チャイルドバードの声
01

――深沢登己(ふかざわ・とき)の朝は早い。
大抵朝の6時には、アラーム代わりのレトロポップスが部屋中に鳴り響く。それで起きられない事は今まで一度も無い。
起きて初めにする事は、階段を降り洗面所へ向かって、顔を洗い髪の毛を立てることだ。
決してハードにガチガチと固めるわけではないが(大体自分の様に猫っ毛の髪は立てにくい)、ソフトにでもしっかりと毛先をツンツンにさせる。母親にはこの間『いつまでたってもツンツンのヒヨコ頭ね〜』と、おっとりとした声で言われてしまった。最近では登己自身も自分の頭をそう呼ぶようになってしまっている。
ツンツンヒヨコ。
反抗する気もない割にしっかり立てているオレンジ色の髪は、そう呼ばれても仕方ない。背も168で止まってしまったらしいし、遅い反抗期を迎えるにはあと数ヶ月で21歳となる登己にはそれこそ今更な感じだった。

「登己〜!今日はベーコンエッグで良いかしら〜」
「良いよ」
そう洗面所から台所へ声を返してから、お気に入りの赤いフレームの眼鏡を掛けた。生まれつき色素が薄めなので、サングラスの役割もはたせるようにと色も入れてある。そのグラスを通して鏡を見れば、いつもどおり、「とっつきにくい」深沢登己の出来上がりだ。
「頂きます」
「はいどうぞ。あ、登己、今日の予定は授業だけ?」
トーストにベーコンエッグを乗っけて食べていると、母親は地毛らしい栗色の髪を揺らすように首を傾げながら訊ねてきた。登己は母親とはよく買い物にいったり食事に付き合ったりしているのだが、今日ばかりは眉根を寄せる。
「あ〜…今日は友達と予定がある」
「え〜〜!折角美味しいケーキ屋さんを教えてもらったから一緒に行こうと思ったのに〜」
「ごめん」
大げさに残念がってみせる母親に心から謝ると、彼女は一転して「でも」と話しだした。
「珍しいわね、登己がお友達と一緒にどこか行くだなんて。もしかして大学入ってから初めてのお友達?」
その言葉に飲みかけのオレンジジュースでむせてしまいそうになった。図星もいい所だったからだ。
「…まぁ、うん。多分、仕事の事も教えると思う」
今度は母親が目を丸くする。両手をパチンと可愛らしく合わせる様は、とてもじゃないが大学生の子を持つ母には見えない。
「あらあらあら!それじゃあ大親友候補さんね!お父さんに伝えなきゃ」
「そこまでしなくても…母さん、俺もう21だよ」
「可愛いヒヨコさんのくせにそういうこと言わないの!あ、あとエイジャックスの宮下さんから連絡下さいですって。コーンウェルのアルバートさんからも来てたわよ」
「俺の仕事用ケータイ勝手にいじんなって…あーもう、はいはい解った。ごちそうさま、行って来ます」
赤い闘牛の形をしたケータイを母からとって、昨日から玄関脇に置いたまんまだったショルダーバッグを方に引っ掛け靴を履いた。デザイナーズコラボのハイカットスニーカーのつま先をトン、と玄関先で叩く。
「今日は指輪はいいの〜?」
後ろからパタパタとサンダルで母が玄関先の門まで送りにくる。小学校から変わらない日課のようなものだ、今更恥ずかしがるなんて感覚は無い。
「1、2限が試験だからいい!」
ちら、と振り返って言うと母は片手にゴミ袋を持っていた。そういえば今日は可燃ごみの日だ。
「あらそう、行ってらっしゃ〜い」
背中にかけられる母親の朗らかな声を、小鳥の囀りと同じようなレベルで処理しながら、登己は青空に映えるオレンジの髪を俯かせることなく歩き始めた。
――家から大学まで、歩いて15分。








