「なーつめー」
田沼の穏やかな声に引っ張られるように、夏目は板やら何やらを抱えて彼と北本の方へと走って行く。
今日も体育館の中はざわめきに満ちている。相変わらず舞台上では張り詰めた空気が漂っているが、名取はもうよっぽどの事がない限りは彼女たちのやり取りには手を出さない事にしていた。もう一人の顧問の佐藤もそういった態度を取っている。むしろ、最近の彼は演劇部を名取に任せてしまっている事の方が多かった。本日も佐藤は出張で不在だ。
セットが壊れてしまった初夏の日から一月半ほど経っていた。まだ雨は降り続いていて、体育館の外の校庭は降りしきる雨で濡れている。
けれどもうすぐ梅雨は明けるだろう。天気予報は、週明けには雨はやむだろうと予測していた。
「なあ夏目、お前ほんとに部活どうすんの?」
「まだ考え中だよ」
「ここまで手伝ってるんだからもういいじゃん、西村も連れて来てくれよ」
「北本から言った方がいいんじゃないか?」
「あーだめだめ。あいつ昔っからおれの言う事聞かないから」
「そうなのか? 北本も割とだめだなー」
「うるせーよ、田沼」
乾いた声で笑い合う子どもたちの脇を通り過ぎ、名取は舞台に向う。相変わらず気迫に満ちた表情の部長が名取を手招いていた。
「はいはい、なんだい?」
「先生、今ここ直したから。急いで見て」
「わかったよ、ちょっと待ってね」
出来るだけ穏やかに返事をするのだが、苛立っている部長はダン、と大きく足を踏んでスカートを翻すと、他の少女たちの元に走って行った。部長の他に演出を担当している二名の少女と共に台本を睨んでいる。
演じる側の少女たちもまた真剣そのものの表情で読みあわせを行っている。舞台上は変わらない緊張感が満ちていた。
「部長、見たよ」
しばらくして名取が声を掛けると、荒々しい足音と共に部長を含めた演出担当の少女たちが揃って名取の元に走ってきた。
「どうですか?」
「うん、いいんじゃないかな。ただ、ここは科白ちょっと変えるんだよね?」
「ええ、ちゃんと相談して出しました。私と主役の意向です」
「わかった。それなら私が口を出すことじゃないな。これでやってみて」
「ありがとうございます! 次やるよ!」
ばっと名取から台本を奪い取ると、部長は舞台に立つ少女たちに大声で呼び掛けた。あっと言う間にそれぞれの立ち位置に立つと、すっと空気を引き締めて少女たちは表情を変える。
舞台上の空気が変わった。名取はそれを見届けてから、はーっと大きく息をついて舞台から離れた。
「せんせーお疲れー」
そのまま床の上に座り込むと、ふざけた口調の西村が名取の後ろから声を掛けた。北本と田沼と夏目もその後に続いてきて、揃ってくつくつと笑っている。
「笑わないでくれよー」
「だってさー」
「先生も大変だよね」
「がんばれ、先生」
年下の子ども達に慰められて、名取は苦笑した。
最近の部長はすっかり猫が剥がれ落ちている。真剣すぎて、名取のコントロールなど全く効かない。舞台の上はもう少女たちだけの世界で構成されており、その中で彼女たちがとても素晴らしい演劇を続け切磋琢磨し続けている以上、名取は口を挟めなかった。台本の直しや意見を求められた時のみ、口を出すようにしている。
凄い人ではあるが、とても怖い人となりつつある部長の扱いに少々手を焼いているのが子どもたちにも透けて見えてしまったようだ。
「それより、もう終わったの?」
「終わりましたよー。セットBかんせーでーす」
「お、凄いな。お疲れ様」
一年生たちがせっせと作っていたセットの一部が完成していた。体育館の床の上に立派に立っているセットを見ながら、名取はえらいえらい、としきりに子どもたちを褒め称えた。
少し照れたように笑った少年たちの声が響いた時、鐘が鳴った。
「お、六時か」
「ほんとだー」
「早いなあ」
「もう帰宅時間だね。おーい、そろそろやめなさい! 時間だよ!」
舞台上に向って名取が叫ぶと、少女たちの動きが止まる。まだまだ練習を行いたいのだろうが、帰宅時間だけは守らせなければならない。渋々と言った風情の少女たちはスカートを翻して舞台上の片づけを行い始めた。
「ほら、そっちも片付けしてもう帰りなさい」
「はーい」
「田沼ー、こっち持ってー」
「おう」
名取の声に従い、男子たちはせっせと大道具を片付け始める。夏目も彼らに付いて行こうとしたが、それを遮るように名取は夏目を手招いた。
「夏目、おいで」
「はい」
ベンチまで促すと、夏目は素直に名取の後を付いて行く。ベンチには荷物が山のように置かれていた。それをかきわけて並んで座る。
「この前の問題集どうだった? 全部解けた?」
「はい。今持ってます」
先日、これは家でやっておいで、と宿題代わりに渡した問題集の提出期限は今日だった。自分のカバンをがさごそと漁り、夏目は件の問題集を取り出して名取に渡した。
手渡された紙の束をぱらぱらとめくる。流し見しただけだが、大抵の問題はしっかり解けているようだった。
「わからない所とかあった?」
「特には。大丈夫でしたよ」
「そっか、もうこんなの簡単に解けるようになったかな」
「簡単じゃないですよ、頭使いましたよ」
軽口を叩いた夏目の笑顔にほっと安堵する。夏目は最近本当によく笑うようになった。勉学面においても、本人の努力の成果かもうとっくに授業内容に追いついている。
もういいだろう。そう名取は判断していた。
「うん、これだけ出来れば大丈夫だね」
ぽん、といつものように問題集で軽く頭を叩くと、夏目は何かを察知したように名取を見上げた。その眼がどうしてか揺れている。
「もう大丈夫そうだから、補習終わりにしようか」
「……え」
「明日から放課後は資料室来なくていいよ。あ、演劇部の手伝いはこのまましてくれると助かるけど」
安心させるように、ふわりとそれはもう柔らかく笑ってみせる。軽口さえ混ぜて、絶対に不安になどさせないように最大限の気を配ってそう告げた。
すると、夏目は強張った表情を一瞬だけ垣間見せる。
だが、それは本当に一瞬だけの事だった。名取が首を傾げる前に、夏目はいつもの子どもの笑顔で笑ってぺこりと頭を下げた。
「はい。今までありがとうございました」
色素の薄い髪が揺れる。感謝の言葉と共に、夏目は顔を上げると手伝ってきますと言ってそのまま友人たちの元に走って行った。
その後姿を見送りながら、抱えた問題集を見遣る。
きっともう大丈夫だろう。名取が気に留めて声を掛けてやらなくても、夏目はこのまま友人たちの中に溶け込んで行けるだろう。
彼のこれからを思えば、もう余り構わない方がいい。そう判断すると、名取はゆっくり立ち上がった。
体育館の中はまだ慌しいざわめきに満ちている。走り回る子どもたちの声が耳に優しかった。
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2009/04/14