箱庭にて -8




「部長、読んだよー」

 くたくたに疲れた身体を引きずって何とか体育館に辿り着くと、その舞台上は相変わらず緊迫感に満ちていた。
 ここ数日の間、名取は体育館に全く寄れなかった。ひとえに前期試験の採点のせいだ。
 問題を作成するだけでも初めての名取には一苦労だったのだが、採点もまた同じくらいに苦労した。試験終了後から夜遅くまで職員室にカンヅメの日々が続き、精神的にも体力的にも疲弊しきっていた。
 だが、すっかり猫を剥がしてしまった部長は名取の事情など完全無視だ。今日も相変わらずで、ついさっきも荒い足音を立てて職員室に踏み込んで真っ赤に添削された台本を叩き付け、さっさと見て下さい、と捨て台詞を吐いて出て行った。
 それに呆然とする名取に職員室中が苦笑を零し、職員の一人が慰めるようにお茶を入れてくれた。茶の礼を言いながら、名取は何とも情けない気持ちで台本に向かわざるを得なかった。
 それから何とか全て読み終えてチェックを行うと、もう五時を回ってしまっていた。

「どうですか?」
「うん、これで進めて。科白の変更点だけは注意して」
「ありがとうございます。次やるよ、みんな集まって!」

 部活動終了時刻まではあと三十分ほどしかないが、相変わらず舞台上は活気と緊迫感に満ちている。
 それに反するように、床に座り込んで大道具を作り衣装を縫う一年生たちは和やかそのものだった。息をついて名取が何となしに彼らを見ると、その輪の中に夏目がいない事に気付いた。

「あれ、夏目は?」

 少し心配になっていつもの面子で固まって喋っている男子たちに声を掛けると、彼らは揃えたように一斉に振り向いた。
 子どもたちは揃って開襟シャツになっていた。まだ肌寒さを残していた雨の季節はつい数日前の天気予報士の宣言によって終焉を告げ、どんよりとしていた空はすっかり青色に変わっている。陽が暑く照り付け、校庭の乱反射が眩しい季節になった。
 そんな季節に、誰だって暑苦しい学ランを着て無駄な汗をかきたくはないだろう。風の通るシャツを着た子どもたちが少し涼しげに見えた。
 体育館に風が吹き抜ける。髪を風に揺らした子どもたちの中で、田沼が一番に口を開いた。

「今日は家の用事があるって帰りましたよ」
「そっか。昨日も来てたかい?」
「毎日ちゃんと来てますよ。もう演劇部入ればいいのになあ」
「なあ。西村も」
「おれは考え中ー」
「決めちまえよ!」

 からからと相変わらずの子どもらしい笑顔を三人は零している。それにほっとして、名取はありがとう、と手を振ると体育館を後にした。
 本当は少し心配していた。名取が頻繁に来られなくなり、補習もなくなった今、夏目が演劇部に関わる理由はない。正式には入部していないのだから引止めるわけにもいかないし、このままドロップアウトしてしまうのではないかと思っていたからだ。
 だが予想は外れたようで夏目は相変わらず律儀に演劇部に関わっていてくれている。その様子が解っただけでも良かった。

「暑いなー」

 体育館から校舎に戻る渡り廊下で一人呟いて、名取は夕方だと言うのにまだ暑苦しく温度を上げる太陽の光を手で遮った。
 一瞬、涼しげな表情の夏目の姿が脳裏に過ぎる。
 ゴールデンウィーク明けの転校初日から今まで、ほぼ毎日夏目と顔を合わせて近くで喋っていたのにここ数日は彼の顔をほとんど見ない。たまに廊下で見掛けて眼が合っても、友人たちと一緒に笑う彼を見るだけで安堵してそのまま声も掛けずに過ぎてしまっていた。
 ほんの数日の間しか経っていないのに、ずっと声を聞いていない気がする。
 けれど、本当はそれでいい筈だった。教師と言う生き物は本来ならそうそう簡単に子ども達の世界に手を伸べてはならないものだと名取は知っている。生徒たちに深く踏み込まないようにしていたし、今だってそうしている。
 これほど深く、奥底まで触れてしまったのは夏目だけだ。今までも、きっとこれからも。
 もう名取は夏目から手を引いてしまおうと思っている。元々、彼を庇護するのは保護者で、教師である以上彼の友人にもなれない。これから先の夏目を支えるのは家族と友人で、決して名取ではない。
 知らず知らずのうちにため息をつく。そう決断しているのに、どこか澱んだ気持ちが腹の底に溜まって行くのが不快だったからだ。
 その感情の正体が、解らない。
 校舎を進み、名取は自らの部屋と化している資料室に向った。
 特に用があったわけではない。何となく、あの眺めのいい窓から夕暮れの空を眺めれば気持ちが晴れるような気がしていただけだ。
 廊下の端にある資料室に着く。からりと音を立ててドアを開けると、窓を閉めているはずの部屋から風が吹き抜けた。
 閉め忘れたのかと思い窓に眼を向けると、そこには先客がいた。

「……夏目?」

 窓枠から夏目が身を乗り出している。いつかの初夏の日に名取がしてみせたように、危なっかしく落ちそうなくらい窓から身体を出して外を眺めている。
 ゆっくりと子どもは振り返った。夏の風が色素の薄い髪を揺らしていて、夏目の当て所ない雰囲気がより際立つように見えた。

