チャイルドバードの声
10
――…頬を叩かれてから、歓人はしばらくの間動けなかった。 登己が駆け足で去っていった後、階段を誰かが降りてくる音が聞えてやっと自分がぼーっと突っ立ってたままだったという事に気が付く。 「………な、んだよ」 ――生まれて初めて、な事が多すぎる。 人をこんなに想ったのが初めてならば、こんな風に想い人に頬を叩かれるのも勿論初めてだった。 ――人を好きになるって、こんなに大変な事なのか? さっき登己が背中をつけていた壁にもたれ、ずるずると座り込む。短めの前髪をかきあげて、重い重い溜息をついた。 「…あ」 そしてやっと、自分が登己に一言告げるのを忘れていた事に気が付いた。 ――好きだ、と。 歓人が重い足取りでレコーディングスタジオに辿り着いたのは、約束の6時のギリギリになってからだった。山手線をグルグルと回りかけたり、自分の人気を忘れて街中をうろつきそうになってしまった。周囲の視線が釘付けになり、携帯で写真を撮られそうになってやっと自分の仕事を思い出し、慌ててタクシーを捕まえた位だ。勿論ワカには叱られたが、今の歓人には心から謝る事は出来なかった。 もう痛みなんかないはずの頬が、まだジンジンしている気がするのだ。 それでも、レコーディングは容赦なく時間通り行われる。前回セラがゴネてから、結局録り直しをする事に決めたから、歓人達には時間がなかった。 まずはセラと譜生で何とかまとまった曲の感じをデモで聞き、自分の音にはあまり変化をつけなくていいという事が話される。先に録っておかないといけなかったのだろうが、今からセラ・鉄慈・歓人の3人で録ってから譜生が即声を入れるという事で何とかするらしい。 デビュー前の曲録りみたいだな、と譜生は笑いながら言っていた。何か言いたいことがあるだろうに、譜生は何も言わない。今はそれをありがたいことと思おうと、歓人は先に置いて貰っていたギターを手にとってブースに入った。 聞きなれたサウンドが耳に入れば、自然とその中に身を任せられる気がする。 激しい音楽に身を任せていると、何も考えなくて済む。決して浅はかではない重厚なサウンドは、それが曲録りであるという以上、それ以上の意味を持たない。 逆にそれは、一音一音に意味を持たせよう、何かを表現しようと言う勢いに欠けるのだが。 TOKIの曲は一音一音に意味がある、と歓人は思っている。 いつだったか、まだ歓人がTOKIの曲にはまったばかりの頃、TOKIが珍しく音楽雑誌のインタビューに答えていた時の言葉を思い出す。 『意味の意は心の音で、それを何の形であれ表現できなければ何にもならない』 ビィン、と指の先から心臓までが同時に痛みを覚える。 自分が酷い間違いをやらかした事に、音が止んでから気が付いた。 「…かーんと〜〜〜〜?」 「……ごめん、セラ」 ベースでも一番低い音を小さくテンポ良く鳴らしながら、セラの機嫌悪そうな声が響く。 「俺だけじゃなくて、」 「すみません」 「…どうした」 珍しく鉄慈にまで突っ込まれて、歓人は言うべき言葉を失う。セラなら何とか誤魔化せるが、鉄慈と譜生に隠し事は出来ない。 とりあえずもういっぺん録り直ししてもらおう、と口を開こうとしたら、ブースの外に居る譜生の声の方が先に届いた。 『ごめん、今日歓人は恋わずらい中だからあまり苛めないでやって』 「はぁ?」 セラの素っ頓狂な声が響く。 「何それ、マジな訳歓人」 「…あ〜…まあ。譜生さん俺行き詰ってんのは自分でも判ってっから…」 『そういうもんだよ、恋なんて』 恋なんて、とあっさり言う譜生は、とても楽しそうに笑っている。一体さっきから何がそんなに楽しいのだろうか、と歓人は口を尖らせた。 その様子を見て、セラがしゃあねえなあ、と言った風にベースの音を一音大きく鳴らした後止める。 「…よっしゃ。行き詰ってる歓人君に、俺が1ついー事教えてやる」 「セラ?」 