チャイルドバードの声
02


――生嶋歓人(いくしま・かんと)にとって、朝は「彼が起きる時」であって、「朝日が昇る時」ではない。
起きてからする事も、規則に則っていることはまずない。とりあえず顔を洗って、髭が伸びていたら剃る位の事だけだ。気が向いたらシャワーを浴びたり、風呂場で半身浴よろしく本を読んだりもする。
最近は夜中まで音楽漬けにされて、家につくなりベッドにダイブしてしまうこともしばしばだ。むしろ、起きてから昨日の後片付け的なものをする事の方が多いかもしれない。


「…7時半…やべ、かなり早起きだ」
今日は偶然、一般的に言われる朝に起きられた。ケータイのアラームもセットしていないで泥睡してやろうと思っていたのに、3時間位しか眠れていない。90分サイクルと言われる眠りの周期に見事騙されたらしい。ここで二度寝ができる体質だったらどんなにいいだろうかと、低血圧では決してない若い体を伸ばしながら歓人はベッドから起き上がった。その足取りでふらふらとバスルームへ向かう。脱衣所で、昨日の格好のままだったシャツとジーンズを脱ぎ捨てシャワーブースに入った。シャワーの湯を出すと同時に、この頃お気に入りのエレクトロパンクを備え付けのオーディオ機から流す。
メロディに合わせて鼻歌交じりに熱めのシャワーを浴びて、体をすっかり活性化させる。昨日夕食を共にした奴が吸っていた煙草の匂いをすっかり落とし、心身ともに清々させた。スポーツブランドのジャージの下だけはいて、バスタオルをバサリと頭に乗せてスロープ状の階段を降りる。

「おはようございまーす」
「おはようございます、歓人さん。今日は早起きさんね」
忙しい両親の代わりに毎日午前中来てくれている家政婦の河部の姿をキッチンに見つけ、歓人は子供の頃から変わらない挨拶をする。いくら図体がでかくなってもこの人の前になると子供のようで、歓人は親よりも河部の方によく懐いていた。
「今日のお仕事は?」
「今日は何もないから普通に授業に行くよ、たまにはフツーの大学生したいもん」
「一昨年は大学生、が高校生でしたのにね。歓人さんが大学に行くと聞いたとき、私も奥様も随分と驚いたものです」
朗らかに喋りながら、河部はご飯と味噌汁ををささっと盛って出してくれる。もし歓人が早く起きられなかったら、これらはしっかり保存されていたのだろう。出来立ての美味しさを知ってる歓人としては、やっぱり規則正しい生活に戻ったほうがいいよなあと一口一口食べる度に思うのだった。
「河部さんそれもう50回は聞いてる。もっと大人扱いしてくれよなー」
「つい先日20になったばかりのお坊ちゃまに、大人なんて言葉はまだ似合いません」
「年金だって税金だって納めてるのに…選挙は未経験だけど」
「ほら、そうやって面白がってるようじゃあまだまだ立派な成人とはいえません」
「くそー…」
グレープフルーツをサクサク切って食べながら、歓人は項垂れた。いつまでたってもこの家政婦には敵いそうにない。
「そのような言葉遣いも私は好きじゃありませんね。ロックンロール風の言葉遣い、あまり慣れてしまうと正しい日本語が喋れなくなりますよ」
「解ってるって…ご馳走様でした」






――生嶋歓人、20歳。
日本のCDチャートの上位を常に賑わすロックバンド、『Sober Dragon』のギタリストだ。







大学の門の周りには、ごくたまにだがバンドのファンの女の子達が何人か集まっている時がある。
いつも来るか来ないのか定かではない人間を待てるその根性に感服して、歓人は少しだけ彼女達と話す。これが他のアイドルだったら多分許されない行為なのだろうが、ただのロックバンドのギタリストという意識しかない歓人に、事務所の方も黙認しているらしかった。それに、無視をするよりそうして接触に応じる方が、バンドのカラーにも合う。
決してレベルの低いほうではない、所謂名門の大学に歓人は幼稚舎から入っている。おかげでガリ勉とは無縁の生活を送って来られて、挙句高校生の身空でCDデビューなんかもしてしまった。初めは年齢を明かさずにバンド活動をしてきたのだが、段々と知名度があがるにつれて身辺を漁られる様になり、それだったら何も隠さずに暮らした方が楽だ、とプロフィールを公開することにした。
おかげで親や学校にも多少の迷惑を被らせてしまったが、どちらも結果的に歓人を有効利用し始めたのだからお互い様であるとも思う。

