チャイルドバードの声
05
――不覚にも程がある。 登己は中庭に出て、真ん中に据えられている噴水の向うへと向かった。 中庭はほどよい涼しさで、外界からここだけを隔離するように変四角形に囲う壁の手前に、それぞれ綺麗な草花で背の低い垣根がある。これで、ほんの少しだけ周りから隠されるのだ。 ――何やってるんだか、俺 初めてこの店に来たときも、ここで一人溜息をついた記憶がある。仲が良い両親と冷清水の会話は止まる事を知らず、話の内容にもテンポにもついていけなかった登己は一人探索に出掛けたのだ。中庭に出てガラスの扉を閉めた後の、話し声1つしない静かな空間にほっとしたのだ。 今は、ほんの少しだけ楽しそうな声が店の方から響いてくる。 きっと、冷清水の知り合いなのだろう。ここは、冷清水の知り合いが誰かを連れてきて、そうして店を知った人がまた誰かを連れてくる。そんな一見さんお断り風なバーだった。勿論、一見だろうと誰だろうと店に入ってきていいのだが、夜パっと見ただけでは此処がバーだなんて普通の人間は気づかない。 ――苦手だ、ああいう声は。 芸能人っぽい、自信に溢れたトーンだというのが微かな音でも何となく判った。 登己の耳は普通の人間よりも格段に良い。ピアスだらけでまともに音が拾えるのか、と大学で言われた事があったが、小さい頃から色んな言語や音楽を聞いてきたからか、一度聞けば殆どのメロディーは耳でコピーできた。それを喜んだ祖父母が物心つく前に、と両親に勧めたのがピアノとヴァイオリンだ。 だが、ヴァイオリンも嫌いでクラシックピアノも嫌いだったから、結局残ったのがシンセサイザーだった。色々と音色を変えられるのが魅力的なそれで音楽を打ち込む事にハマったのが7年前。それからトントン拍子に事が運んで、今ではテクノ界の寵児、だなんてソレ系の雑誌では言われている。 ――出て正解だったな。 心底そう思いながらグラスを口につける。きっと冷清水が無駄に自分の事を紹介して、色々と面白おかしく語られるに決まっているのだ。彼の巧みな話術と人懐こい部分は嫌いじゃなかったが、あまり自分の事を話されるのは好きじゃなかった。 もしかしたら話されているのかもしれないけれど、その場に居ないだけ救われる、と登己は店の方に背を向けて空を見上げた。 星がほんの、2、3個だけ見えた。眼鏡を外せばもっと見えるだろうか、と思い外して胸ポケットに突っ込む。視力も実は良い方だから、眼鏡はサングラス代わりにしか使っていなかった。 ――次のアルバムのタイトルは『A Stellated Bird』にしよう。星型の鳥。 全てのアルバムのタイトルを『〜の鳥』という形式にしてる登己は、そんな事をぼんやり思いながら、4個程に増えた星の瞬きを見つめていた。 「こんばん、は」 その背中に声を掛けられて、ビクリ、とつま先に力が入った。 中庭には自分以外誰も居ない。つまりその挨拶は自分に向けられたものだ。そう再確認してみても、もう挨拶を返すタイミングを逃してしまっただろう。 ドキドキと心臓が鳴る。こういう不意の出来事には全く不慣れだ。 「…………」 思わず黙りこくってしまう。 ――大丈夫だ。こーゆーのは、黙ってりゃ無視されたか気づかれなかったかとか思って諦めてくれるはずだ。 それは酷く失礼な行為なのだが、そんなことを構ってられるほど登己は他人に慣れていない。惰性で避けていた人付き合いがこんな形で仇になるとは思わなかった。 尚志程度でもいいから、愛想笑いでも身に付けていられたらと思う。流されるだけの強さが自分には足りない。 自分自身で納得しないと動けない。我ながら損な性格だと思う。 音で、相手がこっちに来たのが解る。この日ばかりは自分の目立ちすぎる髪の毛を恨めしく思った。 さっきの声で、それが冷清水でも常でもないことは解っていた。きっとさっき入ってきた客の一人だ。 何だって中庭へ出てきたのだろう。あれほど冷清水に誰も来させるなと言ったのに。そんな事を言えないくらいこいつが気持ち悪そうだったとでも言うのだろうか。さっきの口調からはそんな感じはちっともしない。 そんな風にぐるぐる考えていたから、真後ろに人が来ていただなんて気づかなかった。 ――――…トン、 「わっ!!!!!!」 「!?」 思わず飛び跳ねそうになってつま先で押し止まる。 口から心臓が飛び出しそうになる、とは正にこの事だろう。 おそるおそる、振り返る。 ――悪ふざけだったり変なオッサンだったりしたら冷清水にクレームしてやる。 「…え、ぇと?」 だが、喉から搾り出せたのは、戸惑いの声のみ。 顔を上げて見えたのが、やけに精悍な男の若干驚いたような、困ったような表情だったからだ。 「ごめん、そんなに驚くとは思わなくて」 「………」 言葉が出ない。表情すら無力だ。 真っ黒で短めの髪。しっかりとした体格。はっきりした目鼻立ちは濃すぎず、だが確かに深い影を落としている。目も、特別大きいという訳ではないが、眼光というのだろうか、全身から漂うオーラが凝縮されているような気がする。 怖い訳ではないが、じぃんと胸の奥を捕まれたようになってしまった。 ――こんな感覚は、知らない。 