箱庭にて -6




 さらさらとシャーペンがノートの上を走っている。
 資料室で問題を解き続ける夏目の向かいに座って、名取は演劇部の部長が叩き付けるように渡した台本に眼を通していた。台本は乱雑な赤字で埋まっている。
 夏休みに演じる演目は四月頭の部員会議で決まっており、その際に台本も提出される。基本的にその内容を夏休み前に変更する事は殆どないと聞いている。
 だが、先日の衝突があってから数日後、異例ではあるが演出内容を大幅に変更すると部長はやや一方的に宣言してきた。納得が行かない、との一言で。
 難題ではあったが、もう一人の顧問教師の佐藤はそれを了承し、その直しの部分を名取に任せると告げた。
 それから数度に及ぶ台本の直しのやり取りの際、彼女はいつだって高校三年生の少女とは思えないほどの気迫に満ちていた。名取が部の顧問になった当初は猫をかぶってしおらしくしていたようだが、最近は本性が出始めて来たようだ。部長の荒々しい書き込みが眼に痛い。
 だが、無理して大人しくされるより、勝気で真剣な今の彼女の方がずっと面白い。知らず少し笑っていた。

「先生、急に笑わないで下さい」

 小さく笑みを零したのに、夏目が反応を返す。その眼は相変わらずノートに向ってはいるものの、口元は笑っていた。
 夏目を演劇部に巻き込んでから、既に一月余り経っている。季節は雨の時期に差し掛かっていた。今日も初夏とは思えないほど冷たい雨が降り注いでいる。六月の天気はいつだって鬱陶しい。
 けれど眼の前の夏目は雨など気にしていないようにとても穏やかで、名取はそれにほっと息をつく。

「ごめんね、面白くてね」
「それですか?」
「そう、演劇部の台本の直し。部長がほんとにやる気でね」
「あの人凄いですよね」
「夏目、そう思うの? 一年の女子はみんな怖がってるみたいだけど」
「そうなんですか? 多軌は尊敬してますよ。田沼とか、北本とか西村もあの人は凄いって言ってるし」
「そうか。ありがとう、みんな偉いね」

 夏目を取り巻く友人たちは誤解されやすい性質の彼女の真摯さを解ってくれているようだ。彼女の必死さを知るだけに、名取もどこか嬉しくなる。

「偉いんですか?」
「うん。なかなかわかって貰えないだろうからね、部長のそういう所。みんなちゃんと見てくれて偉いなあ」
「そうなんですか」
「みんないい子だからかな。夏目、いい友達が出来て良かったね」

 ふわりと笑い掛けると、夏目は戸惑ったように俯き、ノートに眼を落とす。さっきまで零れていた笑顔が失せた。
 少しの逡巡の後、夏目はじっと俯いたままぽつりと小さく呟いた。

「……おれ、こんな風に友達出来たの、初めてで」

 どこか戸惑ったような声だ。知らず名取は息を詰めて夏目を見つめて、小さく声を零した。

「ここに来る前に、何かあったのかい?」

 本当にさり気なく出た言葉だった。言ってしまってから言って良かったのか気付くほど、何も考えずに零れ落ちた言葉だ。
 夏目は答えず口を噤んだ。しばしの沈黙が満ちる。
 早急すぎたようだ。やはりまだこんな質問には答えてはくれないか、と名取が諦めようとした時、夏目がすうっと息を吸った。
 深呼吸をするように、何度か吸っては吐いてを繰り返してから、夏目は天井を見上げて口を開く。

「先生は、おれがここに来る前の事、知ってるんでしたっけ」
「うん。少しだけね」
「どこまで?」
「ご親戚の家を転々としてた、くらいかな」
「そうですか」

 もう一度の沈黙。短い間、静かな空気だけが流れる。
 その沈黙を小さく、けれど確かに破ったのはやはり夏目だった。

「……先生や、塔子さんたちが、心配しているような事はありませんでした」
「え?」
「誰かに暴力を振るわれたとか、嫌な事を強要されたとか、食べさせて貰えなかったとか、そういう事はないんです。本当に、なかったんです」
「……何も、なかったのかい?」
「はい。本当に、何も。ただ」
「うん」
「ただ、おれはどこにもいなかった」

