チャイルドバードの声
03


「いらっしゃいませ。あら登己さん」
「今晩は、由麻。…何、今日は残業?」

――あれから、登己は度々店へ一人で行くようになった。
今までは大抵母親と2人か、もしくは家族3人という恐ろしい構図で出掛けていたのだが、一人でもこういう所で楽しめるのだなということが解ってきた。
「最近登己さんがバータイムに来るって聞いて。羨ましくなって今日は夜まで待ってみようかなと思っていたら、この通り」
「上手いこと言うなぁ…でも丁度良かった、話し相手が常さんだけじゃ結構辛いんだ」
「まあまあ。でも私ももう帰らないとなりませんから、お茶くらいしか淹れられませんけど」
来るようになったとは言っても、カフェタイムは結構きっちりと授業が入っている。だから必然的に来られる時間帯はバータイムばかりという感じになっていた。
「じゃあキーマンたのもっかな、由麻の淹れる紅茶すげえ美味しいから」
親しい人にしか見せない笑顔を向けると、中前も微笑を返してくれた。
「解りました」
コーヒーのカフェインが効き過ぎる登己は、いつも紅茶を頼む。
目の前で茶葉が湯に浸かり良い匂いをさせてきているのを感じながら、この間の会話を頭で反芻した。








登己の仕事を冷清水から聞いて、尚志はぴったり5秒は固まっていた。
それから、
「…いつ曲作ってるの?」
と、真顔で聞いてきた。
その様子がおかしくて、ドキドキしながら聞いていた登己は思わず大笑いしてしまった。
尚志はキョトンとした表情になる。
「え、だって登己普通に学校真面目に来てるし…音楽が一曲どれくらいの時間をかけて出来るものなのかは知らないけど」
「それは俺の台詞だよ。尚志だって1作書くのに凄い短い時間で書いてるじゃん」
登己にしてみればそっちの方が驚異だった。尚志の方が真面目に授業に出ているという気がする。
「俺はキーボード叩くだけだし、自分で読み返したりしないし」
「そしたら俺だって打ち込みが基本だから同じようなもんだよ」
む、と尚志が眉根を寄せてから拗ねたようにソファの背に沈んだ。
その様子を見て、登己はまだ笑みの残る顔を見せながら内心溜息をついた。

――こんな風に尚志が表情をコロコロ変えるようになるとは、ね。

出会った時も、そりゃあ柔らかい笑顔をする男だと思ったものだが、それがただの表面上の人間付き合いの為の、とらえどころの無いふわふわとした笑顔だったのだという事は最近になって解ってきた。
本当は、あまり人に興味を持ったりするようなタイプじゃなかったのだろうと思う。他人に素直に気持ちを伝えられない、体全部使って表現したいと思わないタイプだったのだろう。

自分と似た所がある、と登己は紅茶を飲みながら考えた。
登己は、今まで家族から沢山の愛情を貰って育ってきて、そのおかげで培われた人生観で音楽の道を進むことができた。
でも、その反面で『家族ではない人間』に、酷く人見知りをしてしまうという傾向にあった。
こんな風に髪を染めて、パンクっぽい外見に身を固めているのは、ある種防御なのかもしれない、と登己は自己分析をしている。自分の好みでしている格好だからあまり気にしないようにはしているが、これが原因で学校で声を掛けられたりすることはなかった。
家族はそんな登己の事を心配していたが、『いつか大切な親友ができるから』と言って励ましてくれた。しかし、その言葉が現実になるのを望む一方で、自分には家族だけ居てくれればいいと切実に願う自分も居た。

絶対的な味方は、登己にとって家族しかいない。と思う。

それが幸せなことなのか不幸なことなのかは解らない。幸せなことであってほしいと強く願う。
家族が自分に注いでくれた愛情と同じように、彼らに愛情を渡して。
その力で音楽を奏でれば、きっと世界中の色んな人たちを幸せにできる。

――だけど。

父が母を愛したように、尚志が岩住を愛したように。

自分にも誰か、特別に好きな人ができる日が来るのだろうか。

そんな事を考えて、ふと不安になった。
思わず、ティーカップを両手に持って溜息まで出てしまった。

今の登己には相反する2つの気持ちがある。


恋なんてもので自分を変えられたくない。
恋をしたい、恋をして変わりたい。


この2つの矛盾した気持ちは、果たして有り得ていいのだろうか。
人生20年と半分以上を生きてきて、登己には頼れる友人というものが殆どいない。
元来転勤族だった父親の所為で国内外を問わずに住む所を転々としてきたため、登己は人とある程度距離を置いた付き合いをする事を得意としていた。親が日本にきちんとしたマイホームを建て、定住地を得、更に大学に入ってからは、人付き合いが儚いものではすまないのだと知り、それからずっと仲の良い同年代の友人を作る事は諦めていた。