彼は、後ろ髪を掻いて困ったように笑った。 「さっき声掛けて無反応だったから、体調でも悪いのかと思った。でも顔白いな、大丈夫?」 言うが早いか男は登己の顔を覗き込んできた。思わず仰け反ると、更に困った顔をされる。 ――顔が白いのは地だっつの。 「……お前、」 内心毒づきながらも初めて言葉らしい言葉を口にすると、相手は「ん?」と目を一度瞬いた。 「――…お前、誰?」 随分訝しげな声が出るものだ、と自分でも内心驚く。それでも険の入った顔は緩められる訳も無く、ただ無粋に相手を見上げる。随分と身長に差があるらしくて、それだけでも十分な威圧感だ。 ――何センチあるんだ、こいつ。 そんな登己の視線にも動じないといった風に相手は口を開いた。 「ああ、俺は生嶋歓人。今日初めてここに来たんだけど…」 「連れが?」 カント、という面白い名前に少しだけ興味を抱いたが、それよりも今日彼が初めてここに来たという事に重きを置いた。彼は何も隠すことなく言葉を紡ぐ。 「そう、バンドのメンバーに連れられて。Sober Dragonってバンド、ちなみに俺はギターで…」 日本のCDチャートには疎い登己だが、そのバンドなら知っていた。何せ… 「…エイジャックスのコンピレーションアルバム」 「え」 「!」 しまった、と登己は思った。 エイジャックスが今度出す何かをモチーフとしたコンピレーションアルバムに楽曲を提供する事になり、その打ち合わせのメールが今日も着ていたのだ。各音楽ジャンルの日本で有名なアーティストを呼ぶ、豪華なアルバムになるらしい、とも。 その中にSober Dragonの名前があったのを登己は覚えていた。Sober Dragon、――『素面の龍』――というネーミングが結構気になっていたのだ。 だが、そのコンピレーションアルバムの内容はまだ一般公開されていない。 ――どうする、俺。 珍しい失敗にしどろもどろになる。 だが、当のカントは気にしていないようだった。 「あぁ、確かそんな事もするって譜生が言ってたような…」 フウ、とは多分バンドのメンバーのことだろう。 どうやら楽曲提供やビジネス面には疎いようだ。ほっと胸を撫で下ろす。 何か、他の話題を提供しないと。 そういえば、自分の名前を教えていないことに気が付いた。 「…あ、俺は登己。深沢登己」 申し訳程度に、フルネームを教える。カントはパァっと顔色を変えた。どうやら話題転換には成功したようだ。 「トキ、ってあの鳥の?」 「違う、登山の登にオノレで、登己」 聞かれてドキっとするが、これは登己の仕事を知らない人間もよく聞いてくることだから、割と冷静に答える事ができた。 「へえ、かっこいい名前」 そう言ってにかっと笑うカントは、図体はでかいのに随分と幼い少年のように見えた。 ――そんなに怖くはないかもな。 ふとそう思い、自然と小さな笑顔が出来た。だが、直に強い視線を上から感じて眉根を寄せる。 「あ」、と短くカントは呟いた。何かを残念がっているようにも思えたが、一体何に対してなのか登己には見当もつかなかった。 「…カントだって頭良さそうな名前だろ」 「よく言われる。歓喜の歓にヒトで歓人だから、そんな高尚なイメージで名づけられたんじゃないと思うけど」 「充分かっこいいよ」 そう言ってまだ残っていたカクテルを煽った。グラス越しに見た相手の顔が少し赤くて、緑色のカクテルなのにおかしいな、と思う。 ――でも、おかしいのは俺のほうか。 初対面の男にこんなに普通に話せている。こんなのは尚志以来だ。 歓人の爽やかさが、このカクテルのミントみたいに気持ちいいから成せることなのだろうか。 例え胸の奥が、ずっとドキドキしているとしても。 それをアルコールの所為にして、もう少し話していたくなった。 「――登己は、今日一人で?」 だが、口を開いたのは歓人の方だった。 「…まあ、な」 「まさかここに住んでたりってことは」 「まさか」 「…だよな、」 それを聞いて歓人は大げさに息を吐いてみせた。何を考えているのか、その一見大人びた、クールな表情からは読み取れない。 「…あの、さ。お前…」 年いくつ?と聞こうとした瞬間。 「トッキー、お迎えだよ」 と、良く知った人物の声が噴水の向うから届いてくる。 「あ…」 「え、迎えって…」 歓人が怪訝そうな声を出す。そりゃそうだ、こんな所へわざわざ迎えが来るなんてどういう身分なのだろうとでも思ったのだろう。 きっと母親だ。彼女は冷清水会いたさによく登己を迎えに来る。冷清水と母親とでは年が離れすぎてるから、浮気相手にはならないわ、と彼女が前言っていたのを思い出す。 「…じゃ、俺行くな」 グラスを持っていない手を微かに挙げて、店の方へと早足で向かう。 「っと、登己、待てよ」 腕を掴まれそうになって、ふっと体が勝手に避けた。 驚いたような歓人の表情が、少しだけ面白くて、物凄く辛い。 思わず目を細める。 「…………中庭には、あんま来るな」 「………」 そう告げて、冷清水にグラスを押し付けて店から出た。 知ってる人間に、歓人と話している所を見られて、 とてつもなく恥ずかしかったのだ。 |