「いっぺんそいつの事滅茶苦茶好きだって思って弾いてみろ。そいつが目の前に居るって思って弾け」 「…」 「行き詰ってるっつったよな?でもお前、諦めるつもりはねぇんだろ?」 「…」 「わっかんねーって顔してんなー」 黙ってばかりの歓人に、セラは声をあげて笑った。 「そうなら尚更だ、自分がきちっとそいつの事が好きなのか、確かめるつもりでやってみ」 「…でも、それでいいのか?」 「何が」 「自分勝手に弾いて良いのか?」 歓人がその質問をした後、一瞬だけセラは動きを止めて、それからハァ?と盛大な声をあげた。 あはははは、とツボに入ったらしい譜生の声が、マイク越しに聞える。 「お前、今まで自分勝手に弾いてなかったのか?」 「…セラ位自分勝手に弾いてる奴もいないな」 「うっさい鉄慈」 「…え」 『歓人ー?そういう事だから次はバッチリ集中してくれよ。丁度いいよ、これさりげなくラブソングだし』 笑いを堪えたような声が届く。とりあえず歓人は頷いた。今録っている曲は、音こそは激しいが歌詞はよく解釈すればバリバリのラブソングだ。譜生が作詞作曲を手がけていて、そのひねくれ具合が彼らしい気がする。 『よし。セラも準備いい?』 「任せとけっつの」 『鉄慈は言わずもがなだな…じゃ、宜しく』 柔らかな声が真剣なものへと変わり、音声が切られる。再びヘッドホンをはめて、歓人は自分の指先に集中した。 ――目の前に、登己が 浮かんでくるのは、泣き出しそうな目で怒ったように自分を睨みつけてくる登己の姿だ。 あんな顔をさせたい訳じゃなかった。ただ抑えられなかった。 ――違うんだ、登己。登己が登己だって事は知ってる そしてきっと、登己がTOKIなのだろうという事も。でなければあんな言い方はしないはずだ。 ならば、と歓人はイントロを掻き鳴らしながら、真剣な眼差しを誰も居ない床の上に向ける。 ――もうちょっと、運命を信じてみていいか? ――死ぬほど好きだ、と叫んでいいか? 全ての音を、登己に聞かせるつもりで響かせる。自分には口ではなくギターしかないのだと思い込む。 ギターを叫ばして、最後の音を鳴らしたときに、歓人の気持ちは固まっていた。 ――会わなきゃ、いけない ――この声を、届けないと、いけない。 その一回の演奏でOKが出て、歓人は直にレコーディングスタジオを後にしようとした。 「歓人」 譜生に呼ばれて、時間が惜しい歓人は不機嫌そうに振り返った。 「何すか」 「そんなに怒るなよ。いいこと教えてあげようと思っただけなのにさ」 「いいこと…?」 「どうせ登己君がどこにいるか、解ってないんだろう?」 「あ」 行き先も決めずに出て行こうとしていた歓人を、譜生はばっちり見抜いていたらしかった。 ふふ、と含み笑いを隠さず譜生は携帯を掲げて見せる。 「冷清水さん経由で情報。…登己君、あそこにいるって」 「あそこって…」 「君と彼の出逢いの場所。外でワカさんが待ってるから、送ってもらいな」 「………有難う御座います!」 「今日の良かったよ。頑張れ青少年」 そのご褒美のつもりなのか、ばしり、と背中を叩いて譜生は歓人を送り出した。 ――皆が俺を応援してくれてるのに、失敗する訳にはいかない そう思いながら、車に乗った。 譜生に言われるまま店に来たのは良いが、店は丁度カフェとバーの中休みの時間帯で、ドアにはきっちり『CLOSED』と書かれた札が下がっていた。 「…やれやれ」 時既に遅しと言う奴だろうか、と地面を蹴りそうになった瞬間、後ろからワカの声が聞えて振り返る。 車を道に停めた状態で彼女がジャケットの内ポケットから出したのは1つのキーだった。 「…ワカさん、それ…」 「この店の鍵。その前にオーナーに連絡してみないといけないだろうがな」 そういってもう片方の手には携帯を持っている。素早い動作は流石マネージャーと言ったところか。 