「あれ、田沼くん」
声を掛けられて田沼は立ち止まった。
裏門の前には既に人影はない。初夏の夕暮れの陽は長く、四時過ぎだと言うのに昼間のような明るさだった。
「タキ」
振り返ると、校舎脇の通路から手を振るタキの姿が見えた。小走りに駆け寄ってくるのを待って門の前に留まる。
「今帰り?」
「うん。タキも?」
「そうなの。委員会が早く終わったから、何だか半端な時間になっちゃって」
「おれも。バス全然来ない時間だから、歩いて帰ろうかと思ってだらだらしてた」
「そうよね、今の時間バス来ないよね」
「タキって家どっちなの」
「あっちのバスの方」
「おれ反対なんだ」
「そうなんだ」
「あんまりバス使ってるやついないよな」
「いないね。みんな自転車か歩き。私もそろそろ自転車にしようかなって思ってるの」
「バス来ないもんなあ。おれも自転車にしたいけど、どうしようかと思って」
「迷うよね」
「そう、雨の日とかなあ」
並んで歩きながら笑った二人の傍に人影はない。誰もいない道には初夏の陽射しが射し込んでいる。心地いい風が吹き、背に陽の温もりを受ける道をのんびり歩いて行くのはなかなか楽しい。
タキはゆっくりと背伸びする。田沼もつられて、二人は空を眺める。雲が僅かにオレンジ色になりはじめていた。
何気ない仕草で腕を下ろし、タキは口を開く。
「夏目くん、もう家帰っちゃったかなあ」
「帰ったと思うよ。北本はもうとっくに帰ってたし」
「北本くん? ってだれ?」
「うちのクラスのやつ。夏目の友達」
「へえ、その人って」
「そいつは見えないらしいよ。妖の事は何も言ってないって言ってたから、おれも何も言ってない」
「そっかあ。ねえ、夏目くんって、見える友達って私たちだけなのかな」
少し俯いて、どこか深刻な表情をするタキに田沼も眼を曇らせた。
それはずっと気になっている事だった。夏目は田沼には肝心な事は何も話そうとしない。多分タキにもそうだろう。夏目は一番深刻な苦労や苦しみを誰にも分けようとしない。
「そんな気がする」
「……そうだよね」
「でも、何も言ってくれないしな」
「うん」
きっとそれは彼の優しさなのだろう。だけど、少しだけ彼の内側に踏み込んでしまった二人には悲しく思える。
友達なら、その悲しみを分けてくれればいいのに。苦しみも、重みも、誰かと一緒に背負えば少しは軽くなるのに、決して夏目はそれを分けてはくれないのだ。
二人、黙ってため息をつく。
そこにガサガサと音がした。草の陰から見慣れた白い固まりが耳を覗かせる。
「ん? あ、ポン……」
「猫ちゃ――――ん!!」
田沼が間違った名前で呼ぶより早くタキが駆け出した。繁みから顔を出した猫が蒼白になってびくっと固まった。
「猫ちゃん! どうしたの猫ちゃん! ああかわいい!!」
真っ青になって固まった先生を掬い上げ、ぎゅうぎゅう抱き締めているタキに慌てて田沼も駆け寄った。ぐええええと潰れたような鳴き声がニャンコ先生から漏れている。
「タキ、ポン太固まってるぞ」
「え? なに?」
「首絞まってる」
「えっ!?」
ぱっとタキが手を離すと、猫はタキから逃れて大慌てで田沼によじ登った。短い手足をばたばたさせて必死で田沼の肩に乗っかる。
肩で息をつくと、猫はしゃーっと威嚇する声を上げてタキを睨み付けた。
「小娘、殺す気か!」
「ご、ごめんね、猫ちゃん……つい」
「いいじゃないか。それより結構重いんだな、ポン太」
肩に乗る猫の重みを感じる。田沼はそっと猫を撫でてずしりと来る重みを支えた。そこで、猫はまたはっとしたように毛を逆立てた。
「しまった、小僧だったか!」