そう、人と深く接する事が怖いのだ。

だから今、尚志との付き合いは大切にしたかった。一度仲良くなってしまえば、それからはずっと情に厚いのが登己の性質だ。人と深く付き合うのを恐れているのに、いざそうなってしまうと一生ずっと友達でいようと思える位に懐いてしまう。
登己がテクノの世界に足を踏み入れたのも、そういう付き合いの延長線にある。もし小学校の頃の友人が音楽業界に勤めていなかったら、きっと作った曲だって世界には羽ばたかなかった。
結局踏み込む度胸がないだけなのだ。そういつもの様に自問自答の結論を出して、登己はちょっと冷めかけた紅茶をぐっと飲んだ。



「そんな風に思い悩んだ顔してるなんて、何かあったのかな?」

「…貴文さん」


思わず顔を上げると、そこには冷清水の姿が会った。親がそう呼ぶからと、自然とこの人を前にすると下の名前で呼んでしまう。それに気を良くしたのか、誰にでも均等に振りまかれる訳ではない笑顔を浮かべて、彼は登己の手からティーカップを取りソーサーの上に置いた。どうやら空になったカップをずっと握っていたらしい。恥ずかしくなって視線を逸らす。
「こんなに可愛い小鳥の絵を隠すなんて勿体ないな。ま、トッキーの手も綺麗だが。…常、何か代わりのカクテル作ってやってくれないか?」
「解りました」
冷清水はカウンターの奥にソーサーを置くと、バーテンダーの常にそう頼んだ。もう中前は帰ってしまったから、紅茶は淹れてもらえない。
「綺麗とか…よく言うよな」
敬語があまり得意ではない登己に、無理しないで自然な言葉遣いでいいよと言ってくれたのは冷清水だった。海外に住んでいて日本に一時帰国した時も、彼とは何度か会っている。きっと親ぐるみで付き合いがあるのだろうとは踏んでいたが、未だに詳細は聞けていない。
家族の知り合いだったり知己の仲だったりすると、途端に防御が脆くなるのが登己の弱点だ。
そんな登己を外から見えなくするかの様に、冷清水は登己の肩を抱いた。そして、ピアスがジャラついた耳元に小声で囁く。
「トッキーはあのお母さんとお父さんから生まれた芸術品だよ」
「そんなことは充分知ってる。…で、俺そんなに悩ましげだったの?」
常さんが絶妙のタイミングでカクテルを差し出してくれたおかげで、2人の間には若干の隙間が出来た。これ幸いと登己はカクテルを一口含む。緑色でミントの匂いがするそれは、登己もお気に入りのモッキンバードという名のカクテルだ。初めはティーカップといい鳥づくしのプレゼントだな、と機嫌を損ねていたのだが、カクテルの爽やかさに全て許せてしまった。
つれないなー、と冷清水は苦笑した。仕草が一々堂に入ってて、正しくこれぞ大人の男だな、と内心毒づく。
「ああ。大体トッキーみたいに家族第一主義の人がここに通うようになるってだけで珍しいのに、その上悩み事だなんて。…いや、逆か。親にいえない悩み事が出来たからここで悩むことにした、とか?いやぁ成長だなぁ」
「うーるーさーいー」
片手で冷清水側の耳を押さえてみるが、その様子に益々冷清水は機嫌を良くしたようだった。
「あーもう、なんでこんな子がお酒飲める歳になっちゃったんだかねぇ」
「貴文さん、その台詞去年からずっと言ってますよ。ほら、登己君も引いてる」
常が何とか登己と冷清水を離そうとしているが、言葉だけの制止は冷清水にあまり意味をなさない。彼はパっと顔色を変えると企み顔で笑顔を浮かべた。
「もしかして…あれか。トッキーにも恋の季節が来たのか!」
「はぁぁ?!」
思わず大きな声が出る。冷清水の余りに幸せすぎるその脳内構造を一度ほじくり返してみたくなったが、激動に任せて行動するのは音楽を作るときだけに決めている。ギリギリ自制心を保った。
「おや、顔真っ赤だな。さては図星か。相手は…うーん、積田君?」
「あいつは友達だっ!…それにあいつ、岩住なんかと付き合ってるんだろ」
「知ってたのか。そりゃ災難」
うーん、と唸りながら冷清水は腕を組んだ。常は冷清水の前にウィスキーの匂いが強いカクテルが置かれた。チェリーの匂いがするから多分ハンターかな、と登己は推測する。父親がウィスキー好きで、20になったばかりの頃はよくテイスティングに付き合わされた。
「…別に恋なんかしてないよ、俺」
「そうかい?じゃあ恋に恋してるとか、かな?お母さんが聞いたらきっと喜ぶぞ」
「だーかーら」
恋なんかに興味はない、と言い切ってやろうとして、言えなかった。


――カラン、カラン


誰か、登己の知らない誰かが店に入ってきたからだ。
「――いらっしゃいませ、」
常のその言葉が聞えるよりも先に、グラスを持って席を立つ。
「トッキー?」
つられて腰を浮かせた冷清水に、登己は振り返らずに口を開いた。
「俺、中庭で飲むから。誰も入れるなよ」



――ああ、これがいけないんだ。

そう思ったのは、冷清水か、それとも登己か。