 感情をなくしたような静かな声が狭い資料室に落ちて行く。ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、夏目は淡々と喋り続けた。

「どこに行っても、おれはいないような扱いだった。最低限必要な物だけ持ってるだけで、どこでも名前を呼ばれる事はほとんどなかった。食べる物があっても、食卓で誰かがおれに話しかけて来たり、おれが誰かと話したりする事はなかった。黙って食べてるだけだった」
「……うん」
「そこにあるから、枯れたら棄てるのが大変だから、しょうがなくてたまに水を上げてる植木鉢みたいだった。誰もおれの名前を呼んだりしてくれなくて、だから」

 夏目はぎゅっと手を握り締める。顔は上を向いたまま、僅かに手が震えている。声に感情はないままだった。

「ここに来て、みんながおれを呼ぶから、最初は凄く不思議だったんです。前は、おれなんて、本当は夏目貴志なんて、存在してないんじゃないかって、そう思ってたけど」

 小さく、淡々と続く静かな声が耳に染みていくようだ。夏目はふらりと視線を彷徨わせ、感情の薄い眼差しで名取を見た。

「……先生が、おれを呼んだら、みんなも、おれを呼んでくれた」

 色素の薄い眼が名取を見ている。何も感じていないかのようなその眼に少しだけ光が滲んでいた。
 名取は声を聞きながらじっと息を詰めていた。夏目が哀れだとか、悲しいとか、そんな事を思っていた訳じゃない。ただ、ひどく心を動かされていた。
 ありきたりな言い方をするなら、ひどく感動していた。

「君は凄いね」

 ぽつりと零れた声に、夏目はぼんやりと名取を見上げる。名取の言葉が理解出来ないように不思議そうな顔をしていた。それを解っていながら、名取は夏目と眼を合わせて言葉を続ける。

「夏目はすごいなあって思ったんだよ」
「何が、ですか?」
「君はそこにいない人を演じていただけだろう、完璧に」
「いない人を?」
「うん。それは凄いことだよ」

 夏目はわからない、と言いたげな顔をする。それはそうだろう。しっかり言葉を尽くして説明したとしても夏目には解らない事だろうと名取は思う。自分ひとりが抱いている深い感慨を他人に伝えるのはとても難しい。
 きっとどんな人だって、誰からも認識されない路傍の石のように扱われたくはない。それはとても悲しいことだ。存在を認められずに生きていくのは辛いだろう。
 けれど必要に迫られた時、それを完璧に演じる事が夏目には出来ていた。感情を押し止めて、いない人で在り続けていたんだろう。
 名取はそれにひたすら感動していた。演じたくもない役割を貰っても不平不満のひとつも零さずに、ただ感情を殺して演じ続ける事がどれほど難しいか知っているからだ。
 確かに、それが出来てしまう夏目は辛かっただろうし、とても可哀想で哀れなのかも知れない。けれど名取はただ夏目を凄いと思った。哀れみなんて、彼を卑下するような感情はない。名取は自分よりもずっと幼い子どもを心底尊敬した。彼が演じ続けた日々に深い賞賛を贈りたかった。
 だからと言って、言葉を尽くしてそれを説明する必要はない気がした。笑って、ただ彼を褒めていたかった。

「夏目は本当に凄いね」

 繰り返し、笑ってそう告げる名取の笑顔に釣られたのか、夏目も少し笑った。感情をなくしていた眼に表情が戻る。
 名取がぐしゃりと夏目の髪を撫でると、彼は笑い声を上げて手から逃げた。冷たい雨音にまぎれ、狭い資料室に温もりを持った声が響いていた。



BACK  NEXT


2009/04/10