだな。 尚志はそう思いながら、さっきまで強く掴まれていた手首を軽くさすりつつ岩住の後をついていった。 直に、いつも店内から見えていた中庭の奥にある建物が見えてくる。見慣れない角度から見るとまた違う印象を受けるな、と感心しながら歩いていたら、不意に岩住の背中に顔をぶつけてしまった。 改めて見るとこんなに身長差がある。 10センチくらい差があるのだろうか。尚志が175程あるから185か、もう少しあるのか。 冷清水も結構背が高かったから、二人が並んでいたらさぞかし見ものなのだろう。 「積田君」 「あ…はい」 もう少しで想像の世界に旅立ってしまうところを呼び止められて、尚志はふっと現実を見る。 岩住は中庭を抜けて、店へと繋がるガラスのドアを開けた所だった。こっちを見て、手を店の方にやり『どうぞ』、と言外に伝えていた。 その言葉に甘えて中へ入ると、すぐにガチャ、と割と大きな音がして扉は閉められた。久し振りの店内を楽しむ余裕はなく、また岩住に引っ張られる。それが今度は腕ではなく手を繋いだ形になったので、その不意打ちに心臓が高く鳴り始めた。 連れて行かれたのは、初めて会ったときに岩住が登場したロフトだった。 傾斜のきつい階段はまるで屋根裏に行くようだと思ったが、ついてみると本当に中二階という感じで、元々高い天井の所為か普通に立っても頭がつくというようなことはなかった。下のフロアが見渡せる手すりは本棚とソファがおいてあり、その所為で下からは見えにくかったのだろう。 壁には、外国の古い広告や雑誌の表紙が大小様々に飾られている。冷清水の趣味なのだろうか、それとも岩住の趣味なのか。 「…さっきから」 「え…」 じっと壁に見入っていたら、後ろから普段よりも低めの岩住の声が聞こえた。若干怒気を含んでいそうなその声に、思わず振り返ったらすぐ近くに岩住の顔があって目を見開く。 レンズ越しの強い眼差しが、容赦なく尚志を捕らえて離さない。 「俺がどんな思いで、あれを読んだと思って…」 「あ……」 読んでくれたのか、とか、どんな思いだったのか、とか。 そんなことを考える余裕は尚志にはなかった。 ただ、塞がれた唇の熱さだけが脳に焼きつくようだった。 噛み付かれるようなキスの後、トン、と肩を押される。その弾みで後退して、知らずソファーに腰を下ろしてしまう。 「…岩住さん」 「積田君。あれが、君の気持ち?」 「…どう、おもいますか」 座ったのは、尚志くらいだったら少し足を曲げれば寝転がれるソファだ。真ん中にいる尚志の横に片膝を上げて、岩住は至近距離でクっと笑った。 尚志が始めのとき思わず格好いいな、と思ってしまった笑みだ。 「あれが俺に対する君の気持ちだとするなら…俺は」 サラ、と髪を撫でられた。やっぱり長くなりすぎただろうか、と執筆活動で散髪を忘れてしまっていた事を今更ながらに思い出す。 あの雑誌に掲載された小説は、『士猶辰巳』初の恋愛要素ありの作品だった。男同士のなんとやらではなく、きちんと男女ではあったが。 その話には、岩住がモデルの魔法使いに対抗する主人公勢のうちの一人の、魔法使いに対する思いをモノローグで書いているシーンが多々入っている。恋愛メインにするには話の本筋があまりにシリアスすぎるため無理があったが、それでもそこかしこに過去の回想シーン等、淡い想いを察するには充分すぎる要素を含んでいた。 いくつかのフレーズに、思いを込める。 自分の気持ちをキャラクターに代弁させるのは好きではなかった。それこそ『士猶辰巳』と『積田尚志』が混同していると思われても仕方がない行動だと思う。 それでも書かずにいられなかったのは、ひとえに自分の気持ちの在り方を証明したかったからだ。 一方的に振り回されても、振り回してると思わせても、誤解されても、自分の気持ちは確かに変わらずあるのだと。 そういう思いがあってもいいだろうと、そういう意思表示だ。 「……岩住さん」 「俺は、自分の身勝手さにほとほと呆れるよ。…こんな仕事をしてるから、人の心の機微には聡い方だと思ってた…」 「岩住さん、俺」 がっくりと尚志の肩口に額を寄せてくる岩住の重みを感じつつも、尚志は口を開いた。 「…積田君?」 ゆっくりと顔が上げられて、初めて見上げられるようにして目があった。その目の縋るような光が、さっきの強い眼差しと同じものなのかと思うとおかしくて、思わずふっと微笑んでしまう。 「岩住さん、俺、貴方のことがちゃんと好きなんです。色々あっても、そこだけは本当に」 本当なんです、と念を押したかったのにできなかった。 