チャイルドバードの声
08


火曜日のミーティングの場に、TOKIは居なかった。

――当然だ、そんな偶然あってたまるもんじゃない

ただ、初めてTOKIの専属マネージャーを見て、その外見に興味を持ったのは言うまでもない。




「…あれが、なぁ…」
小声で彼の姿――確かアルバート・ティッチマーシュとか言ったか、面白い名字だ――を見つめながら言うと、隣に座る譜生に小突かれた。黙って話を聞いてろ、という風に睨みを聞かされて肩を竦める。


今日は本当は、記念ライブの顔合わせ兼簡単な打ち合わせを含めた立食会、のようなものを予定していたらしい。だが誰か他のアーティストの何人かが何かにケチをつけたようで、急遽説明会に様変わりしてしまっていた。ライブ収益を全てチャリティーにまわすという話なのに、その募金先の不明瞭さやそもそものコンセプトにすら話は進んでいて、興味が無いグループや他にスケジュールが詰まっている人達はもう既にここには居なかった。
本当は歓人達も曲作りをしようと思っていたのだが、席を立てなかった。
返答を求めている人に、歓人の母親が居たからだった。

歓人の母親・百瀬真朝は所謂大御所で、紅白にももう何十回と出ている国民的な歌手だ。
彼女の人気は結婚・出産を経て一時期は低下したのだが、そこから母親キャラをアピールし、バラエティにも出るようになってまた人気を博した。最近では息子と内容がリンクした旦那の会社のCMでちょっとした注目を呼んでいる。彼女の年では珍しい、全年齢層にファンを抱える数少ない実力派だ。
そんな母親イメージを持つ彼女だが、実生活で歓人と共に過ごす時間は限りなく少ない。

歓人は家に居る彼女より、テレビに出ている彼女の事を良く知っているくらいだ。父親もそれは同じ様で、何だったか偶然一緒に夕食をとることになった時に、彼女の仕事に専念する姿が好きだから、本当はお前も産むはずじゃなかったんだ、と言われた事があった。
まあそれはそれでアリだろうと、結婚=子供の居る家庭というのが普通であるという認識が無かった歓人は思った。それに、産まれてしまってもう既に結構立派に育っている息子を前にそんな事を言っても仕方がないだろう。その話を聞いたときの歓人が返したことといえば、ノロケか?と眉根を寄せただけだった。


母親と企画側の話はまだ続いている。だが歓人は席を立てない。ここで席を立てば後で母親から電話かメールで『イメージが悪くなる』と文句を言われるのだ。
もう殆どの人は残っていない。
どうせ今日ここに来る意味なんて殆どないのだ。誰か顔を見たい他のアーティストでも居なければ話は別だろうが、それだって来るかどうか解らない人を待つなんてことは普通しないだろう。
それが解っていて、歓人は今日ここにきた。

とりあえず、円満にこの企画を終えられるのならばそれでよかった。
TOKIが呆れて企画から離れなければ、それが一番。


テクノとロックは離れているようで意外と近い。邦楽ロックやポップスはエレクトロニックな要素を多用しているものが多い。逆に、歓人達の様に今まで一度もシンセの音楽を追加していない事の方が珍しいのだ。アコースティックバージョンやオーケストラバージョンもライブでのお楽しみで演奏することはあるにはあるが、それも何ら電子音楽的要素は含まれていない。
――どうせやるなら、TOKIとのコラボとかフューチャリングが理想だ。
そんな歓人のただ1つの我侭によって、シンセサイザーの音は一切Sober Dragonの楽曲には入っていないのだった。




「………」
視線をさりげなく、TOKIのマネージャーに戻す。
彼は、外国人が全く居ない空間の中、全く浮くことなく自然にゆったりと椅子にもたれて書類を確認していた。あれはきっとライブでの、TOKIの曲の使い方等が書いてあるのだろう。

――こんな話に付き合ってる暇あんのか?

TOKIの基本渉外姿勢は、会社を通してしか行われない。それもインターネットや書類など、フェイストゥーフェイスの打ち合わせなんて殆どすることがなかった。万が一あったとしてもTOKIではなくマネージャーの彼が出てくる。
噂ではレコーディングで外部の人間を呼ぶ時だって、TOKIは顔を見せないらしい。
結構なファン歴を持つ歓人は、幾度と無くTOKIに関する噂を見聞きしていた。実は極度の引きこもりで音楽と彼自身とのギャップがありすぎる、だの、本当は病弱な少女が作った曲をアルバートがテクノに直している、だの。どれもこれも推測の範囲を越えないので、歓人はどれも信じては居なかった。

