カンカンと金槌の音が体育館に響いている。
館内の半面を使用し、演劇部の大道具が作り直されていた。舞台上では夏休み中の大会で演じる演目に出演する生徒たちの稽古が行われ、隣の半面ではバスケットボール部が走る靴音が響いている。放課後の体育館は音に満ちていた。
「田沼もう平気なの?」
「全然大丈夫だよ。ありがとな、北本」
「元気ならいいんだけどさあ、何でおれまで手伝うんだよ」
「いいだろ西村。お前どうせ帰宅部で暇じゃん」
やや不服そうにする西村と一緒に、北本が荷物を担いでいる。
北本は田沼と同じクラスで共に演劇部に所属している生徒だが、西村はそうではない。北本と仲はいいが、どこの部活にも所属していないただの帰宅部だ。
それが何故セットの作成を手伝っているのかと言うと、単純に二組の担任である名取の誘いに乗ってくれたからに過ぎない。
「悪いねー、西村」
「いいんですけどー。先生、おれ演劇部入らないからね!」
「入らないの? 夏目と一緒に来ればいいのに」
ほら、と名取が指差した先、夏目もまた多軌の隣でカンコンと金槌の音を立てている。
困ったような顔は相変わらずだ。多軌の指示を受けながらも、戸惑っているような表情が伺える。
だが、それでも彼は文句の一つも零さずに名取の頼みに応えてくれている。全く律儀な子だと思う。
だが夏目一人が手伝ってくれた所で人手不足が簡単に解消できるわけではない。考えた末、名取は二組の中では比較的夏目に話しかける事が多く、北本とも仲のいい西村に声を掛けたら、嫌々ながら来てくれたと言うわけだ。
「夏目、入るって言ってるんですか?」
「とりあえず、セットが壊れちゃって人手が足りないから、夏休み前まで手伝ってってお願いしてるけど。入ってくれると私は助かるんだけどね」
「おれも助かる! 西村も来いよ」
「えー……考えとくけど……」
どうしよっかなー、と悩む西村の煮え切らない様子に北本と田沼が畳み掛けている。
作りかけのセットに張り付いているのは幼さを残す一年生ばかりだ。今日は珍しい事に一年生の女子は多軌だけで、セットを作る五人の中の四人は男子だ。女子ばかりが所属している演劇部では非常に珍しい事態だった。
人も足りない事だし、今日は夏目の補習は休みだ。せっせと働く一年生たちの傍で名取も荷を運びながら時折稽古中の上級生たちの指導をしている。もう一人の顧問教師の佐藤は今日は出張で休みだった。
「西村も夏目も来てくれるとおれ嬉しいなあ。男子増えるといいよな」
「だよなー、田沼」
からからと笑った子どもたちの顔を眺めてから、名取はするりとその場から離れた。舞台上の上級生たちの演技が張り詰めている。そのまま集中させるにしても、糸が切れてしまわぬように様子を見ておく必要があった。
そっと舞台脇に歩いて行くと、ふいに、にゃーとやや不気味な響きの鳴き声が聞こえた。
「お、猫じゃん」
北本が指差した先、開け放たれた体育館の入口から大変ぶさいくな猫が顔を覗かせている。名取のすぐ脇の戸で鳴いた猫は太っていて丸くてあまり可愛くない。猫にしか見えないけれど、猫離れしている何だかおかしい生き物だった。
「ニャンコ先生」
猫に気付いた夏目はそう呼ぶと、名取の脇をすり抜けて入口に走って行った。ぶさいくな猫は夏目を見て少し嬉しそうにまた鳴いた。
「先生、何してんだ? 散歩か?」
猫の頭を撫で、夏目が笑った。歳相応の子どもの笑顔が零れている。あんなに無邪気に笑う夏目を見たのは初めてで、名取は張り詰めた舞台の上から眼を離して夏目を見た。
子どもたちが夏目の周りに集まって来る。
「それ、夏目んちの猫?」
「そうだよ」
「うわー、すっげえぶさいくだなー」
「だろ? 変な顔してるんだ」
「太ってるなあ。名前なんて言うんだ?」
「ニャンコ先生」
「ニャンニャン?」
「いや、ニャンコ」
「ニャ……ニャン……言い辛い。ポン太でいいか?」
「別にいいけど」
「いいのかよ、夏目。つうか田沼、何でポン太?」
「言いやすいから」
黒い学ランの男子ばかり揃って猫の周りに集まり、ぶさいくだの何だの言いながらも猫を構い続けている。その三人の傍らで夏目もまた笑っている。楽しそうな笑顔だった。
「なーに? 猫ちゃん?」
男子ばかりの集まりに多軌が歩み寄った。そうして猫を囲む輪の中に入った途端、多軌は遠目で見ても解るほど大仰に震え出した。
「か……」
「か?」
「可愛い―――!!」
