チャイルドバードの声
04


――中に入った瞬間に見えたオレンジ色の炎が、瞼の裏から消えない。









乾いた鈴の音と共に店内へ入って行く譜生の後を、歓人はのんびり付いて行った。
「いらっしゃいませ」
「今晩は」
譜生が片手を上げて挨拶するその脇から、ひょいと顔を覗かせて店内を見た。
ぱっと見は雰囲気のいい隠れ家バーという感じだが、広い店内をパーテーションで区切ってあるということは、他の使用目的もあるのかな、と推測する。
「おや、今日は珍しい客ばかりだな。譜生に…ああ、彼は歓人君だね」
「そうなんだ。前から連れてきたいと思ってたんだけど…ほら歓人、挨拶」
ぐいっと譜生が歓人の頭を掴む。
「あ、すみません。初めまして」
綺麗な植物の絵が細い紐の上に書いてある、面白いデザインのパーテーションから視線を前に戻して、歓人ははっきりと挨拶をした。
だが、その時に部屋の奥へ消えていった人影のことが、どうしても頭から離れなかった。
挨拶する相手の事を考えないで挨拶するなんて失礼だ、と知りつつも、どうしても。


――何か、気になる。


誰なんだろう、とか、どうして奥に行ってしまったのだろう、とか。
何で気になるのかは解らなかったが、とにかく気になった。

「…で、今日はこいつからなんとしても理想のタイプってのを聞こうと思ってて」
「そんな思春期の少年みたいな事しなくても。いい大人だろ君ら」
「はは、それがこっちはまだ20になったばっかで。彼女だっていたことないって言うんだから驚きで」
「え、そうなのかい?若いだろうなとは思ってたけど、しっかりして見えるからてっきり」

歓人がその人の事を考えているうちに、大人2人の会話はどんどん進んでいく。歓人が口を開いたのは、譜生と話している人がこの店のオーナー・冷清水さんだと聞いたときの『宜しく』くらいだ。飲み物をオーダーしようにも、譜生が勝手にバーテンダーのお任せで、と頼んでしまった。
黙って考えながらグラスを見つめる。淡いピンク色のカクテルの名前は確かスプリング・バードといったか、一口飲めば強いが桜の香りがスっと喉を過ぎていく。気に入った。
口ざわりの良いグラスから唇を離せば、丁度いいタイミングで譜生が笑みを向けてきた。
「奢るから、話せよ」
グラス片手にそんな事を言う譜生は、ザルの癖に酔っ払いのような風体だ。思わず眉根を寄せる。
「…何を。言っとくけど俺、酒強いですよ」
「知ってる。別に酔った弾みにポロって自白されるのを待つって作戦でもないしね」
悪戯な笑みを浮かべる譜生の奥で、冷清水も冗談交じりのウインクをしてみせた。
「付き合ってやってくれ。譜生がこんなに人の恋愛に首突っ込むなんて珍しいにも程がある」
「…普通に、可愛い人が好きですよ」
とりあえずでも言っておかなければ、後々酷い質問攻めにあうのは目に見えていた。
もう一口、グラスを傾ける。
「可愛いってどういう?目が大きいとか」
「そういう外見的なもんじゃないです。むしろ、外見は可愛くないほうが良い、かな」
「へえ、綺麗ってこと?」
冷清水まで質問してきた。どうしてもこの若いのを質問攻めして困らせたいらしい。
コトン、と音を立ててグラスを置く。
それを見て常が苦笑していたのを視界に納めたが、歓人には謝る気はなかった。それに、常が苦笑しているのはこのイイ大人2人に対してであろうことが何となく見て取れたからだ。
「…俺、ファッションとかメイクとかに大げさに時間掛けたり、そういうの重要視する子苦手で。完全武装っつか、ラフなコミュニケーションができない感じがする」
歓人は基本的にシンプルな服装を好む。母親が芸能人なんていう華やかな職業の所為で流石に良い服をあてがわれ、センスは磨かれた。だが、本人はTシャツにジーンズが何より落ち着いた。化粧だって、音楽番組に出るときも相当楽屋で揉める。元々目鼻立ちがはっきりしている歓人は薄いメイクだけで済むのだが、それだって大分抵抗があるのだ。
歓人のそんなシンプルさに、譜生と冷清水は顔を見合わせた。
「少年だ」
「ああ、少年だ」
本人はいたってまともに返事をしたつもりなのに、そういう事を言われるとムッとする。少しずつ大人になろうと努力しているのに、恋愛経験値がないからってそこまでからかわれていいものだろうか。
「譜生さんも冷清水さんも、俺を肴に飲みたいってだけだ」
自分の事を話したり、拗ねたりする時敬語を忘れてしまう癖は、もう既に譜生には知られてしまっている。ついでてしまった、と口を真一文字に結んで閉口した。
譜生はにっこり、底の見えない笑顔で答えた。
「勿論。若い子の恋愛はオジさん達の一番の肴だよ」
「…譜生さんほんとに幾つなんすか…」
呆れて、折角結んだ口も簡単に溜息を落とす。
まあまあ、と冷清水が口を出した。
「じゃ、これはどうだろう歓人君。人生の師として俺と譜生に聞きたいことってあるかな」
ギブアンドテイク、といえば聞えはいいだろうか。そんな提案をされて、歓人は面食らう。
ちょっと考える素振りを見せるが、頭を締めるのは1つの質問だけだ。