歓人の父親は大手化粧品会社の重役で、母親はそこの元イメージガールにして歌手の百瀬真朝(ももせ・まあさ)だ。経済・芸能、どちらの道に進んでも親の七光り的な事を言われるであろうと覚悟していた歓人だったが、その若者らしいオーラと圧倒的なパワーでそんなものは充分に蹴散らせるのだということを知った。
今では父親の会社のコマーシャルに、母がレディース、息子がメンズで登場している。金も掛からないし、良い宣伝にもなるという訳だ。
それに加えて、学校も学校で歓人を利用して学生を呼ぼうとしているのだから始末に終えない。後二年もすれば歓人は卒業してしまうのだから、それを見越しての短期集中戦略といえばいいのだろうか。

だが、歓人にはそういった大人の小難しいプライドだとかそういうのは全く解らなかった。
ただ自分の奏でたい音楽で人を動かしたい、それだけだ。



大学での講義の最中、不意に頭の中を流れ出すメロディや、教授の言葉から触発されたリリックをノートの端に書く。真面目にノートを取った事なんてなかったが、こういう時間は作詞作曲をも手がける歓人にとって大切な時間だ。
今日もいくつかの強いラインを考え出して一人満足げにノートを閉じる。チラチラと横や後ろから視線が刺さるが、そんなものにはもう慣れきってしまった。
元から人目を惹く容姿の歓人にとって、人からの視線がうざったいものであったことは一度も無かった。物心ついた時からその外見と親の所為で、目立たない時なんてなかったし、『自信は成功の元』という家訓の元、それを長所にすらして生きてきた。
何だって自分の長所にできる、というのが歓人の揺ぎ無い自信であり誇りであった。


「あ〜、やっと終わった」
「久し振りに来といて何言ってるんだよ。これから仕事か?」
「まぁな、別に行かなきゃ行かないんでいいんだけど、メール着てたし」
「そっか。頑張れよ〜」
「サンキュ、またな」
授業が終わった後、幼稚舎からの友達数人と軽い挨拶を交わして、歓人は裏門の所で待ち構えていた車に乗らされる。
運転手はマネージャー。
行く場所は勿論、スタジオだ。

「なぁ、本当にセラの機嫌そんな悪ぃの?」
静かな車の中で、後部座席に座りその長い足を組んだ歓人は、さっきから無表情のまま運転を続けるマネージャーの背に向かってそう訊ねた。
「ああ。この間のレコーディングで、気に入らないほうが採られたのが癪だったらしい」
こんな堅い口調だが、マネージャーはれっきとした女性だ。バンドのメンバーは彼女の事をワカと呼び、それの由来が上の名前だったか下の名前だったか歓人は覚えていない。
「あっさりした方を採ったんだっけ?しょうがないよな、コーラスと混ぜたいっつったのはセラなのに」
「今スタジオで鉄慈(テツジ)が宥めてる。多分口論になってると思うから仲裁宜しく」
「げ、譜生(フウ)は居ないの?」
「現在絶賛デート中、エイジャックスと」
エイジャックスとは日本で有数のレーベルである。確かコンピレーションアルバムに曲を使いたい、という用件だった気がするが、ビジネス関係は全て譜生に任せているから歓人には定かではない。
「ワカさんはそっちについてなくていいの?」
「譜生からこっちに付いててくれ、って言われてる。嫌なら席は外すよ」
嫌味の無いストレートの黒髪を、サラっと耳にかけながらワカは言った。その仕草にやれやれ、と歓人は溜息をつく。
「しょうがない、ひと肌脱ぎますか…」
「頑張れ苦学生」
棒読みでそういって、ワカはアクセルを強めに踏んだ。