「冷清水、店入るよ。え?…その子に用事がある。ああ、どうせ今日はそっちの店だろう。…ん?貸しがあったのを忘れたのか?後で告げ口するぞ…ああ、それでいい」 あの冷清水を相手に強い口調で押し切ると、ワカは話をやめた。 「上手くまとめた。鍵はやるから、あとは自分で何とかしろ。明日の10時、撮影とインタビュー、忘れないように」 「…了解しました!」 思わず頭を下げて言うと、ワカは「これっきりだからな」と言って車に乗って去っていった。帰りのアシがなくなってしまった、と思ったがそんなことはどうにだってなるだろう。それよりも今やるべき事は鍵を開けて中に入ることだと、歓人は逸る気持ちを抑えきれずにドアの鍵を開けた。 カランカラン、とこの間と同じ音を立ててドアが開く。中に入ると店内は真っ暗で、どこかに明りはないかと携帯のライトをオンにして辺りを見回した。レジの脇の柱に付いているスイッチを押すと、ブウン、と小さな音を立てて、壁と柱についているランプが全て仄かに明りを点け始めた。 よし、と思って携帯を無造作に尻ポケットに突っ込み、前回来た時はパーテーションで区切られ入れなかった店の奥の方へと向かった。 様々な形のソファと照明の所為で、中々店内全部を見渡す事が出来ない。 「登己?」 そう呼んでみても、返事は無い。 ――こんな暗い所に、本当に居るのか? ふとそんな考えが頭をよぎる。だが外はもう真っ暗で、中庭にもライトは点いていない。もしかしたら冷清水にからかわれているだけなんじゃないか、と思う。 だが、ここで諦めても数少ないチャンスを潰すだけかもしれない、と思い直し奥の方へと向かった。暖炉があるらしく、奥の壁には赤レンガが見える。目が黒い所為で、中々暗闇には慣れない。 目以外に頼れるものはないのだろうか、とゆっくり目を閉じて考えようとする。 その瞬間、スウ、と自分のものではない呼吸音が聞えて目を見開いた。 ――え。 慌ててぐるり、と周りを見回した後、真ん前のソファに垂れ下がる布に気がついた。 視線を横にずらすと、そこにはオレンジの髪。 「…いた」 灯台もと暗しとはこのことか、と思いながら、真下の長いソファに寝そべる登己を見下ろす。ブランケットを掛けられた登己はどうやら眠っているらしく、この寝顔を誰か他の奴にも見せたのだろうかと思うと凶暴な感情が胸の中を占める。 ――ああ、そうじゃなくて。 首を緩く横に振って、変な嫉妬を振り払おうとする。それから、何も気づかずに寝ている登己をもっと近づいてみようと腰を落とした。 床に膝をついて、ゆっくりと手を伸ばす。 「…俺から見つけるの、3回目だな」 もう2度も逃しているこのチャンスを、今度こそ逃すわけにはいかないと思う。残された最後のチャンスだ。 ――俺は、登己がTOKIだったから好きになったわけじゃない。 勿論、彼が本当の本当にTOKIだったら、死ぬほどそれを喜ぶのだろうが。それだって2人の運命に無理やりこじつけるためのネタでしかない。 「――登己…」 登己の髪の毛を軽く梳く。ツンツンにたてられたそれは、しかしハードではなく簡単に歓人の指を受け入れる。 微かに登己の睫毛が震えた。その色の薄さが、可愛くてたまらない。 ――ああ、こんなにも。 「…好きだ」 たまらず、掠れた声で呟く。目を閉じても、浮かぶのは登己の姿だけ。 「…好きだ、登己…好きだ」 何でこんなに好きなのか解らない位だった。会ってから深い話なんて一度もしていない。 それなのにこんなに惹かれる。理由なんてどうでもいい。 ただ、好きなのだ。 「……うるさい」 ごそ、と身じろぎする登己の気配がする。 「…本当なのに」 参ったな、と眉根を寄せながらうっすらと目を開けようとする。 「――馬鹿、目くらい閉じてろ」 「え……」 それから頬に柔らかな感触が当たったのに気づいたのは、 目の前に登己の笑顔が見えてからだった。 |