箱庭にて -9




 体育館は暑かった。
 汗ばむ身体を持て余し、名取は本日何度目になるか解らない水分補給をした。
 七月半ばを過ぎた夏休み直前の今日の授業は午前中で終わっていた。もう昼は過ぎており、既に大半の生徒が帰宅してしまっているが、演劇部にはそんな余裕はない。いつも夏休みなんてまともにないと聞いている。
 何せ、演劇部の大会予選は夏休み真っ只中の八月上旬だ。何でそんな時期に設定するんだ、と恨みたくもなるが、上部の決定に名取が逆らえる筈もない。それ以前に、誰に文句を言えばいいのか解らない。
 ペットボトルのスポーツドリンクを一気に飲み干す。温くなった水が喉を潤した。

「せーんせー、買ってきたよー!」

 入口から声が掛かる。買出しを頼んでいた一年生の女子が顔を覗かせていた。手に持った袋には山のようなペットボトルとアイスが入っている。

「お疲れ様ー。飲み物買ってきたから休憩にするよー」

 舞台の上と下に揃って声を掛けると、ほっと全員が息をつくような声がした。舞台から次々と上級生たちが降り、舞台下でせっせと縫い物や工作をしていた一年生も手を止めて名取の近くに寄って来る。
 買出し部隊の女子たちが買ってきたペットボトルとアイスをどさりと床に置くと、子どもたちが一斉にざわめいた。

「わーアイスだー」
「うれしいー!」
「先生ありがとー!」

 喜ぶ声がして、名取もまた笑う。子どもたちは口々に感謝の言葉を述べながら、アイスとペットボトルを次々奪って行く。全員に行き渡ったのを確認してから、名取も残ったアイスを取った。

「これ、佐藤先生が買ってくれたんだから、みんな明日お礼言うんだよ」
「はーい」
「わかりましたー」

 素直な声が還ってくる。子どもたちの高めの声は耳に心地いい。
 ゆっくりと周囲を見渡すと、子どもたちはそれぞれ仲のいい友人たちと固まって喋ったり寝転がったり自由にしている。その輪のどこにも夏目はいなかった。
 当たり前だ。きっともう彼はここには来ないだろう。そう仕向けてしまったのは名取だ。
 知らずため息をついた。

「ねーせんせー、聞いてもいい?」

 甘えるような声。ふっと見回すと、気付かないうちに数名の女子が名取の周囲を囲んでいた。しまったな、と思ったが後の祭りだ。
 くすくすと笑い続ける少女たちの声に気が沈むが、それを表に出さないように名取は笑った。

「ん? なに?」
「先生は、何で先生になったの?」

 無邪気な質問に名取は一瞬天井を見上げた。
 教師になろうとしたのは何故だったか。思い出そうと脳裏を探ると答えは案外すぐに出てきた。

「うーん、夢だったからなあ、先生になるの」
「そうなの?」
「そうそう、昔から」

 そう言うと、少女たちはへー、と一斉に頷いた。
 確かに教師になるのは幼い頃からの名取の夢のひとつではあった。知識を得て、それを誰かに教えるのが好きだった。感心されたり、頼られたりするのが楽しくて、漠然と学校の先生になろうと思っていた時期がある。それを引きずったまま大学に行き、教職課程を執った。
 だが、大学生活に入ってもっと心を持って行かれたものがある。
 名取が誰かを演じる事に果てない魅力を憶えたのは大学時代からだ。いつしか教師への夢は演劇へとすり替わって行っていた。一時、名取は本気で俳優になろうと思っていた。
 しかし、歳を取って現実が押し寄せた時、唐突に夢を見ていられなくなって名取は唖然とした。就職と言う選択肢が眼の前に提示された途端、何もかもに現実味がなくなってしまった。叶うはずもない馬鹿げた夢を追いかけていられなくなった。
 そうして、大きな夢を小さな夢に戻し、名取は教師になる道を選んだ。
 苦い想いが胸を過ぎる。

「夢を実現したってこと? 凄いよねー」
「……まあ、そうだね」

 感情は決して表に出さない。変わらない笑みを浮かべたままアイスを齧ってそう返すと、甘い冷たさが口内に染みる。
 口の中に冷たさが溶けて行った後、知らず知らず声が漏れた。