「……さっき、誰か出て行ったみたいですけど。奥に何かあるんですか?」


質問は、初めの方はスルっと出てきた。だが、初対面の相手に『出てったのは誰ですか』なんて露骨な質問は出来ない、と思いとどまる。
ヒュウ、と掠れた口笛が聞えた。冷清水だ。
「おやおや、目ざといな。見られてたのか」
「ん、誰か先客が居たの?邪魔しちゃったかな」
気づいてなかったらしい譜生が興味の矛先を店の奥へと向ける。パーテーション越しに仄かに見える店の奥は、やんわりとライトがついているだけのように見えた。
「奥には中庭があってね。その向うに俺が寝泊りする所がある」
その言葉に歓人と譜生がした反応は全く異なった。
歓人はふっと視線を中庭の方へ向け、譜生はへえ、と関心を示すように目を瞬かせた。
「中庭…」
「冷清水さん本当にここで暮らしてたんだ。てっきりもう1つの店の方かと思ってたよ」
「あそこは完全に店舗だからね。………歓人君?」
ふむ、と何か考えあぐねているような表情の冷清水に、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうかと歓人はらしくなく肩をこわばらせた。
「はい」
自然、返事も堅くなる。だが、それを聞いて冷清水は目を細めた。
「……気になるのは、中庭?それとも……」
「中庭、見に行ってきていいですか?何か初めて飲んだカクテルで酔ったみたいだ」
「………歓人、お前」

家政婦の河部さんからは嘘はついちゃいけないと小さい頃から言われてきた。だからエイプリルフールでも嘘をつこうなんて考えたことはなかった。
だけど、今は何だか何を言ってでも良いから中庭へ行きたかった。
この急ぐ感情が何と言う名前なのかは解らなかったが、だからこそ嘘が出てきてしまったのかもしれない。

気づけば歓人は立ち上がり、大股で店の奥へと向かっていた。
了承なんて二の次だ。行っちゃいけないのなら体を張ってでもとめられただろう。
だが、冷清水から送られたのはたった一言。
「涼しいから気をつけてね」
その言葉を背中で聞きながら、歓人は中庭へのガラス戸をカチャリと開けた。




中庭は至って静かだった。

仄かな暖色系の明りが、草木の間と小さな噴水の中に取り付けられているようで、中庭は地面から光が溢れだしているかのように見えた。
こんなに綺麗にライトアップしておいて、解放しないのは惜しいな、とそんな事を考える。
その矢先。

カサリ、と音がして歓人は弾かれたように前を見た。
噴水の向うに、人がいる。

ライトの所為で、淡いオレンジ色の髪がよりはっきりと見えた。

「…こんばん、は」
ゴクリ、と喉が鳴る。静かな中庭だ、もしかしたら聴かれているかもしれない。
だけれど歓人にはそんなことを気にする余裕はなかった。目の前の人が振り返ってくれないか、それだけ。
七分丈の細いブラックストライプシャツから覗く腕は凄く細い。
襟元から見える首も白い、これは明りの所為じゃないだろう。



――ああ、振り返ってくれねぇかな



知らず、足が前へ出る。
一歩、
二歩、
三歩。

大柄な歓人は、その足の長さも相まって一歩の幅がかなりある。
だから、噴水を隔てて向うに居る人の所へなんて直に行けた。

近づくと、彼は歓人と随分身長差があるようだった。
15センチはあるな、と目測する。自分の上着を着せたらきっと尻まですっぽり覆ってしまうだろう。


――しかも肩、薄いし


腕を伸ばせば彼の肩に触れられる、そう思った瞬間、
手が伸びていた。


「わっ!!!!!!」
「!?」


ビクン、と肩が跳ねて大声を出される。
その尋常じゃない驚きように歓人まで吃驚してしまい、思わず半歩下がってしまった。

でも、歓人はその事を直に後悔した。

目の前に顔を見せたその人は、それはそれは、



――可愛かったのだ。