――大体、音楽は内面から湧き出るもんだ。

そう、アルバートを見ながら考える。
そして、内面は外見にも影響を与える、と。
TOKIの曲はアルバートのようなカッチリとした外見の男からは作られないだろう。


TOKIの音楽は不思議だった。
淡々としたメインメロディに、華美ではないが流麗なサウンドが耳から体中を駆け巡る。走り出したくなる音楽が聞こえるのだ。
かと思えば深く、重厚な低音が、自分の奥にある何か激しいものを呼び出そうとする時もある。強固な殻の中で必死にもがき抗うような、そんな音楽。
だが、必ず最後は包み込まれるような安心感が歓人を包み込んだ。まるで羽毛に包まれたように、体中が守られている気がする。
本当にこの曲のジャンルはテクノでいいのだろうか、と首を傾げることもしばしばだ。
確かに使っている機材はエレクトロニックなものばかりだ。クラシックピアノを使うときもあったが、それもTOKIが実際に演奏しているものらしく、クラシカルな要素は殆どない。


――あの人は、TOKIの一番近くに居る人なんだ。

だからどうしたという訳ではない、話したいことも特にはない。でもなんとなく気になるのだ。

――TOKIみたいな凄い人を一人で守るのは、どういう気持ちなんだろう。

どういった心意気で、TOKIと接しているのだろうか。もしかしたらTOKIは女性で、アルバートの妻だったりとかするのだろうか。しかし、それ以上に強い絆がなければ成り立たない関係のようにも思える。
TOKIがナショナリティーを日本と言ってることから、肉親であるという事は考えにくい。だとすればやはり無二の親友か、アルバートが一方的に崇拝しているか、どちらかだ。



――俺も、登己ならできるかな。



登己のあのはにかんだような笑顔を独り占めできるのなら、何を犠牲にしたって自分は彼を守ろうとするのだろう。
あんなに綺麗で、可愛くて、純粋そうな人。


――もし、登己がTOKIだったら…


ああ、なんて理想だ。




そこまで考えて額に手を当てると、不意にアルバートと目が合った。しかも微笑まれてしまい、ドキリと背中に冷たいものが走る。

「歓人?どうやら終わったみたいだぞ」

小声で譜生が囁いた。やれやれ、と前方で腕を伸ばしているのは、最近メジャーデビューしたポップロックのグループの誰かだ。そのメロディを思い出そうとして、アルバートが椅子を引く音を立てたのを聞いてハッとする。
慌てて自分も立ち上がり、彼の様子を見た。自分でもなんでこんなに彼の動向を気にしているのか解らなかったが、彼を見る度に胸になにかチリチリしたものがあった。
アルバートは、企画の数人に頭を下げられて苦笑していた。流暢な日本語が聞えてくる。
何を言っているのか聞き取ろうと耳を澄ませた所で、不意に肩を叩かれて振り返る。

「歓人、残っててくれてアリガト」
「母さん…」

艶やかな唇でにっこり微笑まれる。こういうときの笑顔は我が母ながら美人なものだ、と思わずにいられない。本当に一児の母だろうか、と息子ながらに不安になる一瞬だ。
「譜生クンも有難うね、オバさん根性でつい粘っちゃって」
「いいえ、僕も気になってた所ですからお気になさらず。変な所に募金が行って、後であらぬ噂を立てられても困りますしね」
こういう所の譜生の笑顔もクセモノだ。お互いに絵にはなるが、隣にいる歓人にとっては薄ら寒い空気が肌にまとわり付く。
「イイ事いうわね、若いのに感心感心。じゃ、歓人、またね」
「ああ、気をつけてな」
『また』がいつになるのやら解らないが、歓人も母親もそこを追及したことは一度だってなかった。
「じゃ、俺たちも行こうか、歓人」
「そうだな…あ」
ぐるっと辺りを見渡すと、そこにはもう既にアルバートの姿は無かった。
「…くそ」
「歓人?」
「譜生さん、俺ちょっと会社見学してくる」
「は?」
そう言うや否や、歓人は小走りで部屋を後にした。

残された譜生の、「6時のレコーディングには間に合わせろよ」という声だけが、かろうじて聞えた。






「すみません、今、金髪でグレースーツの男の人、ここ通りませんでした?」
目に入った女性社員数人にそう訊くと、彼女達は顔を見合わせた。
知らないのか、とタイムロスしてしまった自分を内心叱りつつ小さく溜息をついた。
「…有難う」
それだけ言って他のルートへまわろうか、ひょっとしたらもう外にでてしまっているかもしれないと思いUターンしようとする。
「あっ、あの、その方なら多分3階に」
背を向けようとした時、女性社員の一人が慌てたように喋る。
「え、1階下?」
「はい、丁度この真下の廊下を真っ直ぐ」
「有難う御座いますっ」
そう言って迷わず階段へ向かった歓人の背中を、女子社員たちは小さく黄色い声をあげながら見送った。


――なんで俺、急いでんだ


階段を降りながら自問する。


――会って何を言うつもりだ?一介のロックバンドのギタリストからのラブ・コールだとでも?