「へえー、本当に仲良しなんだ、深沢家」
人文系特殊教棟の地下にある音楽室で、登己の隣にいる男、積田尚志(つみた・なおし)は微笑ましそうに言った。
周りには前後左右に席をいくつか空けて、眠そうな顔をした学生達が座っている。
それもそうだ。普通、登己の隣に好んで座ろうなんて奴はまずいない。
その点、尚志は例外中の例外だった。彼は四月初めの授業でふらっと窓際の登己の隣に座って、
『あのさ、西洋美術史も取ってるよね?』と訊いてきたのだ。
友達が他に誰もその2つの授業を取っていないから、新しく誰か知り合いを作ろうとしにきたらしい。
ノート目当てなら他を当たったほうが得策だぞ、とさりげなく言ったら――といっても大学で誰かと話したことなんてディスカッションの時以外初めてだったが――、尚志はノートには自信があるんだとふわっとした笑顔で言ったのだった。
取り様によっては間の抜けた笑顔に見えたのかもしれないが、少なくとも登己からすればとても優しそうなものに見えた。
しかし、同時にその笑顔で1つの事柄にも思い当たった。
――こいつ、確か作家じゃなかったか?
去年だか今年の初めだかに図書館で聞いた他の学生の言葉を思い出す。図書を前に凄い勢いでノートをまとめていた尚志に向かって、友人らしき人間が『そういう所が作家ぽいんだよな』とか何とか言っていた。その時はそんな事を言える友がいるのは羨ましいと思ったものだが、実際に会ってみて思うのは、あまり他人に何をどう呼ばれようと気にする事がない人種なだけなのかもしれない、ということだった。そうでなければそう簡単にオレンジ頭のパンクじみた男に話しかけたり出来るわけがない。
他人に興味がない人間が、そうそう友達作りに励むようなものではないだろう、と思ったが、案の定尚志も『自分の集中力を止めてくれる人間がいないと指されたときに困る』という理由から見た目が目立つ登己を選んだだけだったらしい。話して行くうちにそんな事実が発覚して、でもそのあっけらかんとした言葉が登己は気に入った。

「まぁなー…今年も夫婦揃って年越し旅行するらしいし」
「ん?あれ、登己は行かないの?」
尚志がその男にしては綺麗な黒髪をかきあげるようにして聞いてきた。うっとおしいなら切るか立てるかすればいいのだ、と思うが、その髪型が結構似合っているのだから登己は何も言わない。
「色々用事もあるし、いい加減4年になる前だから忙しいだろ」
「まじめだな」
「尚志もな」
くくっと2人で笑いあった後、教授が教室に入ってきた。今日は音楽理論の簡単な実技試験があるが、2人とも全く心配はしていなかった。





「――でも意外だったな、登己があの店の事知ってるなんて」
「そりゃこっちの台詞。だって俺ん家の近くなんだぞ、あそこ」
「え、そうだったのか…じゃあ俺が迷った時も登己に連絡しとけば良かったのかな」
「違いないな」
午後の講義のない2人は殆ど使われていない大学の西門を抜け、手入れの行き届いていない、落ち葉だらけの街路樹の下を歩いていた。しばらく歩けばちらほらと大き目の家が見えてくるのを、この道を通学路にしている登己は良く知っていた。
大学への交通手段が徒歩であるという事実を知って驚いた尚志は、横で自転車をひきながら歩みを合わせてくれている。

今日は2人でカフェ&バーのバカルに行く事にしていた。以前から喫茶店めぐりを趣味としていた母親の所為で、登己はこの近辺の喫茶店の事を熟知しており、当然バカルの事も知っていた。
バカルはヨーロッパのどこかの小さな村の名前らしいが、そんな名前に相応しいヨーロッパ然とした洋風のちょっとした屋敷の一部を店として提供している。季節ごとの店先や中庭の花の綺麗さや店内の雰囲気にすっかり魅了されてしまった母親は、事あるごとに登己を連れて訪れていた。
それでも最近『仕事』が忙しくて行けてないなと思い始めた矢先、尚志からのお誘いを受けたのだ。偶然見つけた面白い喫茶店、ということで店の名前を聞いて思わず頓狂な声をあげてしまった事を覚えている。

