チャイルドバードの声
09
「………っっ!」 眼前にある男の目が、ゆっくり一度閉じられて、それから開くまでの間、 時間が止まったようだった。 触れられた唇に、体全部の熱が集まる。 ――知らない。 ――こんな感じは、今まで、知らない 歓人の目が開く。 力強い視線が、一瞬、誰か全く知らない男の目に見えた。 それに気がついた瞬間、壁から手が勝手に離れていた。 バシッ、と、まるで自分が立てたのではないような音が階段に響く。 「つっ…」 歓人は、強かに叩かれた頬を片手で押さえた。そのおかげで、登己の肩が自由になる。 怒りで上下する肩をそのままに、登己はもう一度歓人を睨み付けた。 ――俺が、何者だって? ――お前こそ、何者だよ この間よりももっと驚いたような表情の歓人が、この間よりももっと辛い。 だけど、このどうしようもない激情は止められそうに無かった。 スッと、短く息を吸う。 「俺はトキだ。それ以外の、何でもない」 それから、道を全く知らない階段を駆け降りて、外へ出た。ブラックジーンズの尻に入れてた携帯でアルバートを呼び出して、怒られる前にタクシーを捕まえてとりあえず自宅の方向へ飛ばしてもらう。 ―――バカだ、バカだ、最悪だ その感情が、どこから来てどこへ向かっているのか等全く解らずに、ただ自分を叱咤する言葉をぐるぐると回しながら、登己はアルバートと尚志の何か言いたげな瞳を無視していた。 「さて、質問に答えてもらおうか」 「………」 「登己?」 「………」 結局、タクシーを停めたのは家ではなくバカルだった。丁度アフタヌーンティーのタイミングだったので、目の前にはスコーンやオープンサンドが置かれている。ピリピリした雰囲気を少しでも和らげようと、中前ならではの気遣いが伝わってきて申し訳なく思う。 登己の目の前にはアルバートと尚志が居た。できれば尚志には席を外してしまいたかったが、ここまで引きずり回してしまった以上、聞くななんて事は言えない。 「…何」 むすっとした表情を隠さずに聞く。自分が悪いのは重々解っているから、怒られたりなんてしたら二重に痛い気がする。 アルバートは紅茶を一口飲んだ。流石イギリス人、ウェッジウッドのシンプルなティーカップがよく似合う。そんな関係のないことを思ったが、すぐにそれがこれからの長い台詞を予期させるものだと気づいて眉根を寄せる。せめて英語だったら尚志にも少しはわからなくて済むのに、律儀なアルバートはきっと日本語で話すのだろう。郷に入っては郷に従う、という慣用句はイギリスにもあるそうだし。 「…大丈夫か?」 「……は?!」 一体どんなキツい説教が来るのだろうと構えていた登己だったが、その言葉にズルりとソファから腰を落としそうになった。 ゴホン、とアルバートが咳払いをする。 「……生嶋歓人に、何かされたか?」 「!!」 「あ、図星だ…」 ぼんやりとした口調で言う尚志をギロっと睨むが、きっと今のように赤い顔では全く意味をなしていないだろう。それ位は解る。 が、かといって黙ってハイそうですキスされちゃいましただなんて言える訳がなかった。 やっぱりな、とアルバートは英語で悔しげな言葉を吐いた。 「サングラスも無くしたみたいだし、何かあるとは思ってた」 「………あ」 やけに眩しい視界に、今更ながらに気づく。ここに来るまでずっと何かを睨みつけるかのように目を細めていたし、そんな事まで考える余裕はなかったのだ。 「もしかして気づいてなかったのか?」 「くっそ、あの野郎…」 「あいつに取られたのか!」 ガタ、と席を立ちそうな剣幕で言うアルバートに、ドキっと肩を震わせる。 「…そうだよ、だけど、盗むとかそういうんじゃない。俺が渡してもらうの忘れただけだ」 そんな風に彼を庇うような発言が出てきたことに、登己は内心自分でも驚いていた。 ――…何だよ、俺、怒ってたんじゃなかったのか? 「…本当か、登己。向うの事務所に訊いてもいいんだぞ」 「それはやめろ。TOKIが何か聞いてきた、ってバレっかもしれない」 「…何か言ったのか?」 「………」 ――しまった、言い過ぎた。 そうは思ったが、今更撤回はできない。アルバートは登己がいつどこで何を言ったか鮮明に覚えているようなタイプだ。 そんな真剣な口調で訊いてくるアルバートとは対照的に、尚志は黙って聞いていた。彼が手に持っているコペンハーゲンの青い模様が描かれたティーカップが、登己を少しだけ落ち着かせてくれる。 言うべきか、言わないべきか。 言ったら、きっともう二度と登己は歓人に会えないだろう。 この店で、偶然にもう一度会おうと考えることですら無茶な願いになってしまう。 それ程自分は強固に守られているのだという自覚を、登己は持っていた。 ――それを初めに望んだのは、何より登己だったのだから。 だが、きっと言わなかった所で、ゼロに等しい再会の確率を上げることは無理だろう。 ――あの時。 