それも良いかも知れない、と思った瞬間に、流暢だがどこかLとRの発音がキツめの日本語が聞えて足を止める。

――いた。




何かを社員と話しながらこっちの方へ向かって来ていた。まだ歓人には気づいていない。
会って何を言うかすらまだよく考えていなかった歓人は、とりあえず挨拶だけでもと思って歩を進める。
その時だった。


――視界に淡いオレンジ色が飛び込んできたのは。




「…………………………え、」




――そんな、そんなまさか


――登己?!



歓人が、その人の姿を視界に納めて、それから目を見開いたその間に。
登己は今さっき出てきたらしい部屋のドアを閉めて、隣にいる青年と何言か会話しているようだった。
だが。
ふと前をみた瞬間に、彼の赤いサングラスを通してでも、そこに緊張が走ったのが解った。


「…登己」
「………」


――嘘だろ?

瞬きするのも惜しいといったように、歓人の目はじっと登己を見つめていた。
もう一度、嘘だ、と思った。

――こんな運命的な再会、していいはずが、ない



思った瞬間に足が出ていた。
もう、視界には登己しか入っていなかった。

くるり、と登己が背を向ける。その瞬間だけがスローモーションのようで歓人は目を細める。
しかし、ふ、と気づいたときには歓人とは逆の方向に向かって走られてしまっていた。

「登己?!」

隣にいた青年が驚いて登己を見やる。
その声にやっと気づいたというようにアルバートも後ろを振り返った。
だが、それよりも早く彼の横を歓人が走りぬける。

――逃がすわけには行かない。

何で登己がここにいるのかとか、何でアルバートとそんな近くに居たのかとか、隣の青年は何者なのだとか、そういったことは一切関係なかった。
ただ、今のチャンスを逃すわけにはいかない。逃したら一生後悔する。
そのことだけは直感的に解った歓人は、持てる力全てで彼を追った。




「登己!」
「…………!」
廊下の突き当たりにある、人気の無い階段の踊り場でやっと捕まえる事ができた。
階段の最後の5段を一気に跳んだから、足の裏がほんのりジンジンしたが、それよりもうるさく高鳴る心臓の方がよっぽど存在を誇張している。
けれどもそんな事に気を配っていられない歓人は、ただ壁に後ろ手をついて顔を逸らす登己から視線を外せず、もう半歩だけ詰め寄った。

「…何で逃げるんだよ」
「……何で追ってきたんだ」

歓人と比べれば小さな胸を上下させ、弾む息を抑えるようにして登己が訊いてきた。質問と共にゆっくりと上げられた顔は、驚く程赤い。
それを、逃げたからだけではないと解釈する程には、歓人には自信がありすぎた。

ゴクリ、と喉を鳴らす。

「逃げるからだろ」
「…会うつもりなんてなかった」
かみ合っているのかないのか解らない登己の言葉に、胸の奥から熱い何かが飛び出してきそうになる。
必死で抑えながら、歓人は掴んだ手を壁にあてた。
痛みはないはずだったが、登己は肩を跳ねさせて目を見開く。その様子はレンズによって微かに伝わりにくかった。
――サングラス、邪魔だな
そんな事を考えながら、歓人は背を丸めて登己に顔を近づける。

「…何で、ここに?」
「…………け、見学」
「会社見学?そんな格好で?」
登己は前回会ったのと同じ様な弱パンクな格好をしている。ジャケットの下に見える髪の色とはまた違ったオレンジの薄手のパーカーが、呼吸に合わせて僅かに動く。
「…」
「会うつもりなんてない、って。……俺がここに来るのは知ってたんだな」
「…!」
逸らされることのない様、強い力で見つめる。
――ああ、マジで邪魔、このサングラス
空いた手でカチャ、と外す。それを握ったまま、登己の肩を抑えた。もう二度と、自分の行動で肩を跳ねさせることの無いように。
「…図星なんだ?」
何も言わない登己の様子を肯定的にとり、歓人は微かに笑む。


「……なあ、登己って何者?」
「…っ!!」

これ以上ないと言った位に見開かれた瞳に自分だけが映っているのを確認する。




そしてそれから、無意識のままに彼の唇に、

ゆっくりと自分の唇を、重ねた。