だが、そんな共通点を見つけられて初めて、登己は心の中で『尚志になら打ち明けられるかもしれない』と思ったのだ。

「あの店秋になると壁にツタをはやしはじめるんだよな」
「へえ、ああいうのって夏から生やすものじゃなかったんだ」
「普通はそうなんだけどな、あそこはわざと急に生やしだすんだよ」
そんな世間話のようなものを話しながら、登己は頭の中でどういう順番で告白しようか、その算段をしていた。尚志ののんびりとした声が伸びる。こういう所は母親にすこし似ているかもしれない。
「あ〜〜…確かに、経営者の趣味っぽいけどねえ」
「冷清水さんだろ?俺あの人がミステリ作家だなんてこの間はじめて知った」
「へ、登己本好きなのに知らなかったんだ?」
「俺純文学派だからなあ。あれだ、Bacco(バッコ)読んで知った」
「…………読んだの…………」
Bacco、とは最近創刊されたミステリ小説誌だ。SFよりのミステリもライトノベルより本格的に、ある種本格SFや本格ミステリと呼ばれるものよりもそれらしい内容で、大小さまざまな書店にガツンと平積みされている。イタリア語のお洒落なタイトルと装丁にも関わらず、タイトルの下には小さく『跋扈』と書いてあるのも面白くて登己も購読し始めた。
そんなBaccoのメインに踊る人の名前はずばり「冷清水貴文」と「士猶辰巳」だ。前者はこれからいく喫茶店及び屋敷のオーナー(ちなみに本名らしい)で、後者は尚志のPNだ。
雑誌名を聞いて急に項垂れた人気作家の背中を叩いて笑う。
「面白かったよ、『白い花と爪』だっけ」
「あれ三日で書き上げたしボロボロだと思うんだけど…」
「そうなのか?ファンタジーじゃないのにあんなに不思議な話読んだの初めてだった。怖めだったし」
「ああいうのはファンタジー要素を抜くから怖くなるんだよ…あれをファンタジーにしたらちっとも怖くなんてなくなる」
「そうかー?俺あそこが一番怖かったけどな、ほら、ベランダの白い花がさ…」
「そこは編集の腕の見せ所だったよなあ、尚志君」
「は」
傍から聞けば初々しい文学少年達の会話は、前方から投げられた低めのテノールの声で邪魔をされた。その声に聞き覚えのあった登己は、前に立つ男を見て「げ」と不快感も露な声をだす。
男も特徴ある登己に気づいたのか片眉を上げた。
「あれ、君は…」
「岩住さん、仕事は?」
しかし、いい掛けの言葉は尚志の質問によって遮られた。聞かせることのないその棘のある声に登己も若干吃驚して肩を竦める。岩住、と呼ばれた男はこめかみを人差し指で掻いて苦笑した。
「えーーーと、あはは。今貴文の原稿待ちでさ。で、横の君は…」
「………」
「確かトキ君、だよね?」
「……まさか人攫いだとは思わなかった」
「え」
「登己?まだ根に持って…」
はぁ、と溜息をつく尚志を一瞥し、登己はキッと岩住を睨んだ。

岩住は先日、構内を歩いていた登己と尚志の前に突然車で現れて尚志を攫っていくという荒業をやってのけた『イイ大人』だ。後に電話で色々聞きだした時、結局その2人が付き合うことになった事を聞き、受話器を何メートル離しても聞えそうな位大きな叫び声を出して驚いたのは記憶に新しい。
恋愛には色々な形があるし、登己の『仕事』上、そういった嗜好の人間も多いから別段差別的な態度を取る気にはなかったが、尚志のような恋愛に全く興味ありません然とした人間から聞くとやはり衝撃を覚える。