「みんなは、将来の夢は何だい?」

 余り大きい声で呟いたわけではないが、少女たちは目ざとく名取の言葉を拾った。笑顔を零しながら口々に語りだす。

「あたしは保育士ー」
「そうなの? 知らなかった」
「私は考えてないなあ、進路は文系だけど」
「私も考えてない。ねー、部長は?」

 アイスを齧りながら他の少女たちと喋っていた部長に声が掛かる。ふっと振り向いた彼女の笑顔は今はひどく柔和で、周囲に溶け込んでいた。

「何の話?」
「将来の夢は? だって」
「私は演出家になるわ」

 さらり、と。確かな声音で確信を持って、部長はそう断言した。
 息を呑んで彼女を見る。こうやって確信を持って喋る人を名取は何人も見てきた。

「相変わらず言い切りますねー部長は」
「そりゃあね、なるって言ったらなるもの」

 力強い宣言に、少女たちから笑い声と拍手が巻き起こる。
 彼女たちの声を遠くに聞きながら、名取は息を止めていた。
 大学時代、名取はたくさんの人と出会った。その人たちは大概大きな夢を抱えていた。彼らはどれほど幼くても、またどれほど年寄りでも、抱えた夢に対して妥協をしなかった。今、部長がそうしたように、将来なりたいものに絶対になると力強く断言していた。そう言い切った強さを持つ人は、みんな確実に夢を手にして行く。
 名取はそうはなれなかった。強く言い切れず、抱えきれず、現実を突き付けられた瞬間に未来から手を離してしまっていた。
 かたんと音を立てて体育館の温度が下がるような気がする。もう取り戻せないものがいくつも眼の前に在った。ひどい困惑と苦い思い出に胸が痛む。
 けれど名取の動揺になど誰も気付かない。部長はアイスを食べ終わると、立ち上がって周囲に宣言した。

「食べ終わったし、休憩終わり! 時間ないよ、やろう!」

 部長の声に子どもたちが息をついて立ち上がる。きゃらきゃらと騒がしい声と共に子どもたちは名取に次々手を振って去っていった。
 手を振り返しながら、名取も立ち上がる。ゆっくりと歩を進めると、子どもたちに背を向けてそのまま体育館を出た。
 ひどく沈んだ気持ちだった。名取が手放してしまったものを眼の前で見せ付けられてとても切なくなる。
 痛みが染みるようだった。暑い陽の光を遮れず、名取は足を引きずるようにして資料室に向う。

「……暑い」

 呟いた自分の声が、余りにも力なくて苦笑が零れた。何度となく抱いてきた後悔が渦を巻く。
 立っていられないほど打ちのめされていた。誰のせいでもなく、自分自身の不甲斐無さに。
 ずるずると身体を引きずるようにして資料室に向う。階段がやけに辛く感じた。
 長い長い廊下を進み、辿り着いた資料室のドアを開けても風は吹いていなかった。
 誰もいない部屋を進み、硬い窓をこじ開けると今度こそ風が吹き抜けた。机の上に置かれた数冊の本のページがばさりと翻る。
 風に髪を巻き上げられながら、あの日同じ景色を眺めていた人を思い出してしまう。幾度も抱いてきた後悔がもうひとつ重なる。
 夏目にひどいことを言った。
 あんなに、大事だったのに。

「……そうか」

 一人呟いて、名取はいつかのように窓枠からぶら下がった。
 やっと気付いた。
 大事だった。大切にしていたかった。だからあの手を振り解いてしまったのに、今はあの縋り付いてきた手に焦がれている。
 会いたかった。あの髪を撫でていたかった。大事にしたいと思う感情は、きっと傍に居たいと思う感情と比例している。一緒にいたかったんだ。
 それなのに、彼の為なんて理由をつけて手を放してしまった。離れれば離れるほど、彼の孤独は傷を広げるばかりなのに。それを、知っていたのに。
 何度間違えれば気が済むんだろう。
 今まで手放してきたものの全てに後ろ指をさされているような気がしている。
 どうすれば取り戻せるのか、解らなかった。



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2009/04/21