ロックバンド『Sober Dragon』のメンバーは歓人を含めて4人だ。
ボーカルの譜生は広い音域と表現力で実力を、影のある生い立ちと美貌で人気を博している。
ベースのセラは、重低音のパートにも関わらずハーフのキレイな顔立ちをしているが、ギャップのある毒舌ぶりで一部のファンを喜ばせている。
ドラムの鉄慈はとにかく職人系で、ドラムを叩く以外には筋トレをしているというようなタイプだ。その佇まいは男性から広く支持されている。
これにクールに見えて怖いもの知らずで情熱的なギターの歓人が加わって、Sober Dragonは最近のバンドには珍しく全年齢層でのファンを抱えている。
曲風は所謂『正統派ロック』だが、土臭さの無さと流行に流されない厚みのあるサウンドが売りだ。今では最早彼らの音楽スタイルが流行となりつつある。
見た目も良く確かな実力を持ち、ライブパフォーマンスも上手とあればそのバンドの仲の良さを疑う者は誰も居ないだろう。

だが実際は、ちょっとだけ事情が違った。




歓人とワカがスタジオの中に入ると、ロビーの先の休憩所にはこの時間帯には珍しく何人かがたむろしていた。その全員がレコーディングに携わっている人間だと一目見るなり解った歓人は頭を下げながら挨拶する。
「すみません!セラと鉄慈、まだ中に居ますか?」
歓人の若く快活な声に、スタッフ一同は溜息をついたり片手を上げてガッツポーズをとったりした。
「ああ、歓人君やっと来てくれた」
「ごめんね、未成年呼び出しちゃって」
「俺こないだ20なりましたよ。…皆さんが外に居るってことは中でやり合ってんですか、あいつら…」
「さっきまで俺たちも中に居て傍観してたんだけどさ、音楽以外の事にまで話が及びそうになったから出てきちゃったんだよね、こっそり」
疲労の後が残る声でスタッフの一人が漏らした。他のスタッフもうんうんと頷いている。
どうやら事態は結構深刻らしい。
歓人は適温に保たれた室内でも上着を脱ぐ事はせず、現場に向かおうと大股で歩き出した。


見慣れたレコーディングルームのドアの周辺は、恐ろしいほど静かだ。完全な防音処置を施しているから当然といえば当然なのかもしれないが、その静けさに一抹の不安を覚えずには居られない。
「――…見たくないんだよな、こういう修羅場…」
元から争いごととは無縁の世界に生きてきた、言わば人生ずっと勝ち組の歓人は、人の醜い部分と直面した経験があまりにも少ない。別に2人のやりとりが醜い、 という訳ではないのだが、喧嘩というのは人の負の感情が急激に噴き上がる行為で歓人は好きじゃなかった。

――勝負はいいけど、喧嘩はな…わだかまってほしくないんだよな。

1、2度深呼吸をしてドアを開ける。ドアの向うにはまたドアがあるのだが、それは防音処置がされておらず、微かにだが2人の声を聞くことができた。
といっても、殆どがセラの声だったが。

「だからなんでお前はいつもいつもいーーーっつもそうやって何でも一言で片付けんだよ!解んねぇっつってんだろ!」
「セラ、座れ」
「座ってても立ってても変わらねーって、お前さ、そんな風に仏頂面で何言うときも変わらねぇじゃん!せめて言う事だけでもきっちり言えよ!でねぇと解らねえだろ、お前が何思ってるのか…」

「……………?、どうしたんだ?」
不意にセラの言葉の津波が止まったのを不審に思い、歓人は思わずドアノブに手を掛けた。
しかし、その先に見えた風景を前に、ドアは3センチ程しか開けられることはなかった。
ドアを開けてすぐの所にある鏡に映っていたのは、

鉄慈がセラを抱きしめてキスをしているシーンだったからだ。

「…………っっ」
気づいたら音も無く目の前のドアが閉められていた。
2、3歩ふらふらと後退すると、ポン、と肩を叩かれる。
振り向けば、そこには譜生が居た。
「…ふ、う、さん…」
「――出ようか」
にっこりと意味深長な笑みを浮かべて、譜生は小声でそういうと歓人をその部屋から連れ出した。