それに、数少ない登己の『仕事』の内容を知っている人間が、尚志と深い付き合いになるとは思ってもみなかったのだ。


「お客様方、こんな往来でお話するよりもまず中へいらしてくださいな」
店先でああでもないこうでもないと言いあっていた男三人は、そんな柔らかい声でピタっとその口の動きを止めた。
くるり、と三人揃って後ろを見れば、そこには長い黒髪を後ろでゆるく三つ編みに結った穏やかな女性。
「中前さん…」
尚志が思わず女性の名前を呼ぶ。
「あら積田さん、いらっしゃいませ。今日は岩住さまではなくて登己さんとご一緒なんですね」
「久し振り、由麻(ゆま)」
勿論、この人の事は登己もよく知っていた。中前由麻は、登己が母親と初めて店を訪れたときから変わらずこの店の昼を切り盛りしている店員だ。登己は彼女以外の従業員を見たことがない。何度も店を訪れるうちに色々と話をするようになり、今ではすっかりお互いの名前を呼び合う仲だ。おっとりとした母親と、物腰が柔らかいのに言うべき所は言う中前もとても馬があうようだ。
「中前さんて由麻って名前なんだ…」
感心したような口調で尚志が言う。梅雨の頃からこの店に通い始めたと聞いていたが、まぁ普通の客なら彼女のフルネームを知らなくても当然だろう。
「兎に角、中に入ろうか」
まとめの言葉らしきものを吐いた岩住に、登己はまたキツイ眼差しを向けたのだった。


「そういや今日話があるって聞いてたけど…」
窓際の、向かい合わせにソファが置いてある席に腰を下ろして、尚志は口を開いた。
そんな事を今更言うのは、登己が岩住を蹴散らすようにしてロフトの上においやったからだ。そのただならぬ勢いに、友達と居るところを見られて機嫌が些か悪かった尚志も肝を冷やしたらしい。
「おう、そうじゃなきゃ人払いなんかしないって」
「あー、成程ね…でも岩住さん何か知ってるような素振りだったけど…」
「あいつにはたまたま知られたんだ。不覚だった」
「…で、何なのその話って。出生の秘密とか?」
いやに真剣な表情で訊ねてきた尚志の顔に、登己は危うく紅茶を噴きかける所だった。
「っ…、ったく、そんなのは大して重要じゃないよ、ごく普通の日本人家庭に育ったぞ」
「へえ」
本当は少しだけ嘘だ。登己の家族は皆どこか一味違う。大体父親と母親の出会いの地がインドだなんて、コメディを聞かされてるみたいで未だに信じられない。
カチャ、と鳥の絵が描かれたティーカップをソーサーの上に置く。
「お前ってさ、作家とかやってるって人に隠さないじゃん」
「ああ…聞かれればうんって言う位だけどね。自慢できるようなものかいてないし」
「面白いよ、お前の書く話」
「あ、りがとう。何か照れるな、…で?」
首を軽く傾げて聞いてくる尚志に、ふっと小さく息をついた。
呼吸を整えてから言おう。こういうのはリズムが大切だ。
「あのな、俺も…」


「おやトッキー!テクノ界の寵児が1人で来るなんて珍しいね!」


――突然の張りのある大声。
「冷清水さん…?!」
珍しく驚いた声をあげたのは尚志だった。
ミステリ作家にしてこの屋敷のオーナー、冷清水貴文はその声に綺麗な眉を少しだけ歪めた。
「あれ、積田君も居たのか。ということは俺、来ちゃいけない現場に来ちゃったのかな?」
「ああ〜〜〜〜〜〜〜……………!」
スタスタと近寄ってくる冷清水から顔を背けて、登己は大きな大きな溜息をついた。



――深沢登己、

全世界で支持される、テクノポップ界の押しも押されぬスーパーアーティスト、
『TOKI the Talky Bird』

その人である。