「名取、先生?」

 感情のない声。名取はその声をよく知っている。表情のない眼差しと、表情をなくした声が名取を見た。
 とん、と心臓が跳ねる。あんな表情は、もう彼はなくしてしまった筈なのに。

「……帰ったんじゃなかったの?」

 跳ねる心臓を押さえつけるように深く呼吸をしながら、名取は何もないような顔を繕って夏目に歩み寄る。夏目は表情のない眼をしたままだ。
 見てはいけないと思った。これ以上夏目を見ていたら取り返しがつかなくなる。そう、どこかで警告が鳴っている。
 けれど歩を止める事も出来ない。名取が傍まで近寄ると、夏目は息を呑んで窓枠に背を預けようとした。だが、窓は大きく開いている。

「夏目!」

 細い腕が窓の外に飛び出そうとしていた。ぐらりと身体を傾かせ、夏目は空に落ちようとしている。
 慌てて夏目の腕を掴む。ぐいっと引っ張ると、まだ小さな身体が室内に戻った。勢いを付けすぎたせいで夏目は名取の腕の中に倒れ込む。
 そのまま二人は床に倒れていた。ガタン、と大きく音が響く。

「いて……」

 名取はテーブルに足をぶつけていた。痛みと共にテーブルが大きく揺れ、積まれた書類がバサバサと音を立てて二人の上に舞い落ちる。
 紙に囲まれた床の上で夏目は名取のすぐ眼の前にいた。足が絡み、俯いた子どもの淡い色の髪がぱさりと首すじに触れる。
 心臓が音を立てた。

「すみま、せん」

 震えた声で夏目は謝罪を口にした。小さな声は名取の耳に落ちて、すぐ消えて行く。カーテンを揺らす風が声を流していくような気がしていた。

「……いや、いいんだ。でも、何で」

 名取の声もまた震えていた。跳ね上がる心臓の音がうるさくて身体が上手く動かせない。
 動けない二人の間を風が吹き抜けた。

「……外を、見てました」
「……うん」
「わからない、事があって」
「わからないこと?」
「……ここに来れば、わかるかと、思ったんです。でも、わから、なくて」

 ぺたりと座り込んだ状態で夏目はひどく困惑したように震えている。怖々と名取のシャツを掴むのが解った。
 何を。
 何を言っていいのか、何を言うべきか解らなかった。ただ、選択を誤ってはならないと、そればかりが強迫観念のように名取の脳裏に渦を巻く。

「どうしても、わからないことが、あるんです……教えて下さい、先生」

 夏目の小さな声が耳を割くように響いた。あんなに小さな声がこれほどまでに脳を揺らすなんて知らなかった。

「友達が、出来たんです」

 震える声が告げる内容はとても喜ばしいものだった。名取は夏目が友人を作り、家族に受け入れられて、ごく普通の幸福な生活を得る事を望んでいた。そうなって欲しくて、彼の背を押していた。その為に彼から離れようとしていた。
 だから、それは良かったね、と柔らかに告げていつものように彼を褒めようと思っていたのに、一瞬の戸惑いが声を押し留めてしまう。
 それは間違いだったのだけれど。

「友達が出来て、先生以外と、話すようになって……そしたら、先生が、来なくなった」

 とても、とても苦しそうに夏目は声を絞り出す。震えた手がシャツをきつく掴んでいた。
 振り解くことも、止めることも出来ない。ただ、彼の声が名取の耳で木霊している。

「友達と、一緒に居るのは、楽しいです……でも、先生が、いなくて、苦しい」

 鼓動が跳ね上がっていた。これ以上聞いてはいけないと、そう解っている。
 解っているのに、名取は夏目を突き放せない。声が落ちて行く。

「おれは、何でこんなに辛いんですか?……おれに、必要なのは、誰ですか?」

 声が脳に響いた。
 そのたった一瞬の間にひどい後悔が身体中に渦を巻く。やはり迂闊だったんだと、名取はそう思い知った。
 ありがちな熱血漢で接する事の出来る子じゃなかった。孤独で悲しいこの子どもの力になるためには、彼の全部を背負う覚悟が必要だったんだ。
 覚悟を持たないままただ期待だけさせて、そして突き放してしまっていた。何てひどい事をしてしまったんだろうと後悔ばかりに囚われる。解っていたのに、どうしていつも迂闊で浅はかな真似をしてしまうのかと責め立てる声が脳に響く。心臓の音に合わせて脈打つように頭が痛んだ。
 息を呑む。今、夏目にどの答えを示せばいいのか名取は知っている。どんなにひどくても、彼を傷つけてしまうと解っていても、これ以外選択肢は無い。
 意を決して、口を開いた。

「友達だよ」

 硬い声でそう言い切る。
 夏目がはっと顔を上げた。今にも泣き出しそうな表情で名取を見る夏目に身体中が痛んだ。そんな顔、見たくないのに。

「夏目に必要なのは、友達だよ」

 それでも息をついてそう言い切る。選択肢は無かった。
 夏目は名取のシャツからするりと手を離した。

「……すみません、でした」

 俯いてそれだけ呟くと、夏目はばっと立ち上がった。そのまま名取の脇をすり抜けると、走って資料室を抜ける。
 走って行く夏目の慌しい足音を聞きながら、呆然と名取は床に座り込んだままで。
 息を呑んで、眼を伏せる。
 これしかなかった。これでいいんだと、名取は自分に言い聞かせた。

 床の上には白い紙が散らばっている。風に舞い上がった最後の一枚がゆっくりと孤を描いて落ちた。



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2009/04/17