箱庭にて -4




「先生」
「はい」
「ここ、わかりません」

 夏目が放課後に名取の資料室に通うようになって一週間経った。
 それだけ過ぎているのに、相変わらず余り抑揚のない声のまま夏目は教科書の一部を指して名取を呼んだ。机の反対側で事務作業をしていた名取は作業を止めて身を乗り出す。

「はいはい、どこ?」

 机の上、夏目の前には数学の問題集と教科書とノートが乱雑に交じり合って重なっている。
 ノートには夏目が数式と格闘した痕跡が見えた。余りきれいとは言えない字で、いくつもの数式が雑に書かれている。消しゴムで消しきれなかったシャーペンの跡が白い紙の上に残っていた。

「ここです」
「これ? これはねえ」

 数学は専門ではないが、不得意でもない。示された数式の回答を頭に思い浮かべ、名取はペンを手に取った。夏目のノートの端に代数を書き込む。

「ほら、このyにさ」
「はい」

 さらさらと数字と英字を書き込みながら例題の解説を始めようとした時、廊下からばたばたと走り込む足音が一気に近付いて来て、名取は解説を中断して顔を上げた。
 足音が急ブレーキをかけて第二資料室の前で止まる。

「名取せんせー!」

 がらっと盛大な音を立てて引き戸が開いた。夏目と名取が振り返ると、息を切らした少女が立っている。

「多軌。どうした?」
「それが先生、大変なんです!」
「何が大変なんだい」
「セットが壊れちゃった!」

 興奮した様子で喋っている少女は演劇部の一年生の多軌だ。
 演劇部は一見とても華やかそうに見えるし、活動成績が優秀なこともあって、新入部員には事欠かない。今年もたくさんの一年生が入って来た。
 だが、入部した所で一年生の間はほとんど裏方ばかりしかやらせてもらえない。華やかな活動内容を想像してきたものの、地味な裏仕事ばかりやらされてがっかりする一年生たちは、この時期になると少しずつドロップアウトしてしまうと聞いている。実際、既に退部してしまった子も数人いる。
 そんな中で、多軌はやたらと根性が有り、進んで裏方仕事に携わってくれている数少ない生徒だ。力仕事にも精を出してくれているため、名取の印象はとてもいい。
 今も、息を切らして懸命に訴える多軌の真摯さが伝わって来ていた。

「壊れちゃったって、どこが? 少しだけ?」
「ううん、大きい背景が真っ二つになっちゃって……田沼くんが下敷きになっちゃったんです!」
「ええ?! 怪我してるのか?!」
「怪我はしてないです。特にどこも痛くないって言ってるけど、佐藤先生も今日いないし、名取先生のこと呼んで来てって先輩が」
「わかった、すぐ行くよ。夏目、ごめん待ってて……あ、いや、一緒に来てくれるかい?」

 名取は立ち上がると、ぽかんと教師と少女のやり取りを眺めていた夏目の腕を引いた。驚いたような眼をした夏目を引っぱると、多軌と夏目の眼が合った。

「あ、二組の転校生くんだ」
「そうそう。多軌、今日委員会あるからそんなに人いないんだろう?」
「そうなんです。今日、男子は田沼くんしかいなくて、引っ張り出すの大変だったの」
「わかった。夏目、そう言う事なんで、悪いけどちょっと演劇部手伝ってくれるかな。少しでいいから」
「あ、ええと……わかり、ました」

 困惑したような夏目の手を引くと、呆けたままの夏目は引かれるままに立ち上がってぼんやりとした返答を返した。いきなりの展開にまごついている夏目を多軌が覗き込む。

「夏目くんだっけ。私、多軌って言うの。五組。よろしくね」
「あ、うん。よろしく」

 簡単な挨拶を交わすと、多軌はくるりと身を翻して廊下を走り出した。その後に名取も夏目を引っ張りながら続く。本来なら廊下は走るなと注意すべき所だろうが、非常事態と言えなくもないので、名取は今は何も言わないことにした。
 夕暮れの校舎には余り人気がない。部活動を行う生徒たちはそれぞれの部室や体育館や校庭に散らばっているし、帰宅部の生徒は既に家に帰ってしまっている時間だった。それを幸いに、三人は人のいない廊下を全速力で走り抜けて体育館に向う。

「せんぱーい! 名取せんせー連れてきましたぁ!」

 体育館に飛び込んだ途端、多軌が大声で叫ぶ。館内で慌てふためいたように蠢いていた生徒たちが一斉に入口を向いた。
 舞台の下に固まった少女たちの輪から数人が立ち上がって名取に手を振る。

「せんせー! 田沼くんが大変なのー!」
「聞いたよー! 田沼大丈夫かー?」
「大丈夫じゃないですよー!」
「いや大丈夫ですから先輩! おれ、全然痛くないし!」

 壊れてばらばらになったセットの横、数名の女子に囲まれた男子が慌てたように手を振る。演劇部に数名しかいない貴重な男子のうちの一人、田沼だ。
 彼もまた、女子たちばかりの中で浮くこともなく、柔らかい態度で周囲に溶け込んでいる気のいい子だ。