多軌の叫び声が聞こえた次の瞬間、猫がぎにゃあああああと悲鳴のような鳴き声を上げる。
「かわいいいい! つるふかしてる! 何これ、何この可愛い猫ちゃん!」
夏目から猫を奪い取ると、力いっぱい抱き締めて幸せそうにしている多軌に、周囲の男子たちが一斉に半歩引いた。揃って全く同じ動きをした四人の後姿を眺めて、名取はくすりと笑う。
「……可愛いか?」
「趣味悪いな」
ぼそぼそと引き気味の男子が呟く声に名取もそっと同意した。
多軌がかわいいかわいいと叫ぶ猫は非常に可愛くなかった。名取でさえも、多軌にそれは可愛いのかと心中だけで突っ込んでしまった程だ。
だが多軌は猫をぎゅうぎゅう抱き締めて幸せそうだ。そしてぶさいくな猫は恐怖に引きつった顔をして固まっていて、夏目がおかしそうに笑っている。
多軌はぎゅっと猫を抱き締めたまま、いきなりはっと顔を上げて夏目に詰め寄った。夏目が焦ったようにもう一歩引いた。
「こ、この子、夏目くんちの猫なの?!」
「う、うん。そうだけど」
「あーんかわいい!! いいなあ夏目くん!」
「そう?」
「羨ましいー! 夏目くんちいっつもこの子がいるんでしょ? ああ、遊びに行きたい!!」
ぎゅむぎゅむ猫を抱いて多軌がそう叫ぶと、西村が何か思い付いたようにぽんと手を叩いた。
「そうだ、そしたら今度みんなで夏目んち遊び行こーぜー」
「お、いいねえ。おやつ持ってくよ」
「え、いや、でも」
「何だよーダメか?」
口ごもって、一瞬顔を強張らせた夏目に西村が少し不服そうにすると、北本が西村をべしっとはたいた。
「夏目んちだって都合があるだろ。なあ夏目」
いってー、と頭を押さえる西村を見て、夏目はまたふっと表情を綻ばせた。手を振って、大丈夫だよ、と北本に示す。
「わかった、聞いてみるよ」
「おー、いいねー。何するよ」
「ゲーム持って行こっかなー、おれ」
「全員で出来るのにしろよ」
「わ、私も行っていい?! 猫ちゃんと遊んでていい?!」
「いいよ、好きなだけ遊びなよ」
「ありがとうー!!」
きゃーっと叫んで、多軌がまた猫を抱き締める。とてつもなく幸福そうな様子に、子どもたちから呆れたような笑いが零れた。
その彼らを遠目で見て、名取もまた少し笑う。
柔らかな、子どもの笑顔を零す夏目を見てとても安堵した。彼に友人が出来た事が自分の事のように嬉しく思えていた。
それと同時に、ほんの少しだけ澱んだ感傷が過ぎる。じくり、と胸が軋んだ。
「ねえ、ちょっと! それは良くないでしょう!?」
だが、和やかな笑い声や名取の心中など全て無視した怒声が舞台上から響く。名取は、はっと舞台を見上げた。
怒られたかと思ったらしい一年生たちは揃ってびくりと固まったが、舞台で叫んでいる部長は彼らを見ていない。稽古は止まっていて、部長と今回の主演を取っている部員が睨み合っている。眼を離している隙に糸が切れてしまったようだ。
名取は慌てて舞台に上がる。何とか宥めて落ち着かせなければならない。
「部長、どうした……」
だが、声を掛けようとした名取の言葉は張り詰めた舞台に上がった途端止まってしまう。和やかな子どもの笑顔も、過ぎった不穏な感覚も、少女たちを落ち着かせようとする思惑も一気に消し飛ぶ。
舞台上は気迫に満ちている。演じる世界に立ち向かう少女たちの本気がびりびりと肌に伝わった。
「どこが良くないって言うんです?」
「その科白の解釈、私は違うと思うわ」
「私はこれでいいと思ってます」
「それなら、もう一回。納得出来る演技をして」
「……はい、お願いします」
名取が踏み込む隙もない。部長と主演の少女の張り詰めたやり取りで、しんと舞台が静まり返る。すっと息を吸った少女たちの凛とした空気が舞台下の子どもたちにさえも伝わっているのが解った。
対立も、怒声も、全ては演じる事に真摯だからであって。
真剣そのものの少女たちの姿に、名取は息を呑んでいた。立ち竦んだまま声も出ない。
いつ、こんな想いをなくしてしまったんだろう。ほんの少し前まで自分自身も彼女たちと同じように、いや、それ以上に演じる事に真摯だったのに。
身体に寒気が走る。名取はぞくりと背を走る悪寒に耐えて立ち尽くした。
初夏の風がいやに冷たく体育館をすり抜けていく。柔らかな雰囲気は消え失せ、ただ澄んだ冷たい空気が子どもたちと名取の背を正していった。
また、科白が始まる。
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2009/04/08