初めてモニターで歓人の姿を見た時高鳴った心臓の音は、確かに真実だ。 その気持ちは、今までどんな音楽を作った時よりも高ぶっていた。今までとは違う部分が熱くなった。 あの感じを、忘れたくないと、思う。知らない感覚は怖いけど、それ以上に好奇心が勝っている。 ――俺は、会いたいのか?会いたくないのか? 会いたくなかったと言えば嘘になる。でなければ、自分でわざわざあんな所に赴いたりはしない。 けれども会う気はなかった。偶然の種がそこかしこに落ちていてたまるものか。 だが、確かにその種を歓人は拾って、そして登己の元までやってきたのだ。 ――それは最早、偶然じゃないのではないだろうか。 「…アルバート」 「何だ?」 ゆっくりと手を伸ばして、アフタヌーンティーセットのスコーンを取る。クリームバターをつけて一口齧り、その暖かさに心を落ち着かせようと努力した。 次いでティーカップを手に取る。今ではすっかり自分用に定着したティーカップは、いつも変わらず楽しそうな小鳥たちを写している。 唇をうっすら潤す程度に紅茶を飲んで、両手でカップを手にした。いつも冷清水に叱られる持ち方だが、今日彼はここには居ない。 「…俺、アイツに正体バラしちゃ駄目かな」 『…………………何を馬鹿な事を』 目を見開き、アルバートは思わず英語で口を開いた。 「登己…」 尚志が心配そうな目で登己を見る。 ――解ってる、自分が何を言っているかは。 「黙ってても、きっとアイツには解ると思うんだ」 「だからって」 日本語に戻ったアルバートにくすりと笑いかけながら、登己はまた一口紅茶を飲んだ。 相変わらず、中前の淹れてくれる紅茶は美味しい。 「アイツ、俺が何者か気になってるみたいだった」 「……ここで、会ったんだっけ」 尚志がやっと口を開く。 ああ、と登己は頷いた。 「…で、俺、言ったんだ。俺はトキだ、それ以外の何でもないってな…それできっと、アイツには充分だ」 「……そんな」 アルバートが絶句する。さっきからいちいち反応が大げさで、それだけ自分が大切にされていたのかと思うとくすぐったくなる。 「だったら、わざわざ正体を明かす必要もないだろう」 なおも食い下がるようなアルバートの言葉に、登己は目を細めた。 「…自分の口から言いたいって言ったら、怒る?」 ――アイツと対抗するには、アイツが隠さなかった分だけこっちも見せてやる必要がある。 ――歓人が、俺にとって何者なのか、それを確かめるためにも、俺は行動しなくちゃならない。 尚志がしたみたいに、自分の気持ちを文章にしたり、ましてや音楽に含めたりすることはできない。 登己が自分の音楽で表現できるのは、家族かそれに準ずる人達への愛、もしくは自分自身で納得して信じた事柄だけだ。自分の気持ちがあやふやなのに、歓人に対して強いメッセージを送れるはずが無い。それに、自分の音楽はもっと広がりを持つものだと、もっと色んな人に聞かれるためなのだと登己は知っている。 だから、示すなら自分の態度か、それでなければ自分の口から出る言葉だけしかない。 手をあげた以上、それだけで彼の気を引けるかは全く持って謎だったけど。 ――気を引くって、おい。 浮かんできた単語に内心苦笑する。 そんな事、今まで一度だってしたことない。 人を遠ざけようとして頑張ったことはあったが、その逆だなんて全く見当がつかない。 それでも、何か、言わないと気がすまない。やってやらないとこの煮えるように熱い心臓がおさまらない。 ――ファーストキスだったんだぞ、馬鹿野郎。 「――…ああ、俺は怒るぞ、登己」 一人やる気を新たにした登己に対して、聞えてきたのはドスの効いたアルバートの声。 「アル…」 たった一人で自分を守ってきてくれた親友を今更裏切るような真似をするのは、流石に心苦しい。 「…アル、解ってくれ、俺…」 2人きりの会話の時喋りなれている英語をつい使ってしまう。 なんとしてでも、この親友には解ってもらいたい。 だが、そんなのはもうお見通しだよ、といわんばかりの笑顔をアルバートは浮かべた。そして早口で、 『生嶋歓人を捕まえてきたら俺に一発殴らせろ。それでいい』 とまくし立てる。 「…………」 その表情と言葉のギャップが激しすぎて、ワンテンポ遅れてから、登己は大笑いしてしまった。 早口すぎて何がなんだかわからなかったらしい尚志が、「え、え」と2人を交互に見やる。だが、直に2人が和解したらしいということが判って安心したように笑んだ。 「マジで俺、アルと尚志が居てくれてよかった」 「イマサラだ、そんなの」 「うん、そうだよ」 今度奢ってもらわないとな、と冗談交じりに言いながら、尚志は紅茶を飲んで店を後にした。 それから登己とアルバートの2人は、これから取らなければならない登己の行動について、計画を練る事にした。 言わずもがなアルバートは、自分の手から登己を奪い去りそうな歓人へのせめてもの鉄槌のために、だったが。 |