「――驚いた?」
それから譜生が歓人に話しかけたのは、ワカが運転する車の中でだった。スタッフを巧みな話術で外に出させ、ドアには厳重に鍵を掛けていた。あれで、セラと鉄慈の仲が露見することはまずないだろう。
「そりゃ……驚きますよ」
「珍しい、歓人がそんな声を出すなんて。譜生、何か見せたの?」
ワカが一糸乱さぬキレイなハンドル捌きをみせながら譜生に聞いた。譜生は口元に手を当て苦笑する。
「ああ…鉄慈とセラのキスシーン見せ付けられちゃってね」
「おやまあ」
棒読みのワカの感嘆詞に、歓人はズルズルと広い車の中でだらしない格好になっていった。
「何だよワカさんまで知ってたのかよ…な、いつからなんだ、あの2人」
「結成当時から」
「私はてっきりデビューアルバム発売後からかと。ま、いずれ露見する事だとは思っていたから、譜生に言われて信じられないってなるよりは、事実を見せ付けられて納得するほうが歓人向きだろう」
車が赤信号で止まる。いつも向かう譜生のお気に入りのトラットリアとは逆の方のウィンカーが点滅しているのを、歓人は訝しげに眺めた。
その寄せられた眉根に、譜生は首を傾げた。
「歓人?そんなに衝撃だった?」
「まさか今更気持ち悪いなんて言うのか、歓人」
ワカがバックミラー越しにニヤ、と笑みをつくって見せた。そこらの男よりも余程男らしい、立派にニヒルな笑みだ。
そんなんじゃない、と歓人は緩く首を横に振った。らしくない緩慢な動きに、おやおやと譜生は肩を竦める。
「俺が気になってるのは、譜生さんが俺をこれからどこに連れて行く気なのか、という事と、何で喧嘩してる2人が急にキスなんかで黙りこくれるのかって事」
拗ねた口調で言う歓人に、一瞬譜生は硬直した後、少しの間を置いてから大笑いした。
一年でも数回しか見ることのできない譜生の大爆笑に、歓人は目を瞬かせる。
涙まで出たのか、目尻を人差し指で拭いながら譜生は参ったな、と呟いた。
「いやあ、歓人ってほんと…ああ、おかしいったら」
「譜生さん…それははぐらかそうとしてんですか」
「いやいやいや、歓人は真っ直ぐで初心な良い子だなあと思ってね。だからあんな歌詞が思いつくんだ。ラブソングが書けないのも頷けるよ」
始めの行は今まで何度か譜生に言われたことがあったが、最後の言葉に関しては心外だった。
「それとこれとは違うって」
思わず声が大きくなる。
「いいや、違わないね。…歓人はさ、さり気に恋とかちゃんとしたことないだろ」
「…………俺まだ20だし」
「お前、この間はもう20だって言ってただろ。そんなに図体でかくて大人びた顔してるんだから、ファンだって絶対お前が女慣れしてると思い込んでる」
「女友達なら沢山いるって…」
その反駁に、譜生はチッチッチと人差し指を振って見せた。この間ロカビリーな感じの曲のPVでもみせていた仕草だ。
「そうじゃない。お前は自分が大きすぎて周りに目が行かないんだ。ま、歓人みたいなオーラの人間だと、同レベルに輝いてる人間を見つけるのは至難の業だとは思うけど」
「オーラって…またその話」
あーあ、と歓人は額に手を当てた。楽器を持つときは立てられる短めの黒い前髪も、今は重力に従っている。
くすくす、と譜生は心底面白そうな感じで笑っている。それが歓人には気に入らない。
「別にさ、恋をしない事もラブソングが書けない事も、きっとお前の音楽人生には関係ないんだよ。だけど…」
「……だけど?」
「燃え上がる恋をしてるお前が弾くギターが聞きたい、俺はそれだけしか考えてない」
「…………………微妙に俺の音楽コンセプトと異なってるんだけど?」
「素直に『前向きに検討する』とか言えないのかな、お前は」
それが歓人なりの甘えだと知っている譜生は、歓人の髪をぐしゃぐしゃと撫ぜてから、いつの間にか停まっていた車から降りた。
「さ、ここだよ。言うより見るが早し。ゆっくり語り合おうか、歓人君?」
「…ここは…?」



もうすっかり暗くなっている、閑静な住宅街の夜。

だが、彼らが降りた先には綺麗に蔦の生えた壁に包まれ、暖かいアンティーク調のランプが灯った、静かな店が密やかに存在していた。