「田沼、大丈夫?」
「大丈夫ですよ。ほんとに全然どこも痛くないし」

 名取が駆け寄ると、田沼は少し困ったような笑顔でぶんぶん腕を振って見せた。制服や顔に汚れがついているものの、一刻を争うような状況ではなさそうだ。
 だがこういった怪我の場合、後から痛みや症状が出て来る事が多い。今は何ともなくとも、病院には連れて行かなければならないだろう。
 その詳細な判断は、名取ではなく保険医が行うべきだとすぐに決断した。

「とりあえず田沼はじっとして、誰か保健室行って先生連れて来て」
「はーい、私行きます!」

 女生徒のうちの一人がそう宣言して駆け出す。緊迫した様子の少女が大急ぎで走り去って行った。
 それを見送りながら、名取は周囲でおろおろしている子どもたちに笑い掛けた。

「大丈夫だよ。みんなそんなにばたばたしないで。心配なのはわかるけど、それじゃ却って田沼も困るから」
「は、はい」
「ごめんね、田沼くん」

 意識してふわりとした柔らかい笑みを零すと、子どもたちは少し安心したように揃って息をついた。何人かの女子が顔を赤らめていたが、それはとりあえず視界から除外しておいた。落ち着かせる為に振り撒いた笑顔で騒ぎになってしまっては逆効果だ。

「それで、何でこれ壊れちゃったんだい?」

 意識を逸らすべく、そうセットを指差して問い掛けると、子どもたちは困ったように首を傾げて口々に話し始めた。

「引っぱりだす時、割とガンガン天井にぶつかってたからじゃない?」
「床引きずってたしねえ」
「ちゃんと解体して運べば良かったのかなあ」
「だってもうこれ折れないじゃないー」
「支えの棒が細すぎると思う!」
「こんな大きく作るって思わなかったんだもん」

 ぺちゃくちゃと喋り続ける女子の声が響く。それらを総合しても、肝心な原因はやはり不確定だ。確かに、この手の騒ぎで原因を究明するのは難しいと名取もよく知っている。
 大学時代、名取は割と名の知れた芸能事務所に所属していた。そこでエキストラや端役として何度かテレビ出演などをこなしながらも、実質は大学内の演劇サークルの活動に全ての力を注いでいた。
 小さなサークルの中で、名取は今眼の前にいる生徒たちとまるで同じように自分たちでセットを作り、衣装を縫って、稽古をして、学内や小劇場で発表を行っていた。その頃も、安普請のセットや衣装はちょっとした衝撃でよく壊れていたものだ。
 ほんの数ヶ月前まで、指導する側ではなく実践する側に立っていたことを思い出す。ふっと僅かに笑みが零れた。

「まあ仕方ないか、セットってよく壊れるからね」
「そうよねー!」
「頑丈に作りすぎても、終わったら捨てるの大変だし」

 叱るでも怒るでもない、優しい声の名取にほっとしたのか、子どもたちが笑い声を零し始めた。張り詰めていた空気が緩む。

「先生、こっちですー!」

 体育館の入口から先ほど走って行った女生徒と一緒に保健医が顔を覗かせた。二人がばたばたと田沼の傍に走ってきた。
 保健医は田沼の脇に膝をつくと、さっと彼の全身を眺めてから問い掛けた。

「あらら、大丈夫? 田沼くん、どこか痛いところある?」
「どこも全然痛くないですよ」
「頭は打った?」
「倒れたわけじゃないんで打ってないと思いますけど……よくはわからないです」
「わかったわ。平気そうだけど、病院は行きましょう。救急車呼んでありますからね」
「え?! おれ、救急車とか乗った事ない!」
「大丈夫よー、救命士さんの指示通りにすればいいから」

 わたわたと手を振る田沼の焦ったような表情と穏やかに笑った保健医の顔を見て、子どもたちがおかしげに笑った。もう周囲に緊迫した雰囲気は残っていない。

「お家の方にも連絡しましょう。名取先生、一組の担任の先生から連絡を」
「はい、わかりました。田沼、カバンとか荷物は?」
「ベンチに置いてあります」
「じゃあベンチで待ってましょうね。立てるかしら」
「はい、平気……」
「夏目、手伝ってあげて」

 田沼が立ち上がろうとした時、名取は傍らで所在なさげにしていた夏目を引っ張ると田沼の横に押し出した。慌てて夏目は田沼の腕を取る。

「は、はい」
「あれ、二組の……夏目だっけ。何で来てるんだ? お前も演劇部入るの?」
「ええと、そういうわけじゃ」
「えー、どうせなら入れば? 男子多くなると助かる」
「いや……うーん」

 もごもごと困ったような返答を返す夏目は、それでも律儀に田沼を支えながら体育館の隅にあるベンチに連れて行ってくれた。
 戸惑ったような夏目と、のんびりした口調で話しかける田沼の姿を眼の端だけで見て、名取は立ち上がるとぱしんと手を叩いた。

「じゃあ片付けるよー。部長、役割分担! 先生は一旦職員室行くから、ちゃんと片付けるんだよ!」
「はーい!」

 部長が大きく返事を返し、てきぱきと部員たちに指示を飛ばして行く。ばたばたと少女たちが走り回り、壊れたセットが片付けられて行く。
 動き回る子どもたちを残し、一旦職員室に戻るべく名取は体育館を出た。走り回る子どもたちの声を背に、名取も通路を走る。
 外に出ると、遠くから救急車のサイレン音が聞こえていた。



BACK  NEXT


2009/04/06