「誰だと思ったんだよ」
「夏目かと思ったわい。どうりで普段より見晴らしがいいはずだ」
「猫ちゃん、田沼くん重いって! ほらほら、おいで!」
「ほらではない! 触るな小娘!」
猫はまた威嚇する。悲しそうな顔をして渋々手を引っ込めるタキを見ながら田沼は小さく笑った。タキも残念そうにしながらも笑う。ふっと柔らかい空気が流れた。
ひとしきり笑った後、タキは今度はそっと猫を撫でた。
「田沼くんも猫ちゃんのこと知ってるのね」
「うん。この前おれの前で喋って夏目に怒られてたよ」
「うるさいわ、小僧め」
「そうなんだ。私は猫ちゃんが喋ってくれたの」
「へえ。にしてもタキ、猫好きなんだな」
「ええ、猫ちゃん大好きよ」
「ポン太が?」
「そう!」
「へー。こんなぶっさいくなのに」
「ぶさいく言うでない!」
きーきーと騒ぐ猫と二人の傍には相変わらず人気はない。田舎道には夕暮れが迫りだし、鮮やかなオレンジ色が空に射し始めている。
そこに、ぽつりとひとつの影が落ちた。
「む?」
「どうした、ポン太」
「おい小僧、あれが見えるか?」
猫が短い手足で田沼の肩を叩いて学校の裏門の近くを指差した。そこに、何か黒い影が蠢くのが田沼の眼に映る。
「……影が、見える」
「何か、いるの?」
「うん、多分……はっきりとはわからないけど……」
「夏目がおらんと不便だな」
「そういえば、夏目くんは?」
「家に帰っておるんではないか」
「ポン太は何でこっちにいたんだ?」
「パトロールだ。しかし、妙なもんが引っかかったな」
猫は田沼の肩の上でじっと眼を凝らす。耳をそばだて、何かを聴き取っていた。
「あやつ、お前を狙っておるようだぞ」
「え? おれ?」
田沼が自分を指差したと同時に、黒い影がさっと素早く動いた。
その動きは早く、ぼんやりとしていた田沼の眼には追いかけられない程の早さだ。
「え……」
「避けろ小僧!」
緊張感のある声で叫ぶと同時に、猫が田沼の肩から飛び降りる。蹴られた衝撃でふらついた田沼の脇を黒い影が横切った。
「うわあ!」
「田沼くん?!」
ぐらりと道に倒れ込んだ田沼にタキが駆け寄り、猫が二人の前に立ちはだかった。勢いのついていた影はそのまま土手を滑り落ちて消える。
「何だあれ?!」
「さあな。とにかくお前を食いたいらしいぞ、小僧」
「ええ?!」
「ど、どうして田沼くんを?!」
「知らんわ。とにかく逃げるしかなかろう、夏目に……」
そう猫が夏目の名を呼ぶと、どろんと煙が立って妖が現われた。田沼とタキには風で土が舞い上がったようにしか見えなかったが、猫は眼を見開いて宙を見詰めた。
「ブタ猫!」
「うおっチリチリパーマ! 何だお前、名取の小僧はどうした!」
「主様があれを追っている」
「何だ、あの黒いやつか?」
「そうだ」
「またか! 全くやたらと面倒を持ち込むな! すぐに小僧を連れて来い、ひとまずはこいつらを守ってやる!」
「すぐにお呼びするわ!」
猫が怒りながらばしばしと地面を叩いている間に、笹後はどろんと煙を立てて姿を消した。また土煙が立ち、田沼とタキは眼をつむって砂埃をやり過ごす。
「ポン太、一体……」
「名取の小僧……いや、お前らは知らんかったな。夏目の友人で妖を祓うのを生業としている小僧がいる。やつがあれを追っている」
「妖……祓い?」
「とにかくやつが来んとどうにもならん! 逃げるぞ!」
猫が飛び出した後に、二人が慌てて続く。
土手の下からは黒い影が這い上がってきている。
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2009/03/08