またキスをされたからだ。 今度は静かに、さっきよりは随分と紳士的に。 これで通算3回目だな、と考える余裕も今の尚志にはあった。 「…本当に?」 さっきから本当にこの人は表情をよく変える。 でも、今の優しいけれど真剣な表情が一番好きかな、と尚志は思った。 「ツミタナオシ、の言葉まで疑うんですか?」 自分がこんなに誰かを好きだ、なんて思うのは初めてのことかもしれなくて、それを今更隠すように、誤魔化すように訊ねてみる。さっきからじっと岩住を見詰めるこの視線が、全てを物語っているというのに。 「…だって、それは」 「あれは、俺にまで連絡が行かなかったんです。よくあるんじゃないですか、そういうのって」 「……あんのクソ編集」 「殆ど編集らしいことしてもらってませんけどね、俺」 お互いクスクスと笑いながら、静かに岩住は尚志を押し倒した。あんまりに自然なその仕草に、尚志もつっこむ気が起きない。流されているような気もするが、自分の意思も手伝っているのだからそんな考えは捨てた方が無難だろう。 男に押し倒されるのも、 内股を擦られるのも、 首筋に唇を寄せられるのも、 全部が気持ちよすぎてふわふわして、尚志には何もかもどうでもよくなってきてしまっていた。 「あ…い、わずみさん」 「謙でいいよ。そっちの方が呼びやすいでしょ」 確かにそれはそうなのだが、いきなりそう提案されても困る。 岩住は眉根を寄せる尚志の髪をそっと撫でながら、目を細めて笑った。 「…謙、さん」 「うん。…尚志君、心配しなくても誰も来ないよ。今日は定休日なんだ」 「そう…ですか」 ふっと息をつきながら尚志は天井を仰いだ。仰け反る首に吸い付くように岩住の唇が鎖骨まで滑り落ちる。首の付け根を強く吸われて、ああこれはキスマークでも付けられたかな、と尚志はぼんやり考えた。 その間にも岩住の手はカーディガンとシャツのボタンを手際よく外し、尚志のその明らかに文学青年然とした白めの肌を外気に晒そうとする。もうとっくに抵抗する気を失くしてしまった尚志は、胸の突起を撫でられて初めて、ソファに投げ出した手をピクリと動かした。 「ん……」 「…初めて?ここ触られるの」 「あ…積極的な人とは付き合った事がないので…っ」 摘まれて擦られて敏感になった先端を舐められると、びくりと体が反応する。 その過度な反応に岩住が笑みを浮かべ、その表情に含まれた色に体が熱くなる。 ――好きな人とこういう事をすると、こんなになるもんなんだ… 言葉にならない短い声を時折発しながら、尚志の熱は確実に体の中心へと集まっていた。岩住の手が、その指先の触れる箇所に火を灯すかのように熱い。もしかしたら、熱いのは自分の中なのかも知れない。 「…ん…ん、ぁ…」 「へえ、可愛いな、尚志君…」 そう言って、岩住の手が尚志のベルトに掛かった。 「なーにが可愛いって?!」 ――そのとき。 ライトノベルの月並みな手法みたいな鶴の一声が階段の下からして、尚志はがばっと起き上がった。その拍子に軽く岩住の額と額がぶつかったが、そんなのは気にしてられなかった。 岩住も立ち上がってロフトの上から下を見る。 「貴文、てっめぇ今日はあっちの店行くんじゃなかったのかよ!」 「おやお言葉だな謙。俺が折角仕事を早めに切り上げて物書き業に専念してやろうと思っていたというのに。それとも何か?邪魔されて困ることでも?」 ここは俺の家だ、と強く主張するようなその物言いに、岩住はぐ、と唸るような声をだした。 敵わないな、と尚志は服を直しゆっくり立ち上がった。 「じゃ、俺も図書館に用があったので…」 「え、うそ尚志君?!さっきあんなに盛り上がっ…」 「へえ、流石手が早いなぁ岩住謙殿。プライベートスペースに連れ込むくらい切羽詰ってたのか」 「推測するな阿呆っ」 対尚志用とは全く違う言葉遣いに吃驚したが、呼び名がいつの間にかファーストネームになっていることに思わず笑みが零れた。そしてそんな尚志の姿を見て岩住は呆然とする。 確かに盛り上がってはいたが、別に触れられただけで完全に興奮しきってしまうほど尚志の沸点は低くない。 ただ、思いが通じるだけで幸せなのだ。 「まぁまぁそういわずに。積田君、コーヒーでも飲むかい?謙の奢りで」 「あ、じゃあ是非一杯。岩住さん有難う御座います」 「ああもう………謙でいいって」 頭を掻きながら階段を下りていく岩住の後姿を眺めながら、できるだけ長い間この背中を見ていられればと尚志は思った。 「…ほんと、霧みたいに掴めないな」 ついでに、そんな見当違いの事を言う岩住の笑顔も、ずっと。 |